第18話 それぞれの救い方
どれだけ、歩いただろう。
背後で、アルカが消えていくのを、一度だけ、振り返って見た。何百年も滅びに耐えてきた城壁。ひしめく人の営み。むせ返るような、生きた匂い。そのすべてが今、灰色の“無”に、静かに呑み込まれていく。あれだけ確かにそこにあった町が、ただ、無かったことになっていく。
二度と、見ることはない。
街道には、疲れ果てた避難民の列が、どこまでも続いていた。家を失い、蓄えを失い、それでも、生きて逃げ延びた人々。子を背負い、老いた親の手を引き、傷ついた足を引きずって、東へ、東へと歩いていく。誰もが、無言だ。すすり泣きの声だけが、時折、列のどこかから漏れていた。
その列のしんがりを、歩いた。
多くを救えた。それは、確かだ。だが、救えなかった者もいた。あの老人。そして、名も知らぬ、幾人か。彼らの消えた輪郭が、何度も、まぶたの裏によみがえる。
もっと、強ければ。もっと上手く、力を使えれば。あの時、全員を救えたんじゃないか。俺の力が、足りなかったから。俺が、未熟だったから。だから、あの人たちは——。
考えれば考えるほど、胸の奥が、暗く沈んでいく。咎人の血を継ぐ身なら、もっと、身を削ってでも、救わなければならなかったんじゃないか。そんな思いが、澱のように溜まっていく。
「……そんな顔しないの」
いつのまにか、カイラが、隣に並んでいた。
「あんたが、あれ以上、無理してたら。今頃、あんたが消えてた。そしたら、救えた人まで、救えなかった。ダグも、言ってたでしょ」
分かっている。頭では。だが——。
「顔に、書いてあるよ。『全部救えなかった、俺のせいだ』って。……そういうの、やめな。抱え込むの、あんたの、悪い癖だよ」
カイラの声は、いつもより柔らかい。誰かが独りで抱え込むのを、誰より許せない。それが、彼女という人間だった。
その時、少し前を行く人だかりから、エルナが、こちらへ戻ってきた。
道中、彼女は、ずっと動き通しだった。列のあちこちで、傷ついた者の手当てをし、弱った者に肩を貸し、泣く子をあやしている。戦えない彼女には、彼女の戦い方があった。
「あなたも、少し、手を診せてください」
エルナが、まだ薄く色の戻らない俺の手を、そっと取った。力を使いすぎた代償で、指先の感覚は、まだ鈍い。
「……無茶を、したんですね」
咎めるでも、労るでもない、静かな声。彼女は、俺の手を、両手で包むように、しばらく握っていた。傷を治す術があるわけじゃない。ただ、そうしているだけ。だが、その手のひらの温もりが、不思議と、強張っていたものを、少しだけ緩めた。
「私には、あなたみたいに、戦う力は、ありません」
エルナが、ぽつりと言った。
「誰かを斬って、守ることは、できない。……でも、その代わり。せめて、生き延びた人が、少しでも痛くないように。少しでも、前を向けるように。それだけは、できます」
その言葉が、俺の中の、何かに触れた。
俺の力は、斬ることで救う。壊すことでしか、守れない。だが、彼女の救い方は、まるで違う。誰も傷つけず、ただ、寄り添い、癒す。そんな救い方も、あるのか。当たり前のようで、俺の中には、なかった視点だ。斬ることばかり考えていた、その凝り固まった何かが、ほんの少し、ほどけていく。
その夜、俺たちは、避難民から少し離れた場所で、身を寄せた。
ダグが、どこからか乾いた薪をかき集めて、火を熾す。
「ま、辛気くさい顔ばっかしてても、腹は減るしな」
いつもの飄々とした調子が、戻っている。さっき、あの死闘の中で見せた、古い痛みの影は、もう、どこにもない。あえて、そう振る舞っているのだろう。俺たちの空気を、少しでも軽くするために。
カイラが、その火に手をかざしながら、エルナに、あれこれと話しかけている。エルナは、控えめに、けれど時折、柔らかく笑って応えていた。
賑やかなカイラ。飄々としたダグ。物静かなエルナ。そして、俺。妙な、四人。ついさっき、大きなものを失ったばかりなのに。それでも、この火を囲んでいると、失われなかったものも、確かに、ここにあるのだと思えた。
火が、落ち着いた頃。これからのことを、皆に切り出した。
「……源へ、行く。俺の、けじめのために。それは、変わらない」
源への道。壊された核をたどれば、その方角は、見えてくる。そして、俺の中の核が感じる、あの声たちが最も濃く嘆く方角も、同じだ。
「その方角ね」
カイラが、口を開いた。
「避難民の何人かに、聞いたんだけど。この街道を、ずっと東へ行った先に、大きな国が、あるんだって。まだ沈みの届いていない、この一帯で、一番大きな国。逃げた人の多くも、そこを目指してる」
「大国、か」
そして、もう一つ。俺の中の核は、その大国のある方角から、微かに、嫌な気配を感じ取っていた。あの島で、もう一つの島で感じた、楔が壊されていくときの、あのざわめき。
組織。奴らも、その大国の方へ動いている。確証はない。だが、源への道と、逃げる人々の行く先と、組織の気配。それが、すべて、同じ方角を指していた。
「なら、決まりだね」
カイラが、言った。ダグも、肩をすくめて頷く。エルナも、静かに頷いた。
「行こう。その、大国へ」
こうして、俺たちは、次の行き先を定めた。源へ続く道の、その途上にある、大国へ。
起きたことを、俺は、忘れない。アルカで、この世界を救うことの、途方もない難しさを、思い知った。全部は、救えない。ならば、救えるものと、救えないものを、どう選ぶのか。どうすれば、一つでも多くを救えるのか。
その問いの答えは、きっと、まだ、ずっと先にある。
そして、なぜだろう。これから向かう大国に、これまでとは、少し違う予感を覚えていた。
これまで戦ってきた相手は、魔物であり、沈みであり、形のない滅びだった。だが、人の営みの中心たる、大きな国。そこで待っているのは、ひょっとすると、まるで違うものかもしれない。人と、人とが、ぶつかり合う。そういう、争いの気配。
まだ見ぬ大国のある、東の空を見た。
新たな道が、そこから、始まろうとしていた。
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