第16話 防衛の限界
鐘が、鳴りやまない。
崩れかけた西門の下で、刃を握り直した。
押し寄せていた。昨夜の比じゃない。半壊した門の向こう、闇色の影が、数えきれないほど、うぞうぞと蠢いている。虚の魔物。それが、堰を切ったように、アルカの壁へと殺到していた。
「ヴェイン、右だ! 抜けてくるぞ!」
ダグの怒声。地を蹴り、門の隙間から押し入ろうとする影を、横薙ぎに断つ。断たれた縁は、二度と塞がらない。
背後から、カイラの矢が、続けざまに風を切る。壁を越えようとする影の“核”を、一つ、また一つと射抜いていく。ダグは大剣の腹で、こぼれた影を殴り飛ばし、衛兵たちと肩を並べて、門の綻びを塞ぐ。
三人と、アルカの衛兵たち。総出で、必死に抑えていた。
昨夜の共闘で、噛み合いはすでにできている。俺が断ち、カイラが射抜き、ダグが守る。だが、今夜の敵は、その連携をもってしても、捌き切れる数ではなかった。押しては引き、引いては押し返される。じりじりと、門の内側へ押し込まれていく。一体でも取りこぼせば、その先には、逃げ遅れた誰かがいる。だから、止まれない。
だが、多い。
斬っても、射ても、殴り飛ばしても、影は後から後から湧いてくる。門の綻びは広がり、衛兵が一人、また一人と、影に触れられ、崩れていく。人が、消えていく。抑えきれない。
刃を振るう手を、速めた。振るうたび、指先へ、あの冷たいものが滲んでくる。まだ、いい。この程度なら、まだ動ける。一人でも、多く。そう言い聞かせて、また前へ出た。
その時、内側の“無”が、ざわりと、けたたましく騒いだ。
継承以来、感じたことのない、圧倒的な質量。まるで、巨大な何かが、地の底から、こちらを見上げているような。
風が、死んだ。血と、煙と、人の必死の匂いが、ふつりと途切れる。あの、匂いの消える感覚。
顔を上げ、門のはるか向こうを見て——息を、呑んだ。
魔物の、その後ろ。西の地平を、灰色の壁が埋め尽くしていた。
沈み。その本体だ。
魔物は、ただの先触れだった。あの無の壁が、世界を無かったことにする、あれそのものが、今、アルカへ押し寄せてこようとしている。
あまりに巨大だった。空も、大地も、境目なく、ただ一色の灰に塗り潰されている。いつか荒野で、遠くから見たあの沈みの縁とは、比べ物にならない。あれが、まるごと、この生きた町へ覆いかぶさってこようとしていた。息が、詰まる。
やがて、魔物の群れを越えて、沈みの縁が、壁の一角に触れた。
石が、消える。何百年もアルカを守ってきた城壁が、触れられた端から、音もなく、無へと溶けていく。
させるか。
溶けていく壁の縁へ、駆けた。渾身の刃を、叩き込む。
断てた。刃の触れた一点で、沈みの侵食が、止まる。
だが、それだけだった。
断った、その両脇から、沈みは、なおも溢れ、回り込んでくる。一点を止めても、無は、際限なく横へ広がっていく。魔物なら、一体を断てば、それで終わる。だが、この本体は、まるで違った。いくら消えない切れ目を刻んでも、この巨大な壁を、押し止めることなど、できはしない。
守り切れない。
その事実が、否応なく突きつけられた。
俺の力は、万能じゃない。魔物は斬れる。人を襲うものは、断てる。だが、この滅びそのものを堰き止めることは——できない。少なくとも、今の俺には。思えば爺さんも、命を削って、ほんの数刻、押さえるのが精一杯だった。その力を、継いだだけなのだ。
門の内側へ、叫んだ。
「退け! ここは、守れない! 全員、逃げろ!」
衛兵たちが、動揺する。だが、迫る灰色の壁を見れば、誰の目にも明らかだった。この壁は、もう、保たない。
やがて、避難を告げる、けたたましい鐘が、町中に鳴り渡った。長の、決断だ。守ると決めていた壁を、蓄えを、何百年の歴史のすべてを、捨てるという決断。
昨夜の評定で、あれほど割れた議論に、たった今、滅びのほうが、無理やり答えを出した。守るか、逃げるか。もう、選ぶ余地はない。逃げる。それも、一刻の猶予もなく。
アルカが、悲鳴で沸き返った。
家から飛び出す人々。子を抱え、老人を背負い、わずかな荷を掴んで、東へと、沈みと反対の方へ殺到していく。積み上げてきた暮らしを、その場に置き去りにして。
転ぶ者、はぐれる者、荷を落として立ちすくむ者。方々で、名を呼び合う声が、悲鳴に混じる。数千の人間が、一斉に、同じ方角へ雪崩れていく。その混乱そのものが、また、新たな犠牲を生みかねなかった。
その、逃げ惑う人波の中で。
一人だけ、流れに逆らって動く者がいた。
若い、女だ。崩れかけた家に駆け寄り、その下敷きになりかけた老人を、必死に引きずり出している。細い腕で、傷ついた者の体を支え、手当てをし、逃げろと背を押す。自分が逃げるより、先に。
誰もが我先にと逃げる中で。その女だけが、動けない者の傍に残っていた。
一瞬、その姿に、目を奪われた。
なぜだろう。あの背中が、どこか、他人とは思えない。人の痛みには目ざとく、自分のことは、いつも後回し。あの女は、俺と、同じ性分をしている。そう感じた。
あんな場所に残っていては、あの女も、いずれ沈みに呑まれる。分かっているだろうに。それでも、動けない者を、置いていけないのだ。
だが、声をかける暇はなかった。
「ヴェイン! ここで食い止めるしか、ないよ!」
カイラが、駆け寄って叫ぶ。ダグも、大剣を担ぎ直して、隣に並んだ。
「あの壁が来ちまえば、逃げる連中ごと、呑まれる。誰かが、ここで時間を稼がねえとな」
言うまでもない。俺たち三人が、殿になる。それしか、道はない。
迫る沈みは、待ってはくれない。
刃を握り直し、逃げる人々と、迫る灰色の壁の間に、身を割り込ませた。せめて、一人でも多くが逃げ延びるための、時間を稼ぐ。
だが、見渡せば、避難の列は、あまりに長く、あまりに遅い。老いた者、幼い者、傷ついた者。すぐには動けない者が、いくらでもいる。
そして、沈みは、速い。
全員が、逃げ切れるのか。
その問いに、頷ける材料は、どこにもなかった。
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