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第15話 二つの地獄

 町へ戻った俺たちは、その足で、町を束ねる長のもとへ向かった。

 長は、白髪交じりの、頑健そうな初老の男だ。長年、この町と、流れ着く難民たちを、その手腕一つで守り、束ねてきたのだという。執務室に通された俺たちを、彼は油断のない目で迎えた。

 見てきたことを、ありのままに告げた。西の沈みが不自然な速さで迫っていること。それを堰き止める術は、もうないこと。このままでは、遠からず、町は呑まれること。

 そして、結論を。

「……逃げる、しかありません。一人でも多くの人を連れて、この町を、捨てて」

 長は、しばらく黙っていた。そして、低い声で問い返す。

「逃げて、どこへ行く?」

「……それは」

「君は、若い。そして、外から来た。だから、簡単に言える」

 長の目は、怒ってはいない。ただ、深い疲れの色を湛えていた。

「いいか。この壁の外は、地獄だ。沈みに追われた、ならず者。野垂れ死にした難民の骸。化け物。食う物も、寝る場所も、ない。この町にたどり着くまでに、どれだけの者が命を落としたか。……君らも、見てきただろう」

 返す言葉がなかった。確かに、俺たちが歩いてきた道のりは、屍と絶望に満ちていた。

「ここには、壁がある。蓄えがある。守りがある。何千という人間が、ようやくひと息つける場所だ。それを捨てて、当てもなく荒野へ放り出す。……それが、本当に救いだと、言えるのかね」

 長の言葉は正しかった。逃げることもまた、多くの死を意味する。それは、分かっていた。

 だが。

「ここに、残れば」

 絞り出すように言った。

「全員が、死にます。例外なく。あの“無”は、壁も、蓄えも関係なく、すべてを無かったことにする。逃げれば、まだ助かる者がいる。残れば、誰も助からない。……それだけは、確かなんです」

 執務室に、重い沈黙が降りた。

「それを、信じろと?」

 長が、呻くように言った。

「何百年も、このアルカは守られてきた。沈みは、すぐそこまで来ても、決して壁を越えなかった。それが、この町の誇りであり、よすがだった。……その全てが、もう通用しないと。よそ者の、君の言葉一つで」

 その気持ちは、痛いほど分かった。俺だって、信じたくなかった。故郷が消える、あの瞬間まで、まさか、と思っていた。

「信じたくない、お気持ちは、分かります」

 静かに続けた。

「ですが、信じなかった町が、どうなったか。俺は、この目で、いくつも見てきました」

 長は、苦しげに目を閉じた。逃げれば、荒野で死ぬ。残れば、沈みに消える。どちらも、地獄。その二つを天秤にかけ、何千もの命の責任を負わされている。その重さは、想像を絶していた。

 この人は、間違っていない。ただ、守りたいだけなのだ。俺と同じように。立場が違えば、俺だって、この壁にすがりついていただろう。だから、責めることなど、できない。ただ、それでも、伝えなければならなかった。残れば全てが消える、という、ただ一つの事実だけは。

 その時、それまで黙っていたカイラが進み出た。

「あたしたちが、手伝う」

 長が、顔を上げる。

「荒野が危ないのは、知ってる。化け物も、ならず者も。でも、あたしたちなら、戦える。あの化け物を、退けられる。それは、昨日の夜、この町の人たちが、見たはずだよ」

 昨夜の襲撃。ヴェインの刃が、虚の魔物を断つ姿。それを見ていた者は、多い。

「それに、あたしは、ずっと、人を捜して、土地から土地へ歩いてきた。比較的、安全な道も、身を隠せる場所も、知ってる。当てのない逃避行じゃない。あたしが、道を案内する」

 ダグも、肩をすくめて続いた。

「ま、護衛なら、腕利きが三人、揃ってるしな。……悪くない賭けだと、思うがね」

 長は、俺たち三人を、順に見た。その目に、わずかな揺らぎが生まれている。

 絶望的な二択だったものに、細い、けれど確かな、第三の光が差し込む。逃げる、ただし——戦える者と共に。生き延びる可能性の、ある逃避行。

「……少し、考えさせてくれ」

 長は、深いため息とともに言った。

「これは、何千もの命に関わる。私の一存で、軽々に決められることではない。町の主だった者たちと、諮らねば」

「時間は、ありません」

 念を押した。

「沈みは、待ってくれない。一日、迷えば、その一日分、犠牲が増えます」

「……分かっている」

 長は、絞り出すように頷いた。

 その夜、町の、主だった者たちが集められた。薄暗い広間に、灯火の油の匂いと、張り詰めた人いきれが立ち込めている。

 評定は、紛糾した。逃げるべきだという者。最後まで、壁を信じるべきだという者。怒号と、悲鳴に近い訴え。長年、寄り添ってきた者たちの間に、深い亀裂が走る。誰もが、必死だった。誰もが、間違ってなどいない。ただ、滅びを前に、人は、こうも惑い、引き裂かれる。

 老いた者は、ここで死なせてくれとすがった。幼子を抱えた母は、どこでもいいから生きたいと叫んだ。畑を、家を、先祖の墓を、捨てられないと泣く者がいた。その一言、一言に、それぞれの人生の重みが込められている。簡単な答えなど、あるはずもなかった。

 俺は、その様子を、評定の隅で見ていた。

 昨日、自分が思ったことを噛みしめる。最も難しいのは、無を相手にすることではない。本当に、その通りだった。剣で断てる敵なら、どれだけ楽だろう。だが、人の、恐れと、迷いと、希望は、刃では断てない。

 長は、評定の上座で目を閉じ、その果てしない議論を聞いていた。やがて、彼が目を開け、口を開こうとした、その時だった。

 けたたましい鐘の音が、再び、夜を引き裂いた。

 あの、警鐘。昨夜と、同じ。いや、それよりも、ずっと激しく、長く。

 評定の場が、凍りつく。

 次の瞬間、血相を変えた衛兵が駆け込んできた。

「て、敵襲です! 西の壁に、虚の魔物が、押し寄せて……! 数が、昨夜の比じゃ、ありません!」

 ざわめきが、悲鳴へと変わる。誰も、もう、議論などしていなかった。逃げ惑う者、立ちすくむ者。一瞬で、評定は崩れ去った。皮肉なものだった。さんざん悩み、争った末の、その答えを、滅び自身が出しに来たのだ。

 決断の時は、もはや、待ったなしで訪れていた。

 誰かが選ぶより、先に。滅びの方が、扉を叩いてしまった。

 立ち上がり、刃を握る。

 もう、議論している暇はない。今は、ただ、目の前の命を、一つでも多く守るだけだ。


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