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第17話 救えなかった手

 人々が、次々と東の街道へ逃れていく。カイラが、その先頭で声を張り上げていた。こっちだ、この道なら安全だ、と。散り散りの生き残りを繋いで歩いてきた彼女は、どの道が比較的安全か、どこで身を隠せるかを知っている。その知識が今、数千の命を導いていた。

 俺とダグは、その最後尾。迫る魔物と、沈みの縁を食い止めていた。押し寄せる影を断つ。ダグが、こぼれた分を殴り飛ばし、時に、背を庇う。二人で、逃げる人々と滅びの間に、壁を作る。

 だが、沈みは、速い。

 じりじりと、その灰色の縁は、避難の列の最後尾へと追いすがってくる。逃げ足の遅い者から、順に、その距離を詰められていく。

 そして、いた。どうしても追いつけない一団が。動けない負傷者。腰の曲がった老人。その傍を離れられずにいる家族。彼らは、列の最後尾で、じりじりと、沈みに飲み込まれかけていた。

 その中に、あの女がいた。さっき、崩れた家で見た、あの若い女。逃げ遅れた者たちの間を、駆け回っている。歩けない者に肩を貸し、うずくまる者を励まし、立たせようとする。自分だけなら、とうに逃げ切れていただろうに。

 そして、その中に、見覚えのある顔もあった。あの、老人だ。配給の列で見かけ、ならず者に絡まれていたのを、助けた——あの、痩せた老人。帰る場所をなくした、と、あの時、その目が語っていた。今は、女に支えられ、それでも足がもつれて、うまく歩けずにいる。

 間に合わせる。

 刃を振るう手を、加速させた。彼らと沈みの間に立ち、迫る縁を、片端から断っていく。断てば、その一点だけは、侵食が止まる。その僅かな時間で、一人でも多く、前へ。

 だが、沈みは、一点を止めても、両脇から回り込む。断っても、断っても、灰色は、じわりじわりと間合いを詰めてくる。追いつかない。さらに、力を注ぎ込んだ。指先が、薄らぐ。手の甲が、影と同じ色に透けていく。冷たいものが、腕を這い上ってくる。構わない。この身が、どうなろうと。ここで、一人でも多くを救えるのなら。

「ヴェイン、やめて!」

 いつのまにか、戻ってきたカイラが、叫んでいた。

「あんた、また! そんなに力を使ったら、あんたが……!」

 分かっている。分かっているが、止まれない。目の前で、消えかけている命がある。あの老人が。あの女が。他の、逃げ遅れた者たちが。手が、届く範囲に。

 だが、現実は、非情だった。

 沈みの速さは、俺の刃を上回っていた。数が、多すぎた。一人を助ければ、その間に、別の一人が、灰色に触れる。すべてを救うことなど、できはしなかった。

 すぐ目の前で。足をもつれさせた老人が、女の手から離れた。あ、と思った時には、もう遅い。老人の体が、背後から迫っていた灰色の縁に、触れる。声も、なかった。苦しむ間も、なかった。ただ、輪郭が、端から、静かに、溶けて——消えた。

 後には、何も、残らなかった。

 助けた、はずだった。あの時、ならず者から。なのに、この老人を、結局、救えなかった。

 救えなかった。

 その事実が、頭を真っ白にした。我を忘れて、さらに前へ踏み込む。もっと、力を。もっと斬れば。まだ、間に合う者がいる。この、忌々しい滅びを、少しでも押し返せれば。腕が、肘まで消えていた。視界が、揺れる。それでも、止まらない。止まれない。

「ばかやろうっ!」

 横合いから、雷のような怒声。次の瞬間、体が、強い力で後ろへ突き飛ばされていた。ダグだ。俺を、沈みの縁から、力ずくで引き剥がしたのだ。そのまま、俺のいた場所へ割り込むと、大剣を叩きつけ、逃げ遅れた者たちと沈みの間に、その巨体で壁を作った。

「おら、走れっ! まだ動ける奴は、そいつらを担いで、行けっ!」

 ダグの気迫に、逃げ遅れていた者たちが、弾かれたように動き出す。あの女も、負傷者を抱え、他の者と共に、必死に、東へと駆けていく。

 地面に尻餅をついたまま、呆然と、ダグの背を見ていた。

「……坊主」

 影を殴り飛ばしながら、ダグが、低く言った。いつもの飄々とした調子は、微塵もない。

「俺も昔、あった。目の前で……全部は、救えなかったことが。守れなかった。だから、分かる」

 その声には、俺の知らない、古い痛みが滲んでいた。

「お前が、ここで消えても、救える数は増えねえ。むしろ、減る。……お前がこれから救うはずだった、連中の分だけな」

 その言葉が、真っ白だった頭に、じわりと染み込んだ。消えかけた自分の腕を見る。あと少し、続けていたら。俺は、あの老人のように、消えていた。そして、ダグの言う通りだ。俺が消えれば、この先、俺の刃で救えたはずの命が、すべて、消える。

 奥歯を噛みしめ、注ぎ込もうとしていた力を、寸前で引いた。

 ダグが時間を稼いだ、その僅かな隙に、逃げ遅れていた者たちの、大半が、沈みの手から逃れ出た。全員では、なかった。あの老人を含め、幾人かは、間に合わなかった。だが、その多くは、生きて東へと渡った。ダグがいなければ、そして、俺があのまま消えていれば、その大半すら、失われていたのだ。

 ダグは、最後にひときわ大きく大剣を薙いで魔物を吹き飛ばすと、俺の腕を掴んで引き起こした。

「行くぞ。俺たちも、退く。ここまでだ」

 消えていくアルカを背に、避難の列へと合流した。列の中で、あの女が、こちらを見ている。歩み寄ってくると、彼女は、深く頭を下げた。

「……ありがとう、ございました。あなたたちが、いなければ、私も、あの人たちも、みんな……」

 声が、震えていた。だが、その目は、涙の奥で、まっすぐ、俺たちを見ていた。

「私は、エルナ、といいます」

 初めて聞く、名だった。

「あの……」

 エルナは、少しためらってから、続けた。

「私も、あなたたちと、行っては、いけませんか。……もう、帰る場所も、ありません。それに、私にも、できることがあるはずです。手当てくらいは、できますから」

 その申し出に、すぐには答えられなかった。だが、隣で、カイラが、柔らかく笑った。

「もちろん。一緒に来て、エルナ」

 こうして、俺たちの旅に、四人目が加わった。

 だが、その胸に、勝利の実感はなかった。大勢の民は、生きて逃げ延びた。それは、確かだ。だが、あの老人の、静かに消えた輪郭が、焼きついて離れない。

 救えば、救うほど。この手は、すべてには届かない。その事実を、俺は、思い知らされていた。

 消えゆくアルカを背に、重い足取りで、東へと歩く。煙と、汗と、疲れ果てた人いきれ。それでも、確かに生きている者たちの匂いが、列には満ちていた。あの老人が、何も残さず消えたのとは、違って。

 この、救いきれなかった痛みを、抱えたまま。


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