第9話 絶望の砦に、湯気の立つメシを落とせ
最前線、絶望の砦。
その名は、もはや冗談でも比喩でもなかった。
砦を囲む石壁はあちこちが削れ、外郭の一部は崩れ落ちたまま積み直す余裕もない。塔の上には黒煙の跡が残り、門扉には破城槌の打撃痕が幾重にも走っている。夜風に乗るのは血と土と、乾ききった人間の匂いだった。
中庭の隅で、若い騎士が壁にもたれて座り込んでいた。甲冑の上からでもわかるほど痩せている。革袋を逆さにしても、水が数滴しか落ちてこない。喉が焼けるように痛いのに、飲めるものがない。
「まだ、起きてるか」
隣から声がした。
第一騎士団長、ガレスだ。分厚い体格を誇った男だが、今はその肩すら落ちて見えた。無精髭の下の頬が削れ、目だけがぎらついている。
「寝たら、そのまま起きられない気がして」
「起きてても同じ顔をしてるぞ」
冗談のつもりらしかった。若い騎士は笑おうとして、咳き込んだ。
砦の中は、もうとっくに限界を越えていた。
三日前に食糧が尽きた。昨日、最後の回復薬を傷の深い者に回した。今日の夕刻、鍋に入ったのは薄く塩を溶いた湯だけだった。
それでも門の外では、魔王軍が破城槌を打ち続けている。休みなく、容赦なく、まるでこちらが先に音を上げるのを知っているみたいに。
塔の上から怒声が飛んだ。
「東壁に影! 梯子だ!」
ガレスが即座に立ち上がる。
立ち上がった瞬間、一瞬だけ体が揺れた。けれど誰もそれを指摘しない。皆、自分の足元も似たようなものだと知っているからだ。
「第三班、迎撃! 弓が残っているやつはそっちへ回れ!」
「団長、矢はもう……」
「石でもいい! 手を止めるな!」
怒鳴る声に力はある。でも、その中身を支えるものがもうない。
中庭の反対側では、勇者たちがそれぞれ壁際に座り込んでいた。
『紅蓮の魔術師』の少年が、空になった魔力回復薬の瓶を握ったまま天を仰いでいる。
『大賢者』の少女は、もう何度目かわからない治癒の術式を組もうとして、途中で指を止めた。
『聖剣の主』の少年は、膝に置いた剣の刃こぼれを無言で見つめていた。
英雄。勇者。王国の希望。
そう呼ばれた彼らも、腹が減ればただの人間だ。
「王都は、何してんだよ」誰かが吐き捨てた。
責める気力も、もはや半分もない声音だった。
そのときだった。
——同じ頃。北の丘の上で、健治は冷や汗をかいていた。
千里眼で座標を取ったあと、最初にやったのは大鍋を落とすことではない。干し草の束を一つ、試しに送った。
もし当たっても怪我をしない物。それでいて着弾すれば目で確認できる物。
結果は、狙った中庭の中央から二メートルほど西にずれた。壁際に転がる干し草を、アリシアの千里眼が捉える。
「西に二。やっぱり、見えてても距離があるとこれだけブレる」
二メートル。もし人がいたら、頭を直撃していた距離だ。
健治の手に、じわりと汗が滲んだ。前の会社で検品をミスったときの「始末書」とは次元が違う。ここで間違えれば、人が死ぬ。
「次、もう一束。アリシアさん、座標を微調整してください」
「北へ二歩分。今度は中央寄りに」
二投目。中庭のほぼ真ん中に落ちた。それでも健治は、三投目の干し草が同じ地点に落ちるまで、本番の食糧を入れなかった。
「補正できますか」
「やる。もう一束」
二投目。今度は東に半歩ほどずれたが、中庭の安全圏には収まった。三投目は、ほぼ中央。
「いける」
いきなり大鍋を落として人に当たったら、補給じゃなくて事故だ。物流で言えば納品前の検品と同じ。届く前に確認する。確認してから本番を入れる。
健治は大きく息を吸い、画面を操作した。
——砦では、それはこう見えていた。
塔の上にいた見張りが、ひどく場違いな声を上げた。
「空が!」
「は?」
「空が歪んでる!」
全員が反射的に上を見た。中庭の真上。
黒い夜空の一角が、水面みたいに揺れている。青白い光が滲み、空間そのものが薄く捻じれていく。
魔王軍の新手か。砦の中に直接何かを落とす気か。
騎士たちが身構える。勇者たちも、残り少ない力を振り絞るように立ち上がった。
次の瞬間。
光の渦から、最初に飛び出してきたのは剣でも炎でもなかった。
大鍋だった。
「?」
ーー丘の上
指先が震えた。干し草とは違う。これは人の食事だ。落とす場所を間違えれば、鍋の中身がぶちまけられ、意味がなくなる。最悪、下にいる兵に火傷を負わせる。
「アリシア。中庭、人は退避してますか」
「はい。ガレス殿が下がらせています」
「行きます」
中庭の空気が、一瞬だけ吸い込まれるように薄くなった。鼓膜が詰まる。何かが「開く」直前の、あの圧。
どすん、と重い音を立てて中庭へ着地した鍋から、白い湯気がぶわりと立ち上る。石畳にひびが走った。
続いて、麻袋。木箱。樽。革袋。次々と青白い渦から落ちてくる。
焼きたてのパンの匂い。
肉と野菜を煮込んだ濃いスープの匂い。
薬草の青い匂い。
油を塗った新品の武具の匂い。
それらが、飢えた砦の空気を一瞬で塗り替えた。
「飯だ」誰かが呟いた。
その一言を合図にしたみたいに、張り詰めていた理性が崩れる。
騎士たちが、勇者たちが、中庭へよろめくように集まってくる。敵襲かもしれないと疑う余裕すら、もう彼らには残っていない。
最後の荷が渦を抜けたあと、数時間後に丘の方角から二人の人影が降りてきた。
一人は金髪の王女。
もう一人は、見慣れないスーツ姿の男。佐藤健治だった。
「遅くなりました」
アリシアの声が、砦の中庭へ通る。
健治はすぐに前へ出るでもなく、腕を組んで周囲を一瞥した。半透明の青白い画面がその目の前に広がっている。
「挨拶はあと。まず食え」
短く、それだけ言った。
「鍋は一つじゃない。パンは固いのからじゃなく、柔らかいのから回せ。胃が死んでるやつは無理に肉へ行くな。スープ、少しずつだ。噛んで飲み込め」
「お、お前……」
「神殿の」騎士の一人が呆然と呟く。
健治はそちらを見もせず、画面を操作した。
「回復薬は傷の深い順。あと、立ちくらみしてるやつは塩水も。大賢者の子、まだ術式組めるか?」
「?」
「組めるなら、重傷者だけ絞って治せ。薬と合わせれば効率が上がる」
「あ……う、うん!」少女が慌ててうなずく。
その横で、紅蓮の魔術師の少年がパンを手にしたまま固まっていた。
「食ってから立て。火力はあとで使ってもらう」
「でも、門が」
「わかってる。だから今、食わせてるんだよ」
健治の声は低いが、不思議とよく通った。怒鳴っているわけじゃない。現場を見て、必要な順に指示を飛ばしているだけだ。
若い騎士が震える手でスープの椀を持ち、一口すすった。
二口目。三口目。
泣かなかった。
表情が動かない。目は開いているのに、どこも見ていない。ただ機械のように椀を傾け、口に流し込んでいる。
「……味が、しない」
ぽつりと言った。
長すぎる飢えが、感覚を麻痺させていた。温かいはずのスープが、ただの液体として喉を通る。生きるために飲んでいるのであって、味わっているのではない。
隣にいた年嵩の騎士が、黙ってその肩を叩いた。
「明日は、するさ」
若い騎士は何も答えなかった。
中庭のあちこちで、似たような光景が広がっていた。手が震えてうまく食えない者に、隣の仲間が椀を支える。パンを噛みしめたまま、声もなく空を仰ぐ者。木箱の回復薬を見つけて、信じられないような顔をする治癒役。
誰も泣かなかった。泣く力が、もう残っていなかった。
少し前——健治は丘の上で、両手を膝について呼吸を整えていた。
手が震えていた。成功したからではない。成功するまでの数十秒間、自分が何をしたか、今になって身体が理解したからだ。空から鍋を落とした。人がいる場所に。ずれていたら、殺していた。
吐きそうになった。堪えた。堪えて、次の便の準備に手を伸ばした。
アリシアは、その光景を一度だけ強く目に焼き付けるように見たあと、ガレスのもとへ歩み寄った。
「団長。状況は」
「見ての通り、最悪です」
ガレスはそう言いながらも、目だけは少し生き返っていた。
「だが、最悪で止まった。殿下、これは」
「契約した補給です」アリシアが言う。
その返答に、ガレスは一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに健治へ視線を向けた。
「荷物持ち、ではなかったというわけか」
「最初からそうでしたよ」
健治は淡々と返し、中庭中央へ視線を戻す。画面上には、項目がいくつも並んでいた。
{
食糧投下:完了
回復薬配布:進行中
武器予備:配布待機
門前戦力:再起動まで推定18分
}
推定、とはいえ、頭の中でやるよりずっと早い。前職で嫌というほど見てきた「人員の消耗とリソースの不足」が、今は目の前で数字に近い感覚で見えている。
「ガレス団長」
「なんだ」
「門前、今すぐ立たせる人数を絞る。全員は要らない」
「何?」
「腹に入る前に突っ込ませたら倒れるだけです。今動けるやつだけで一波止める。残りは食わせて回復を待つ」
「そんな悠長な——」
「悠長じゃない。最短です」きっぱり言い切る。
「今のあんたら、気合で立ってるだけだ。気合で門は守れても、体が空なら二波目で終わる。だから最初の一波は最少で抑える。こっちはその間に、立て直せるやつを立て直す」
ガレスが歯を食いしばる。だが反論しきれない。現場を預かる者ほど、今の部下たちの足元がどれだけ危ういか知っている。
「どれだけで戻る」
「十分。いや、八分でいい。食ったら薬を回して、次を出す」
健治は画面を操作し、木箱を二つ開いた。中には整備済みの短槍と、予備の盾が入っている。
「武器の欠けてるやつから交換。重い両手武器は後回し。疲れてると振れない」
「お前、本当に何者だ」
「物流屋です」
それだけ言って、健治はまた中庭の全体を見た。
門の向こうから、破城槌の音が響く。どん、どん、と腹にくる重い衝撃。けれどさっきまでのそれとは、砦側の受け取り方が違っていた。
空腹と絶望しかなかったところへ、湯気の立つ食事と薬と予備武器が落ちてきた。それだけで、人間はまだ立てる。
「聖剣の主」少年へ声をかける。
少年はパンを三口で流し込み、慌てて顔を上げた。
「はい!」
「剣、見せて」
「え?」
「刃、死にかけてるだろ」
少年が差し出した剣は、確かにぼろぼろだった。刃こぼれ、ひび、血脂のこびりつき。ここまでよく持たせたというべきか。
健治は倉庫の一覧を開き、王都で仕入れておいた予備武器の項目を引っ張る。
「同型じゃないが、バランス近いのを出す。慣れるまで振りすぎるな」
「そんなことまで」
「前線に替えが届かないと詰むのは、剣も現場も同じだ」
新しい剣が青白い光とともに現れる。
少年はそれを受け取り、息を呑んだ。
大賢者の少女には薬と魔力回復薬を。
紅蓮の魔術師には胃に入れる順番まで指定し、無駄に焦げついた火力を出させない。
騎士たちには、誰がどれだけ動けるか見ながら、武器・盾・薬・水を回す。
健治は一歩も前線へ出ない。
剣も取らない。
ただ、彼がいるだけで砦の中の「止まりかけていた流れ」が目に見えて動き出していく。
「第二投下、準備」健治が低く言う。
アリシアがすぐに応じた。
「何を?」
「門前用の予備と、壁上に投げる軽食。あと、矢束。あるだけ」
「わかりました」
王女が即座に動く。
神殿で何も言えなかった女とは、もう少し違って見えた。
そのとき。
「門が!」見張りが叫んだ。
次の瞬間、破城槌が門扉の片側を大きく弾き飛ばした。木片と鉄の破片が散り、隙間から魔王軍の前衛が雪崩れ込んでくる。
「来るぞ!」ガレスが吠えた。
騎士たちが、一度だけ互いの顔を見る。さっきまでの目ではない。
まだ痩せている。まだ傷も疲れもある。
でも、腹の中に温かいものが入っただけで、人の目は戻る。
「行けるか」
「行けます」
「行かせてください」
「今度は、腹が減ってません」
誰かのその一言に、ガレスが笑った。
「よし。なら押し返すぞ!」
門前へ、騎士たちが駆ける。勇者たちも続く。
大賢者の少女が短い詠唱を走らせ、紅蓮の魔術師が炎の矢を放つ。聖剣の主の剣が、今度は折れずに光を引いた。
健治は中庭の中央から、画面越しにその全体を見る。
{
門前戦力:回復中
負傷者:14→9
回復薬在庫:中
矢束:不足
壁上補給:急
}
「アリシア王女」
「はい!」
「壁上の西端、矢切れ。軽食と矢束、まとめて落とします。中庭から退避指示を」
「総員、西壁から離れなさい!」アリシアの声が響く。
健治は座標を指定し、青白い渦を開く。
次の瞬間、壁上に矢束の束と小袋入りの干し肉が降った。
弓兵たちが歓声を上げる。
魔王軍の指揮官らしき影が、門の外で絶叫した。
「なぜだ! なぜ尽きぬ! なぜ立てる!」
当然だ。この世界の戦争は、補給線が前提だ。補給線を断てば勝てる。その常識で回っている。なら、最初から「補給線がない」相手はどうする。
健治は画面を見たまま、小さく呟いた。
「戦争は、前線だけでやるもんじゃない」
破片が飛ぶ。叫び声が上がる。
しかし砦側は崩れない。崩れかけるたびに薬が降り、武器が補われ、食べ物が回る。完全無欠の軍ではない。でも、「壊れたまま戦う軍」ではなくなった。それだけで戦況は変わる。
やがて門前で、ガレスの大剣が魔王軍の前衛を押し返した。聖剣の主が横合いから切り込み、紅蓮の魔術師の炎が後続を散らす。押し込まれかけていた戦線が、今度は逆に外へ吐き返すように動いた。
「押せええええ!」
砦の中に、さっきまでなかった声が満ちる。健治はそこで初めて、肩に入っていた力をふっと抜いた。まだ終わっていない。でも、とりあえず「死ぬだけの夜」ではなくなった。
そのときだった。
門の近くで倒れた魔王軍兵の一人が、もがくように腕を伸ばした。手の先には、戦利品でも武器でもなく、転がった小袋の干し肉がある。
若い魔族兵だった。角はまだ短く、頬はこけている。その目にあるのは憎悪より先に、飢えだった。
「……食い物」
かすれた声で、そう言った。
次の瞬間にはガレスの部下がその兵を取り押さえたが、その一言は健治の耳に残った。
食い物。
魔王軍の兵士が、命を懸けて欲しがるのがまず食糧。
その事実は、砦の勝利とは別の冷たいものを胸の底へ落としていく。
戦いが一段落し、中庭へ負傷者が戻り始めた頃、アリシアが健治の隣へ来た。
「助かりました」
その声には、王女の礼というより、ようやく息をつけた人間の実感があった。
「まだ一便目です」画面を閉じずに答える。
「今夜のうちに最低でもあと二回。朝まで持たせる。そのあと回復と再配備」
「はい」
「あと、捕虜を一人確保できるなら欲しい」
「尋問のために?」
「話を聞きたい」
アリシアが一瞬だけ表情を曇らせた。
「敵の事情を?」
「敵の「兵站」です」
健治は門の外、押し返されていく魔王軍の影を見た。
「さっきのやつ、腹減ってた。こっちだけが詰まってるわけじゃない」
アリシアは黙ったまま、その視線を追う。門の外、引いていく魔王軍の中にも、足元のおぼつかない兵がいる。勢いだけで突っ込んできたような、切羽詰まった動きが見える。
「そう、ですね」アリシアが低く言った。
「薄々は、感じていました」
「たぶん、悪い方の予想が当たってます」
「ええ」
中庭では、温かいスープの第二鍋が開かれ、回復薬が追加で配られている。騎士たちの顔色はまだ悪いが、さっきよりはずっと人間らしい。勇者たちも壁際にへたり込みながら、それでも生きている顔をしていた。
健治は深く息を吸い、夜空を見上げた。
補給は通した。
砦は持ちこたえた。
けれど、これで全部が片付くわけじゃない。
むしろここからだ。
人間側の兵站崩壊を止める。
そして、魔王軍の兵がなぜあそこまで飢えているのかも知らなければならない。
「王女様」
「はい」
「戦争、めんどくさいですね」
「今さらですか」
「物流屋からすると最悪ですよ。無駄が多すぎる」
「王女としても同感です」
ほんのわずか、アリシアが笑う。その横顔を見て、健治も口元だけで息をついた。
月明かりの下で笑うその顔は、泥を被っていても王女だった。育ちと覚悟と責任が、全部その輪郭に乗っている。
自分とは違う場所に立っている人だ。そう思った瞬間、さっきまで自然だった距離が、急に正しくないもののように感じられた。すぐに振り払ったが、胸の奥に小さな引っかかりだけが残った。
まだ夜は長い。補給の第二便、第三便。
第三便の座標確認を終えたアリシアが、一瞬だけ目元を押さえたのが見えた。すぐに手を下ろし、何事もなかったように次の指示を出す。聞くべきかどうか迷って、結局聞けなかった。
今はそれどころではない——と、自分に言い訳した。
負傷者の整理、武器交換、壁上への再配分。やることはいくらでもある。
ただ少なくとも今夜、絶望の砦には湯気の立つ飯がある。
それだけで、人はもう一度立てる。
そして健治は、その夜の終わりに確信し始めていた。
この戦争は、剣と魔法だけで説明できるものじゃない。
味がしないと呟いた騎士も、干し肉に手を伸ばした魔族兵も、空っぽなのは同じだった。
その空っぽを、まだ誰も埋めていない。




