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第25話 避難民街の火種

 夕暮れの鐘が鳴り終わらないうちに、避難民街の空気が変わった。

 路地の入り口に、人が溜まっている。手に手に、棍棒や、薪割りの斧を提げていた。三十人はいる。先頭に立っているのは、昨日、荷車の上で叫んでいたあの男だ。

 カイラが弓の弦を確かめ、ダグが大剣の柄に手をかけた。

「待て」

 二人を制した。ここで刃を抜けば終わる。虚の刃も、二人の得物も同じだ。武装した余所者が避難民の側に立った、それだけで、都の兵が動く口実になる。

 群衆が路地へ流れ込んだ。掘っ立て小屋の並ぶ一角へ、まっすぐに。

「出て行け! この国から出て行け!」

 誰かが小屋の柱を蹴った。傾いた壁板が、乾いた音を立てて崩れる。中から、痩せた女が子どもを抱えて転がり出た。

 走った。女の前に体を割り込ませ、振り下ろされた棍棒を、腕で受けた。骨に鈍い衝撃が走る。だが、それだけだ。刃は使わない。

「どけ!」

「この人たちは、何もしていない」

「知るか! お前も余所者か!」

 二撃目が来る。今度は掴んで、捻った。男が呻いて棍棒を落とす。島守の家で最初に仕込まれた組み手だ。壊さずに止める技。

 だが、三十人だった。左右から手が伸びてくる。肩を掴まれ、外套を引かれ、押され、囲まれ、足がもつれた。振り払っても、次の手が来る。一人ひとりは、どこにでもいる街の男だ。パン屋の主人か、荷役か、鍛冶の弟子か。その顔が、群れの中で、同じ表情になっていた。

「後ろ! 坊主、下がれ!」

 ダグが割り込んだ。大剣は抜かない。鞘のまま、その巨体で二人分の壁を作る。カイラは矢をつがえたまま、決して放たず、群衆の頭上を狙って威嚇の姿勢を保っていた。

 その隙に、女と子どもを小屋の裏へ逃がす。逃げる背を押しながら、女の顔を見た。見覚えがあった。アルカの城壁の内で、井戸端に立っていた女の一人だ。あの町で、汁物の椀を洗いながら世間話をしていた。名前は知らない。向こうも、こちらを覚えてはいないだろう。ただ、あの日、確かに同じ壁の内側にいた人間が、今また、火をつけられている。

 視界の端で、火が上がった。

 油をかけられた小屋が、赤い舌を伸ばして燃えている。乾いた木と、藁と、誰かの毛布が焼ける匂い。悲鳴が上がり、人が逃げ惑い、群衆までもが後ずさった。

 そこへ、都の兵が駆けつけた。槍の石突きで地面を打ち鳴らし、群衆と避難民の間へ割り入る。

 鎮まったのは、それから四半刻ほど後だ。兵は群衆を追い散らし、避難民に向かって「小屋を建て直す時は許可を取れ」とだけ言い置いて引き上げていった。誰が火を放ったのかを、調べようとする者はいなかった。

 残ったのは、燃え落ちた三軒の小屋と、地面に座り込んだ人々だ。

 エルナは、その中を動いていた。暴動の最中から、ずっとだ。倒れた者のもとへ真っ先に駆けつけ、血を止め、添え木を当て、痛みに呻く者の手を握る。細い体で男を抱え起こし、煤で汚れた顔のまま、休む気配がない。

 水を汲み、包帯を裂き、彼女の指示で動いた。押さえていろと言われた腕を押さえ、運べと言われた者を運ぶ。この場でできることは、それだけだ。刃で断てるものは、何一つなかった。

 そして、見た。エルナが、頭から血を流している男の前に膝をついている。避難民ではない。さっき、棍棒を振り上げていた側の人間だ。逃げる時に、味方の投げた石が当たったらしい。

 周りの避難民が、その男を睨みつけていた。誰も口には出さない。だが、なぜそいつを、という声にならない声が、焼け跡の空気に満ちている。

「……そいつは、こっちを襲った側だ」

 思わず、そう言っていた。

「はい」

 エルナは、手を止めなかった。

「でも、この人も、怪我をしています」

 それだけだった。彼女の中に、迷いはない。避難民か、暴徒か。正しいか、間違っているか。エルナは、その線を引かない。傷ついた者が目の前にいる。だから手当てをする。それだけのことが、この場でどれほど難しいかを、周りの目が語っていた。

 俺は、いつも選んでいた。守るべき者と、断つべき者を。刃を振るうとは、そういうことだ。線を引き、こちら側を守るために、あちら側を斬る。

 だが、エルナは線を引かない。誰の側にも立たず、痛んでいる者の傍らに立つ。どちらが正しいのか、分からなかった。ただ、俺には、なかった。彼女のような救い方が。

「この人たちも、怖いんです」

 包帯の端を歯で裂きながら、エルナが低く続ける。

「沈みが怖い。飢えるのが怖い。子どもが死ぬのが怖い。……その恐ろしさを、誰かのせいにしないと、立っていられないんだと思います。だから、こうなってしまう。誰かに、そう囁かれて」

 エルナは、まだ煙の上がる小屋の跡へ目をやった。

「憎むように仕向けた人が、どこかにいるんですよね」

 拳を握った。

 夜になって、燃え残った小屋の間を歩いた。焦げた柱に触れると、まだ熱が残っている。

 油だ。三軒とも、火の回りが同じだった。風下から順に、ではない。一度に、三箇所から。あの群衆の中に、火を放つために来た者がいた。

 ジルが焼け跡から、割れた油壺の破片を拾い上げた。

「上等な油だな。避難民街で使う代物じゃない。……ちょっと待て。この刻印」

 彼女は破片を火にかざした。

「見覚えがある。東の商会の刻印だ。あんたらが三日かけて遡った、あの四軒目」

 三日かけて遡った、あの帳面。同じ綴りに何度も現れた、あの名前。

 カルヴァス。

 この火も、あの男の手だ。恐怖を煽り、憎しみを金で買い、街を内側から軋ませていく。だが、何のために。楔を壊したいだけなら、なぜ、こんな回りくどい真似をする。

 答えは、まだ見えなかった。

 焼け跡の向こうで、エルナが、まだ誰かの手を握っている。彼女は線を引かずに救う。こちらは、線を引くことしかできない。ならば、引く場所を間違えなければいい。

 あの人の傍にいる者を、一人も減らさせはしない。そのために、あの男の狙いを、この街の誰よりも先に掴む。


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