第14話 迫る壁
あの夜の襲撃は、町に深い爪痕を残した。
西門は半壊し、死者こそ出なかったものの、人々の心には、ぬぐえない恐怖が刻まれた。今まで安全だと信じてきたこの壁の中が、もう、安全ではない。その事実が、町全体を重く覆っていた。
翌朝、俺たちは決めた。迫る沈みを、この目で確かめる。何か、町を救う手立てがないか。それを探るために。
案内役には、若い衛兵が一人、買って出てくれた。昨夜、避難の指揮を執っていた、生真面目そうな青年だ。この町で生まれ育ったのだという。
「俺の家も、家族も、ここにあります。……どうか、力を貸してください」
その目は必死だった。守りたいものがある者の目だ。黙って頷いた。
西門を出て、半日。
歩くほどに、景色は変わっていった。緑が褪せ、土が乾き、やがて、生き物の気配がぱたりと絶える。あの、見慣れた滅びの予兆。近づくほどに、あの嗅ぎ慣れた匂いの無さが漂い始めた。生きているものの気配が絶えた証だ。
そして、内側の“無”がざわめき始めた。近い。沈みの、本体が。
いつしか、誰も口をきかなくなっていた。ダグでさえ、いつもの軽口を引っ込めている。荒れ果てた無人の道を、ただ黙々と進む。一歩進むごとに、空気が重く、張り詰めていく。
丘を一つ越えた、その先。
それは、あった。
地平の彼方まで。世界を横一文字に断ち切るような、灰色の壁。あの“無”が、見渡す限り横たわっていた。その境目では、まだ残っていた枯れ木が、岩が、音もなく、端から無へと溶けていく。
それは、ただ何もない、という以上の何かだった。色も、音も、匂いも奪い去った、純粋な“無”。世界にぽっかりと空いた、巨大な空白。見ているだけで、足元から崩れていくような、めまいを覚えた。
「これが……沈み」
衛兵が呆然と呟いた。遠くから霞んで見えていたものを間近にして、その圧倒的な無さに、声を失っている。
その境目を、じっと見つめた。
おかしい。
故郷で、この目で見た沈みは、もっとゆっくりと、にじむように広がっていた。だが、ここのそれは——違う。じわじわと、ではない。境目が、まるで何かに引きずられるように、目に見えて、こちらへ押し寄せてくる。
不自然だ。あまりに、速すぎる。
核を継いだ身には、分かる。これは、自然の流れじゃない。何かが無理やり、この“無”を、外へと押し出している。まるで、堰をこじ開けるように。
「……信じられない」
衛兵が首を振った。
「俺が子どもの頃は、あの灰色は、もっとずっと遠くにあったんです。何十年も、ほとんど動かなかった。それが、ここ数年で、急に……まるで、何かが、堰を切ったみたいに」
堰を、切った。
その言葉が、ある記憶と繋がった。
あの、もう一つの島で、死にゆく守り手が言っていた。連中が、楔を壊した。直後に、沈みがあふれた、と。
まさか。ここでも。
あの、顔のない連中の姿が脳裏をよぎる。確かな証拠はない。だが、この不自然な速さは、奴らがこの近くでも、同じことを——核を、楔を、壊して回った、その結果ではないか。
そして、もう一つ。
この、沈みの間際に立つと、内側の“無”が、これまでになく強くざわめいた。まるで、共鳴するように。引き寄せられるように。
その、ざわめきの奥。声たちが、いつもよりはっきりと聞こえた。数えきれない、古い、嘆きの声。だが、それは、ただ恐ろしいだけのものではなかった。耳を澄ますと、その底には、深い、深い、悲しみのようなものが横たわっている。
まるで、誰かが助けを求めて、泣いているような。どこか遠くに、長いあいだ閉じ込められた者の、嘆きのような。……いや、まさか。その不穏な想像を、頭から振り払った。
なぜ、滅びの力が、こんなにも哀しい音を立てるのか。分からない。だが、その哀しみは、引き寄せられるように、ある一点、遥か西の彼方を指し示していた。
源だ。
確信はない。だが、すべての“無”が湧き出し、すべての声が嘆く、その大本。それが、あの方角にある。俺の中の核が、そう告げていた。
手がかりは、得た。だが同時に、もっと残酷な事実も突きつけられていた。
衛兵の方を振り返る。彼に、これを告げなければならない。
「……すまない」
絞り出すように言った。
「この沈みは、もう止められない。ここには、堰き止める“核”がない。一度あふれ出したものは、誰にも押し戻せないんだ」
「そんな……」
衛兵の顔が青ざめる。
「じゃあ、町は……俺たちの町は、どうなるんですか」
答えられなかった。代わりに、ダグが静かに口を開いた。
「……逃げるしか、ねえな」
その声に、いつもの軽さはない。
「守れる壁なんて、ありゃしねえ。あの“無”が来ちまえば、終わりだ。助かりたきゃ、一人でも多く、ここを捨てて逃げる。それしか、ねえ」
逃げる。長年守られてきた、安住の地を捨てて。
言うは易い。だが、あれだけの数の人々が、果たして素直に、それを受け入れるだろうか。
「……簡単じゃ、ないよ」
ぽつりと、カイラが言った。
「あたし、いやというほど見てきた。住み慣れた土地を、離れられない人たちを。ここを出たら、どこにも行くあてがない、って。逃げてって言われて、はいそうですか、って動ける人ばかりじゃ、ないんだ」
散り散りの生き残りを、繋いで歩いてきた者の言葉だ。重みが、あった。
衛兵は、呆然と立ち尽くしていた。生まれ育った町の終わりを、告げられて。
昨日まで、彼は信じていたはずだ。俺たちのようなよそ者の力を借りれば、町は救えるかもしれない、と。その、ささやかな希望を、たった今、打ち砕いてしまった。胸が、痛む。だが、嘘の希望を与えるわけにはいかなかった。
再び、迫りくる灰色の壁を見た。それは、待ってはくれない。刻一刻と、あの、生きた町の灯りへと近づいている。
残された時間は、少ない。そして、最も難しいのは、おそらく、あの無を相手にすることではなかった。
人の、心を、動かすことだ。
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