第23話 都の底の影
役人が読み上げるたび、人だかりがざわりと揺れた。
大通りの掲示台に真新しい木札が掛かっている。王の印が、朱く押されていた。
「——国家の安寧のため、神殿は、御神体の調査に速やかに協力すべし」
読み上げが終わっても、誰も動かない。やがて、人垣の後ろから、押し殺した声が上がった。
「聖域に手を入れる気か」
「王様は、あれを道具にする気だぞ」
「罰が当たるぞ。この国は、御神体に守られてるんだ」
声は次第に大きくなっていく。掲示台の前で白髪の男が役人に食ってかかり、職人らしい男がそれを引き剥がした。神殿を守れと叫ぶ者と、王にも言い分があると返す者。
「……とうとう、動いたか」
隣でジルが鼻を鳴らした。人混みを嫌って、少し離れた壁際に立っている。
「言っとくが、あれは今日始まった話じゃない。この国は、あの神殿の“御神体”、本当はでかい楔だがな。あれの上に成り立ってる。で、その扱いを巡って、昔から二つの派閥が睨み合ってきた」
彼女は指を二本立てた。
「神殿派。御神体は神々の遺物、祀って崇めて、俗世の手を触れさせない。要は現状維持だ。もう一つが王権派。こっちは実務家の集まりでな。あの力を国のために調べて、役立てたいと考えてる。沈み対策に、軍事に。……そして、膨れ上がった避難民問題の切り札に」
「切り札?」
訊き返すと、ジルは唇の端を歪めた。
「あの力を自在に操れたら、沈みを押し返せるかもしれん。新しい土地も拓ける。避難民を養う余裕もできる。……そう夢見てるのさ。で、今日の布告だ。王が、神殿に踏み込むと公に言った。都は真っ二つだよ」
布告の前で、人々がまだ言い争っている。神殿を守れ、と叫ぶ者。王の言い分にも理がある、と返す者。
あの楔は、この一帯を丸ごと守っている封印だ。それを人間が調べる。禁書が正しいのなら、あれは触れていいものではない。
伝えるべきか。だが、何と言って。よそ者が根拠もなく御神体に触れるなと叫んだところで、牢に放り込まれるのが関の山だ。
「政治屋の考えることは分からねえな」
ダグが腕を組んだ。
「滅びがすぐそこまで来てるってのに、聖域がどうの調査がどうのと、揉めてやがる」
「それだけ、この国が平和ボケしてるってことさ」
ジルが肩をすくめる。
「何百年も楔に守られて、滅びを他人事だと思ってる。だから目先の権力争いにうつつを抜かせる。皮肉なもんだ。その足元が揺らぎ始めてるとも知らずにな」
その日の夕暮れ、避難民街へ足を向けた。
表通りから路地を二本入るだけで匂いが変わる。焼き菓子と香辛料が消え、饐えた水と、薄い粥を煮る煙が立ち込める。同じ都の中に、別の国がもう一つ埋まっているようだった。
エルナが手当てに通っている一角だ。人の声が昨日より刺々しい。狭い路地の突き当たり、荷車を台にして痩せた男が立っていた。周りに、二十人ばかりが集まっている。
「奴らが来てから、何が良くなった! 食い物は減った。仕事は取られた。そして、西の空を見てみろ! 灰色が、日に日に近づいてる!」
男の声は、よく通った。
「避難民が、災いを呼び込んでるんだ! 奴らを追い出さなけりゃ、次に呑まれるのは、このセントリアだぞ!」
群衆が、どよめいた。そうだ、と叫ぶ声が上がる。荷車の脇では、男が同じ言葉を何度も繰り返している。西の空。追い出せ。呑まれるぞ。三つの言葉が、太鼓を打つように繰り返された。
その中に、見覚えのある顔があった。表通りの露店の主だ。先日、腹を空かせた避難民の親子を追い払っていた男。あの時は、一人でわめいていた。今は違う。周りと一緒に頷き、こぶしを突き上げている。
恐怖が形を得ていた。誰かが与えた形を。
エルナが傷ついた者の手当てを続けながら、こちらを見た。唇は固く結ばれている。彼女の前には、殴られたらしい若い避難民が座っていた。
「三日前は、あんな人だかりじゃありませんでした」
包帯を巻く手を止めずに、エルナが低く言った。
「同じ話を、別の広場でも聞きました。言葉まで、そっくり同じなんです」
演説は、四半刻ほどで終わった。男は荷車を降り、群衆に背を向けて路地の奥へ歩き出す。
その背を追った。人垣がまだ散りきらないうちに、荷車の脇をすり抜ける。
角を二つ曲がった先で、男は足を止めた。塀の陰に、もう一人いる。顔は見えない。二言、三言、短い言葉が交わされ、何かが手渡された。男は懐にそれを収めると、来た道とは反対へ去っていく。
問い質すつもりだった。あんたは西を見たことがあるのか、と。あの灰色に村を呑まれた人間に、その言葉を投げられるのか、と。
だが、路地へ踏み出そうとした足が、止まった。
内側の“無”が、ざわりと疼いたからだ。
覚えのある感触だった。あの巨大な楔と共鳴する時の、引かれるような疼きとは違う。もっと嫌なもの。継承以来、忘れたことのない、あれ。もう一つの島で、顔のない実行者と向き合った、あの時と同じ。
塀の陰の男が、ゆっくりと路地の奥へ歩いていく。
追った。
狭い路地を抜け、木戸をくぐり、干された洗濯物の下をかいくぐる。角を曲がるたび、疼きは薄れ、また濃くなった。近い。あと数歩。積み上げた木箱を回り込み、袋小路の口へ躍り出る。
そこで、途切れた。
袋小路の先は、抜け道になっていた。くぐった先は、夕暮れの大通りだ。荷車が行き交い、店じまいの声が響き、家路につく人々が肩を並べて歩いている。何百という背中。どれも、ただの人のものだった。
立ち尽くしたまま、その雑踏を見渡した。
この都に、奴らはいる。この人の海の、どこかに。
これまで、あの連中は荒野で待っていた。魔物を連れ、顔を布で隠して。断つべき相手として、はっきりそこに立っていた。
だが、ここでは違う。
人の顔をして、人の言葉を話し、人の恐怖に火をつけて回っている。誰が敵かも分からない。分かったところで、この人混みの中で刃を抜けば、災いを宿す者として追われるのは、こちらだ。
拳を握った。夜が、都に降りてくる。
あの布告も、この演説も、同じ手が動かしているのだとしたら。二日前に禁書で見た、あの削り取られた余白と同じだ。誰かが、意図して、そこに何かを書き込んでいる。
書き込まれているのは、この街に住む人間の、恐怖と憎しみだった。
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