第13話 退屈しのぎ
それは、二日後の夕暮れに起きた。
町に鐘が鳴り響いた。
けたたましい警鐘。それまでの喧騒が、一瞬で凍りつく。続いて、悲鳴。西の城壁の方から、人々が波を打って逃げてくる。
「西門が破られた! 化け物だ!」
誰かの叫び。その言葉で、すべてを悟った。
来た。沈みの、先触れだ。
逃げる人の流れに逆らって駆けた。隣を、カイラが弓を手に走る。
城壁の内側。そこは、すでに地獄だった。
半壊した西門から、黒い影が幾つも雪崩れ込んでいる。あの、虚の魔物。獣とも人ともつかない、歪んだ闇。それが逃げ遅れた人々へ、ひたひたと迫っていた。あの島で見た光景が、今、この生きた町で繰り返されようとしている。
させない。
掌の中に、黒い刃を握り込んだ。渦巻く闇を圧し固めた、一振り。地を蹴り、最も近い影へ叩き込む。断たれた縁がその一点で二度と塞がらず、影が崩れ落ちた。
一体。返す刃で、二体。
「カイラ!」
「分かってる!」
背後から、矢が風を切る。逃げ惑う女に襲いかかろうとした影の“核”を、一射で射抜いた。さすがの腕だ。
その時、横合いから、大柄な人影が躍り込んできた。
ダグだ。背の剣を抜き、雄叫びとともに影の一体へ、渾身の一撃を叩き込む。
だが——その刃は、影をすり抜けた。
いや、すり抜けたわけじゃない。確かに当たった。だが、断ち切ったはずの影は、まるで水でも斬ったように、すぐに元の形へと戻っていく。
「……は? なんだ、こいつら」
ダグの顔から、初めて余裕が消えた。続けざまに、二度、三度と斬りつける。だが結果は同じ。手応えがない。影は嘲笑うように再生する。
「ダグ! 普通の刃は効かない!」
叫んだ。
「そいつらに通るのは、俺の刃と、カイラの急所を射抜く矢だけだ! あんたは——」
「……っ、なるほどな! こちとら、専門外ってわけかい!」
ダグはちっと舌打ちしたが、その判断は速かった。斬るのをやめ、剣の腹で影を殴り飛ばす。倒すためじゃない。逃げ遅れた人々から引き剥がし、時間を稼ぐためだ。
「おら、こっちだ! 逃げろ、逃げろ!」
影を足止めし、人々を避難させていく。その動きは的確で、頼もしい。倒せないなら、守る。一瞬で己の役割を見極めたのだ。
俺が影を断つ。カイラが急所を射抜く。ダグが人々を守り、逃がす。
言葉を交わさずとも、三人の動きが噛み合っていく。先日の、二人の時とはまた違う。守りの要が加わったことで、迷いなく攻めに専念できた。
その連携は、すぐに生きた。子を抱えて逃げ遅れた母親に、影が二体迫る。ダグが片方を殴り飛ばして引き剥がし、その隙に、もう片方の急所をカイラの矢が貫いた。俺が駆けつけるまでもない。母子は無事に逃げ延びていく。
斬り伏せた影は、相変わらず、血の一滴も、匂いの一つも残さない。だが、俺たちが守るその背後には、人々の汗と、土と、必死の匂いが満ちていた。生きている、匂いだ。それを絶やさせはしない。
だが、影は次から次へと湧いてくる。西門のその向こうに、沈みの本体が迫っている証拠だった。
一体でも取りこぼせば、誰かが消える。
刃を振るう手を止めなかった。振るうたび、体の奥へ、あの冷たいものが流れ込んでくる。指先が薄らぎ始める。だが、構わない。一人でも多く守れるのなら。
「おい、坊主!」
不意に、ダグの鋭い声が飛んだ。
「テメエ、さっきから無茶しすぎだ! 顔が、真っ青だぞ!」
はっとする。見れば、自分の手が、もう肘の辺りまで、影と同じ色に透けかけていた。
「いいか、覚えとけ」
ダグは影を殴り飛ばしながら怒鳴った。
「死に急ぐな! テメエが、ここで消えてみろ。残った奴は、誰が守るんだ! 力ってのは、出し切ったら終わり、じゃねえ。続けるための、もんだろうが!」
その言葉は、カイラの引き戻しとはまた違う響きで、俺を我に返らせた。
経験者の言葉。死を間近に見てきた者の。注ぎ込もうとしていた力をぐっと抑え、刃を握り直した。
三人で捌き続けた。どれほどの時間が経ったか。やがて、最後の一体を俺の刃が断ち切ると、西門から、影の流れが途絶えた。
ひとまずの波は、去った。
城壁の内側に、荒い息と、すすり泣きと、安堵の声が満ちる。間に合った。逃げ遅れていた人々は、ダグのおかげで、一人も欠けていない。
膝に手をつき、肩で息をした。全身に、あの嫌な気だるさが残っている。危ういところだった。ダグの声がなければ。
その、ダグが、剣を肩に担いでこちらへ歩いてきた。
「いやはや、たまげたぜ」
へらへらと、いつもの笑みに戻っている。
「坊主、あんた、何モンだ。あんな化け物を、バッサバッサと。……まあ、無茶もするがな」
答えあぐねていると、ダグはふと、西門のその先を見やった。半壊した門の、その向こう。遠くない空が、あの灰色に染まりつつある。
「あれが、まだ来るんだろ。今度の比じゃ、ねえやつが」
「……ああ」
「だろうな」
ダグは、がしがしと頭を掻いた。そして、いかにも面倒くさそうに、けれどどこか楽しげに言った。
「しょうがねえ。乗りかかった船だ。あんたら、その源とやらに行くんだろ? 俺も、付き合ってやるよ」
「……いいのか」
「なに、退屈しのぎさ」
ダグは、にっと笑った。
「それに、あんたみたいな危なっかしい坊主を、放っとくのも、寝覚めが悪いんでね」
退屈しのぎ。そう嘯きながら。だが、その目の奥には、口で言うほど軽くない何かが、覗いていた。
こうして、俺たちの旅に、三人目が加わった。寡黙な俺と、賑やかなカイラと、飄々としたダグ。妙な取り合わせだ。
だが、ほっとしている暇はなかった。
ダグの言う通りだ。今、退けたのは、ほんの先触れに過ぎない。本当の沈みの波は、まだ、西の空のその向こうで、刻一刻と、この町へ迫り続けている。
俺は、灰色に滲む空を見据えた。
戦いは、まだ、始まったばかりだった。
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