第24話 賢者
演説の男を、翌朝から張った。
夜明け前の避難民街は、まだ湿った灰の匂いがする。昨日の焚き火の残りだ。荷車は、路地の突き当たりに置き去りにされていた。男はそこへ現れず、代わりに、痩せた子どもが荷台の下から板を引き抜いていくのを見た。
昼まで待ち、諦めて表通りへ出た。人の流れの中でも、内側の疼きは戻らない。あの気配は、一度きりで消えた。手がかりは、塀の陰で交わされた短いやりとりと、懐に収められた何かだけだ。
金が動いている。人を動かすのに、あの男たちは金を使った。ならば、その出どころを遡ればいい。刃で断てないなら、こうするしかなかった。
カイラに頼んで、扇動屋を一人捕まえてもらった。日銭で雇われた男だ。名も知らない仲介人から仕事を受けたと言い、覚えているのは受け取りに使った商会の名だけだという。それきり、男は口をつぐんで動かなくなった。
商会は、都の東、荷揚げ場のそばにあった。石造りの古い建物で、樽と麻袋の匂いが、通りにまで流れ出している。
帳場に立った番頭は、はじめ、算盤から顔も上げなかった。だが、こちらが「西の避難民街で配られた金の話だ」と切り出すと、指が止まった。目が、店の奥へ一度だけ泳ぐ。
「うちは、言われた通りに金を回しただけだ。何に使われたかなんて、知らんよ」
「誰に言われた」
「……上の口座から回ってきたんだ。名前なんぞ、こっちにゃ分からん」
その上を、たどった。三日かかった。商会から商会へ、帳簿から帳簿へ。カイラが酒場で荷役の男を掴まえ、ダグが古株の傭兵を通して口を利かせ、ジルが埃をかぶった書き付けの綴りを片端から読み解いていく。こちらは、その間ずっと店の前で待ち、出入りする者を数え、番頭が誰と会うかを見ていた。
糸は二度切れた。二軒目の商会は帳面ごと焼けたと言い張り、三軒目の主人は病を口実に会おうとしない。それでもジルが、焼けたはずの帳面の写しが役所に納められていることを突き止め、線は繋がった。
四つ目の商会の帳面で、その名を見た。
王宮に品を納める商会だった。奥の棚から出てきた古い綴りに、寄進の記録が並んでいる。学院への書物の寄贈。書写生の給金。そこに、同じ筆跡で何度も現れる名前があった。
カルヴァス。
「知ってるよ、その名前は」
宿に戻って書き写した綴りを見せると、ジルが顔を上げた。
「知ってるどころじゃない。今、王権派の中枢で、一番もてはやされてる学士だ。沈み対策の第一人者。“賢者カルヴァス”なんて呼ばれてる。……あの布告のな、御神体の調査ってやつを、学術の面から旗を振ってるのも、この男だよ」
布告と、扇動。都を割った二つの動きが、一本の線で繋がった。片方で王に楔を暴かせ、もう片方で街を憎しみで満たす。どちらも、この名前の下に集まっている。
「その男の書いたものは、あるか」
「腐るほどある。あたしも読んだ」
ジルは、床に積んだ写本の山から、迷いなく一冊を抜いた。楔の調査を正当化するための論考だという。
しばらく、部屋に紙をめくる音だけが続いた。読み進めるジルの眉が、少しずつ寄っていく。
「……妙だな」
「どうした」
「正確すぎるんだ」
ジルは、指で一節を押さえた。
「ここだ。神核がどういう理から成って、どういう条件でその力を保つのか。それが書いてある。……あのな、坊主。神核の仕組みなんて、誰も知らないんだよ。あたしですら、禁書をかき集めて、断片を拾い集めた程度だ。この国の書物という書物を読んだ上で言ってる。なのに、この男は、まるで見てきたように書いてる」
彼女は、次の頁を強く叩いた。
「もう一つ。学者ってのは、必ず出典を書く。この記述はどの書物のどの節に拠っている、とな。それが作法だ。だが、この論考の肝心なところには、出典が一つもない。書いてある分を当たっても、そんな書物は、この世に存在しない」
顔を上げたジルの目に、これまで見たことのない色があった。学者が、自分の足場が抜けた時の目だ。
「この知識は、人間の書庫からは出てこない」
背筋が強張った。楔の仕組みを、見てきたように知る者。禁書ですら削り取られている領域を、平然と書ける者。そんな人間が、王の隣に座っている。
翌日、カイラがその男の来歴を洗ってきた。
「気味が悪いくらい、何も出てこないの」
彼女は珍しく、困った顔をしていた。
「カルヴァスって男は、四年前に王都へ現れた。どこの生まれか、どこで学んだか、誰も知らない。師もいない。弟子だったこともない。ある日ふらりと王宮に現れて、その学識で王の目に留まった。……それだけよ。四年より前の記録が、この世に一つもないの」
四年前。まるで、この国に楔があると知っていたかのように現れ、まっすぐ中枢へ食い込んだ男。
荒野で対峙した、あの実行者たちの姿がよぎった。顔を布で隠し、平坦な声で、盗まれたものを返すのだと言った連中。血の代わりに黒い靄を流していた。あれが人の顔を被れるのなら。
「なら、話は早いじゃない」
カイラが弓に手をかけた。
「捕まえて、吐かせれば」
「無理だ」
ジルが遮る。
「相手は王の信任も厚い賢者様だぞ。常に護衛と取り巻きに囲まれてる。素性の怪しい余所者が、証拠もなしに、あいつは世界を滅ぼす組織の一味だと訴え出てみろ。牢に入るのは、あんたらの方だ」
拳を握った。
その通りだった。こちらには力がある。この刃なら、あるいは。だが、この国では、その力そのものが最大の禁忌だ。人前で虚の刃を抜けば、災いを宿す者として、国全体を敵に回す。
敵の名も、居場所も分かった。それでいて、手を伸ばすこともできない。
これほど、もどかしい戦いは初めてだ。魔物なら断てばいい。沈みなら押し返せばいい。だが、この敵は、人の理と人の信頼の、その厚い壁の内側にいる。刃は、そこには届かない。
窓の外で、神殿の鐘が鳴った。夕の祈りの刻を告げる音だ。この都の何万という人間が、あの鐘を聞き、御神体に守られていると信じて眠りにつく。その足元を外そうとしている男が、王の隣で賢者と呼ばれている。
調査の日まで、あと、いくらもない。
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