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第8話 王女は、泥だらけのまま頭を下げた

 王都の紋章をつけた馬車がオークヘイブンへ辿り着いたとき、もう日暮れはすっかり終わっていた。


 村の外れの道に現れたそれは、健治の知っている「王家の馬車」のイメージからはひどく遠かった。車体には泥が跳ね、金の装飾はくすみ、車輪の片方は軋む音を立てている。馬は泡を吹く寸前で、御者台ぎょしゃだいの男は手綱を握ったまま今にも落ちそうな顔をしていた。


 馬車の後ろには、騎士が六人。

どれも王都で見たときのような整った姿ではない。鎧は泥と血で曇り、肩は落ち、頬はこけている。二人など、馬から降りた途端に膝をついた。長旅で疲れた、というだけじゃない。食っていない人間の身体つきだった。


 村人たちが、息を潜める。広場の中央へ馬車が入ってくる。やがて扉が開いて、中から一人の女が降りた。


 第一王女アリシアだった。

健治が神殿で見たときの、あの隙のない姿はない。金色の髪は埃と泥でくすみ、旅装の裾は裂けている。頬は少し痩せ、目の下にはうっすらと影が落ちていた。それでも立ち方だけは崩れていないあたりが、妙に腹立たしいというか、王族らしいというか……。


 それでも、その人が本来どれほど整った場所にいるべき人間か、逆にはっきり分かった。健治はその顔を正面から見続けるのが、どこか居心地が悪かった。

 アリシアは健治の姿を見つけると、ほんの一瞬だけ息を呑んだ。その顔には安堵と、迷いと、覚悟が同時に浮かんでいた。


「佐藤健治様」


 名前を呼ばれた。神殿では「その方」だった。それだけで空気が変わる。


「久しぶりです、王女様」


 健治はわざと事務的に返した。

アリシアはまっすぐこちらを見たまま、一歩、二歩と歩み寄る。

後ろで、村人たちが固唾かたずをのむ気配がする。ミナはトウマを自分の後ろへ庇い、村長は腕を組んだまま黙って見ていた。


 アリシアは健治の目の前まで来ると、そこで立ち止まる。そして。


 静かに片膝をついた。


 ざわっ、と広場が揺れた。

 王女が、辺境の村の土の上に膝をつく。泥で汚れることを気にする様子もなく、アリシアは頭を垂れた。


「お願いします。どうか、お力を貸してください」


 その声はかすれていたが、逃げてはいなかった。

健治はすぐには返事をしなかった。膝をつく王女を見下ろしながら、胸の奥に色んなものが一度に湧いたからだ。


 驚き。皮肉。ほんの少しの痛快さ。


 そして、思っていたよりずっと重い疲弊の色を彼女に見つけてしまったことへの、やり場のない苛立ち。


「急ですね」ようやく出た声は、思ったより平坦だった。


「神殿では『ただの荷物持ち』の分類だったはずですが」


「その通りです」


「足手まといで、王国として養う余裕もないって話でしたよね」


「はい」


「それを、今さら?」


 少しきつく言ったつもりだった。だがアリシアは顔を上げず、そのまま受けた。


「今さら、です。遅すぎると理解しています」


「だったら、なおさらでしょう」


 沈黙が落ちる。

遠くで馬が荒く鼻を鳴らした。誰かの喉が鳴る音まで聞こえそうなほど、広場は静かだった。


 やがてアリシアが、低く言った。


「あの日、あなたを追放する決定を止められなかったのは、私です」


「決めたのは老臣ろうしんたちじゃないんですか」


「ええ。ですが、止められなかった。王女でありながら、私はあの場で自分の権限を使い切れなかった」


 ようやくアリシアが顔を上げる。その目は、神殿で見たときよりずっとはっきりしていた。


「だから責任は、私にもあります」


 言い訳ではなく、引き受ける目だった。

健治はその顔を見て、言葉を失った。もっと都合のいい謝罪を想像していたのだ。見る目がありませんでした、とか、王国のためにご容赦ようしゃを、とか。もっと型どおりの詫びなら、もっと冷たく突っぱねられた。


 でもこれは少し、厄介だった。


「ん?」


 だから、あえて素っ気なく返す。


「謝りに来ただけじゃないでしょう」


「はい」アリシアは短く答え、ようやく立ち上がった。


 立ち上がったと言っても、その動きはわずかによろめいていた。すぐ後ろに控えていた若い騎士が支えようとするが、彼女は小さく手で制する。


「前線の補給線が、壊滅しました」


 その一言で、広場の空気がまた変わる。

「魔王軍は正面からぶつかってくるだけではありません。兵站線へいたんせんを狙い、橋を落とし、荷車を焼き、案内役を潰されました。三度、補給隊を出しましたが、三度とも届かなかった」


「護衛は?」


「つけました」


「意味がなかった?」


「敵が、こちらよりずっと飢えていたのです」


 アリシアの声に苦みが混じる。


「捨て身でした。食糧を奪うためなら損耗を恐れない。こちらは守るべき荷と人がある。前線へ近づくほど不利になります」


 健治は黙って聞いていた。神殿で浮かんだ予感が、嫌な形で当たっていく。補給線が切れる。前線は飢える。どれだけ強い勇者がいても、食えなければ終わりだ。


「現在、最前線の『絶望の砦』には、勇者三名と第一騎士団主力が籠城しています。食糧は尽きかけ、回復薬もほぼ底をつきました」


「どれくらい?」


「まともに食べているのは、二日に一度です」


「え?」健治の声が低くなる。


「負傷者は?」


「動ける者から先に戦線へ出ています」


「寝てる?」


「交代で、少しずつ」


「少しって何時間」


「二時間、三時間……」


 そこまで聞いて、健治は息を吐いた。

 怒鳴りたくなった。前の会社で散々見た、終わっている現場の匂いがしたからだ。


「正気ですか」


「正気ではありません」即答だった。


「分かっています。あれは、戦っているのではなく、削れているだけです。ですが、補給が届かなければ、他に方法がなかった」


 そう言った瞬間、背後で物音がした。

騎士の一人が、その場に崩れ落ちたのだ。村人たちがざわめく。ミナが息を呑み、トウマが怯えてミナの服を握る。倒れたのは二十代そこそこの若い騎士だった。甲冑の隙間からのぞく首筋は細く、唇は乾いている。傷ではない。単純な消耗だ。


「大丈夫か!?」健治は反射的に駆け寄った。


 脈はある。熱も高くない。けれどひどく軽かった。身体から中身が抜けかけているみたいな、嫌な軽さだ。


「食ってないな」


「道中、食糧を節約しておりましたので」


 近くに来たアリシアが、苦い顔で言う。


「護衛だけでも持たせるために」


「王女が?」


「皆が、です」


 その言葉に、健治はしばし黙った。

 神殿でのことをなかったことにはできない。けれど、目の前で倒れた騎士を放っておけるほど、彼はひねくれてもいなかった。


「ミナ」呼ぶと、少女はすぐに返事をした。


「うん!」


「広場の鍋、まだ残ってるな」


「あるよ」


「パンも持ってきて。まずは騎士全員に配る。肉はあと。急に重いの食わせるな」


「わかった!」ミナが走る。


 エマも何も言わずに鍋のほうへ向かい、ルークとダンが騎士たちを広場の端へ誘導し始めた。


 アリシアが一瞬、目を見開く。


「ありがとうございます」


「まだ引き受けたわけじゃないです」


 健治はそっけなく返し、倒れた騎士の肩を支えた。


「これは人としての話。仕事の話はそのあとです」


「はい」


 ほどなくして、温かいスープと小さくちぎったパンが運ばれてくる。

騎士たちは最初こそ遠慮したが、匂いを嗅いだ途端に目の色が変わった。みっともないと思う余裕すらないのだろう。


 アリシアが「食べなさい」と一言告げると、皆、震える手で木椀を受け取った。黙々と食べる音だけが響く。

 鎧姿の男たちが、たった一椀のスープにこれほど執着する光景は、見ていて痛かった。


「これで、分かりましたか」アリシアが小さく言う。


「今、王国がどういう状態か」


「分かりたくないレベルでわかりましたよ」吐き捨てるように答えた。


「戦ってる場合じゃない。まず食わせて寝かせるべきです」


「ええ」


「根性論で動いてる現場は長持ちしない」


「ええ」


「勇者だろうが騎士だろうが、水と気合いだけで戦えるわけがない」


「ええ」


 その「ええ」が妙に素直で、健治は不意を突かれた。


「じゃあ、なんで今までそうしなかったんです」


「できなかったからです」そこで初めて声を荒げた。


「私は何度も言いました。兵士を休ませるべきだと。補給が先だと。ですが王都には、前線を知らないまま『気合で持たせろ』と言う者が多い。補給線を守るより、勇者の武勲譚ぶくんたんを優先したがる者もいる」


 王女らしからぬ言葉だった。それだけ切羽詰まっているのだろう。


「なるほど」立ち上がり、アリシアを見た。


「ようやく話が通じそうだ」


 アリシアもまっすぐ見返してくる。疲れていても、その目だけは逃げなかった。


「で、俺に何をしてほしいんです」


「絶望の砦へ、食糧と回復薬と武具を届けてください」


 簡潔だった。


「あなたのスキルなら、それができるはずです」


 その言葉の直後、後ろに控えていた若い騎士が、こらえきれないように口を挟んだ。


「なら、人や馬ごと砦へ送れませんか。補給隊を組むより、そのほうが早いはずです」


 健治はすぐに首を横へ振った。


「やりません」


「できないのではなく?」


「できるかもしれない。そこが一番嫌なんです」


 健治は騎士ではなく、アリシアへ向き直った。


「生き物を入れたとき、身体に何が起きるかわからない。時間停止が呼吸や循環にどう作用するのか、魔力がある人間にどう影響するのかも不明です。俺が心臓発作でも事故死でもしたとき、中のものが全解除で出るのか、そのまま消えるのかもわからない」


「……」


「人命で試すのは輸送じゃなくて賭けです。俺はそれを現場に持ち込みたくない」


 若い騎士が言葉を失う。代わりに、アリシアが静かにうなずいた。


「人には歩いてもらいます。その代わりに——武器、防具、食糧、回復薬。人を生かすための荷物なら全部運びます」


健治は言い切った。


「では、人を運ばずに人を生かす形を作る。それで足りるようにしましょう」


「それと、空間跳躍で物を送るには、事前に正確な座標が必要です」


空間跳躍——倉庫の取り出しを離れた場所に展開する応用だ。村への配送で何度か使ったが、目の届かない距離でやったことはない。


「遠くを見るスキルが、その座標の代わりになりますか?」


「おそらくは。俺一人じゃ届け先がわからない。届け先が見えないと、安全な場所に落とせるかどうかもわからないんです」


 一人では成立しない。その制約が、むしろ健治には安心だった。一人で全部できてしまう仕組みは、どこかで必ず壊れる。それは六年間の社畜生活で、嫌というほど学んだことだ。


 できるかどうかだけで言えば、たぶんできる。ただ、問題は別だ。


「条件があります」


 健治が言うと、アリシアは一瞬もためらわずうなずいた。


「聞かせてください」


「一つ。俺はあなたの部下になりません。王国に雇われる気もない。対等な契約相手として扱ってもらう」


「受け入れます」


「二つ。兵士だけじゃなく、難民や村にも物資を回す。戦える人間だけ食わせるやり方には乗らない」


「それも、受け入れます」


「三つ」健治は少し間を置いた。


「前線の連中に残業させるな」


「……ざん、ぎょう?」


「限界まで働かせるなってことです。腹いっぱい食わせて、寝かせる。交代させる。壊れるまで使うな」


「——はい」


 アリシアの返事は、今度は少し強かった。そこには王女としての響きがあった。


「それらを約束します」


「約束じゃ弱い」


「契約書を作ります」


「いいですね」


「王家の名で」


 健治はそこで、ようやく口元を緩めた。


「話が早い」


 アリシアもごく小さく、息をつくように笑った。ほんの一瞬だったが、その顔は神殿で見た王女の仮面よりずっと人間らしかった。ただ、その空気はすぐに現実へ引き戻される。


「ただ、一つ問題があります」


 アリシアの表情がまた引き締まった。


「あなたのスキルが、事前に位置を把握した場所へ物資を送るものだという能力は、王都で簡易鑑定にかけた際に記録に残っていました」


「勝手に調べてたんですか」


「……申し訳ありません」


「続けて」


「絶望の砦の正確な座標が、今は不安定なのです」


 健治は眉をひそめた。


「地図は?」


「あります。ですが砦の外郭が一部崩れ、中庭も敵の攻撃で形が変わっています。最後に届いた斥候せっこうの報告では、「以前の座標では危険」と」


「じゃあ、今の正確な着地点が必要?」


「はい」


 それがないと、物資は壁の外か、最悪敵の真上へ落ちる。砦補給どころか、自分で状況を悪化させかねない。


「見える場所ほど精度は出ます」健治は短く補足した。


「逆に、地面が見えないほど出力位置の誤差は跳ねる。見えない場所へ大きく落とすなら、行ったことがあることと、その場所を具体的にイメージできることが最低条件です。像が曖昧なまま大量にやると、味方の頭上にも壁の外にも落ちる」


「生きてる斥候は何人?」


「一人。ですが、最後の中継をしたきり途絶えがちです。魔力通信も不安定で」


 そこまで言って、アリシアは唇を結んだ。

 健治は腕を組み、考える。物資はある。輸送手段もある。でも、落とす先が確定しない。倉庫は万能じゃない。情報がなければ動かせない。そこが、今の壁だった。


「王女様」


 健治が呼ぶ。


「遠くを見るスキル、今誰か使えますか?」


「使えます」


「使えるんだ」


「使えます。ただし、精度を上げるには高所と、できれば魔力の澄んだ場所が必要です」


「この村で一番高い場所は?」


「北の見張り丘だが、夜だぞ」と村長が口を挟む。


「夜でも見える?」


「見えます。ですが長くはもちません」


「十分です」健治は決めた。


「今から行きます」


「今から?」アリシアが目を見開く。


「急ぐんでしょう。だったら夜明けを待つ理由がない」


「ですが、あなたも道中の準備が——」


「準備ならもうできてる。俺の在庫はいつでも出せる。足りないのは座標だけです」


 広場の空気が張る。騎士たちも、木椀を持ったまま顔を上げた。

 健治はアリシアへ手を差し出した。


「高いとこまで案内してください、王女様」


「はい」


「そこで砦を見つける。見つけたら、今夜のうちに一便目を落とす」


「一便目?」


「まずはすぐ食えるものと回復薬。それで息をつかせる。武具の補充は次便でも間に合う」


 アリシアはその手を見つめ、数秒遅れて掴んだ。冷たい指先だった。けれど、握る力は確かだった。


「お願いします」


「だから、仕事ですって」健治はそう返し、自分の手を引いた。


アリシアの指先は冷たかった。でも、握り返す力は強い。王女の手だ。自分みたいな物流屋が掴んでいい手じゃない、と。そういう考えが、一瞬だけよぎって消えた。


 空を見上げた。


 丘へ向かう道すがら、アリシアはわずかに前を歩いた。護衛に見えないよう、掴んでいた方の手を外套の中へ引いた。指先にまだ残っている温度が、公務の延長にしては妙に鮮明で、それが少しだけ厄介だった。


 雲の切れ間から、細い月が出ている。北の丘の上なら、王都よりずっと視界は開けるはずだ。そこで座標さえ取れれば——。


 そのとき、スープを飲み終えた若い騎士が、かすれた声で言った。


「……どうか、急いでください」


 全員の視線が彼へ集まる。騎士は唇を震わせながら続けた。


「砦では、今日も……仲間が、水だけで立っている」


 広場がまた静まり返った。健治は短く息を吸い、吐いた。もう迷う余地はなかった。


「ミナ、ルーク、ダン。北の丘まで灯りを用意。エマさん、携行食をすぐ出せるようにして」


「わかった!」「おう!」「任せろ!」

「人をこき使う顔が板についてきたね」


 最後の一言だけ余計だったが、エマの手はもう動いていた。

 アリシアはまっすぐ健治を見て、静かに言う。


「今度は、間違えません」


「それは砦に届けてから聞きます」


 健治は背を向け、歩き出す。王都の連中に使い潰されるためじゃない。

飢えた現場を延命させるためでもない。ちゃんと食わせて、寝かせて、生き残らせるために。北の丘の上、夜の向こうにある絶望の砦。そこへ向けて、王女と健治は足を速めた。座標が取れれば、二時間。


 取れなければ、全員が間に合わない。


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