第11話 人の集まる場所
その壁を遠くに見つけた時、俺は、思わず、足を止めた。
高い、石の城壁。その内側から、幾筋もの煙が、空へと立ち上っている。煮炊きの煙だ。人が、生きている。当たり前のはずのその光景が、今は、ひどく、まぶしく見えた。
ここしばらく、俺たちが歩いてきたのは、消えた村と、逃げる人の列と、ただ広がる“無”ばかりだった。生きて、根を張って、暮らしている。そんな場所は、もう、この世から失われたのかと、どこかで、思い始めていた。
邂逅の後、俺たちは、ひたすら歩いた。沈みの濃い方角を避け、人の噂をたどり、何日も。その果てに、ようやく、たどり着いたのだ。アルカ。流れ者たちが、最後に身を寄せるという、城壁の町。その噂だけは、道々、幾度も耳にしていた。
「やっと、着いた」
隣で、カイラが、息を吐いた。その声には、隠しきれない安堵が、滲んでいた。
「ここなら、きっと、人がいる。話も、聞ける」
城門は、開いていた。だが、その左右には、武装した男たちが立ち、出入りする者を、鋭い目で検めている。俺たちも、しばらく素性を問われ、武器を検められた末に、ようやく、中へ通された。
よそ者には、警戒が強い。それだけ、この町が、追い詰められている証でもあった。限られた食料、限られた場所。新しく流れ着く者が増えるたび、その分け前は、薄くなっていく。歓迎されないのも、無理はなかった。
門をくぐった、その瞬間。
音と、匂いが、どっと、押し寄せてきた。
人の、声。値切る声、呼び込む声、子どもの泣き声、笑い声。鍋の湯気。焼ける、何かの匂い。汗。土。家畜。——生きている匂いだ。
あの島で、根こそぎ奪われていた、その何もかもが、ここには、むせ返るほど、満ちていた。
石畳の通りには、所狭しと、露店が並んでいた。干し魚、野菜、繕い物、わずかな塩。買う者、売る者の、生き生きとした声。井戸の周りでは、女たちが、水を汲みながら、世間話に花を咲かせている。痩せた犬が、人々の足元を、忙しなく駆け抜けていく。
俺は、しばらく、その場に、立ち尽くした。
雑多で、騒々しくて、決して綺麗とは言えない。だが、その雑然とした生の気配が、なぜだか、胸に、迫ってきた。これだ。俺が、守りたいと願ったもの。消えていったものたちが、本当は、まだ、こうして在るはずだった、その姿。
ふと、ノル島の、あの井戸端が、重なった。芋をくれた婆さん。じゃれついてきた子どもら。あの、なんでもない一日。失われたものが、形を変えて、ここに、息づいている。胸の奥が、締めつけられるようだった。
だが、近づいて見れば、その活気の裏に、別のものも、透けていた。
道の隅に、うずくまる、痩せた家族。配給の列の、その長さ。すり切れた衣。落ち窪んだ、不安げな目、目、目。ここに集う誰もが、どこかの土地を沈みに奪われ、命からがら、流れ着いた者たちなのだ。
ふと、一人の老人と、目が合った。配給の椀を、両手で、大事そうに抱えている。その目は、虚ろで、どこか遠くを見ていた。きっと、帰る場所を、なくしたのだろう。俺たちと、同じように。
壁の中は、確かに、生きていた。だが、それは、滅びに追われた者たちが、最後に寄り集まった、脆い、仮初めの灯りでもあった。
「さて、と」
カイラが、腕まくりでもするように、両手を、ぱんと打ち合わせた。
「まずは、寝床と、飯。それから、情報集め。源のこと、組織のこと、核のこと。——こういうのは、あたしの得意分野だって、言ったでしょ」
言うが早いか、カイラは、近くの露店の女将に、気さくに話しかけていた。どこから来たのか、この町の様子はどうか、と。物怖じというものを、知らないらしい。
たちまち、女将と、打ち解けている。こんなふうに、どこででも人の輪に入っていけるのが、カイラの強みだった。散り散りの生き残りを、一人、また一人と繋いできた、あの日々が、彼女を、そうさせたのだろう。
ふと、その女将が、俺にも、欠けた椀に注いだ、薄い汁物を差し出してくれた。「あんたも、ずいぶん疲れた顔してるねえ。ほら、お飲みよ」。戸惑いながら受け取ると、ほのかな温かさが、掌に伝わってくる。具などほとんどない、塩気だけの汁。それでも、久しく忘れていた、人の親切の手触りが、そこには、確かにあった。
こんな、ささやかなものが、まだ、この世界には残っている。それだけで、強張っていた肩から、少し、力が抜けた。
俺はといえば、人混みの中で、どうにも勝手が違って、ただ立っているだけだった。これだけの人の中にいるのは、島を出て以来、初めてだ。一人ひとりの顔、声、気配が、波のように押し寄せて、どこを見ていいのか、分からなくなる。
……だが、悪い気分じゃ、なかった。
ずっと、冷たいものと、嘆きの声ばかりが、俺の傍にあった。それが今は、生きた人間の、雑多な喧騒の中にいる。それだけのことが、強張っていた何かを、わずかに、緩めてくれるようだった。
守りたい、と思った。この、騒がしくて、脆くて、それでも懸命に生きている灯りを。源にたどり着いて沈みを止めるとは、つまり、こういう場所を、こういう人々を、これ以上、消させないためなのだ。改めて、その思いが、胸に根を張った。
女将と、しばらく話していたカイラが、ふと、その表情を曇らせて、戻ってきた。
「ねえ、ヴェイン」
声を、潜めている。
「この町、長いこと、沈みから守られてきたんだって。地の利と、壁のおかげで。……でも」
カイラは、城壁の向こう、西の空を、見やった。
俺も、つられて、目を向ける。
遠い、西の空の際。そこだけが、奇妙に、色を失っていた。薄く、霞んだ、灰色。見間違えるはずも、ない。あの色を、あの感じを、俺は、嫌というほど、知っている。
沈みだ。
「最近、あれが、日に日に近づいてるって。今まで、こんなことは、なかったのに」
女将の、不安げな声が、耳に残る。せっかく、たどり着いた、生きている町。その西の空に、見覚えのある滅びの色が、確かに、滲み始めていた。
あの灰色は、止まらない。俺は、誰よりも、それを知っている。一度動き出した沈みは、堰を失えば、ただ、広がり続けるだけだ。この、ようやく見つけた灯りも、いずれは。そこまで考えて、俺は、首を振った。
ここもまた、安全な場所では、なかった。
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