第7話 佐藤ロジスティクス、開業
三日後、オークヘイブンの広場の片隅には、簡易な掲示板が立っていた。
木板に炭で書かれた、乱雑だが機能的な表だ。
【本日の配分】
【保存分】
【交換できるもの】
【足りないもの】
読み書きが苦手な者のために、横には印も描いてある。
パンは丸。
豆は点三つ。
肉は縦線。
水は波線。
「なんか、前の会社の掲示板思い出すな……」
健治がぼそりと呟くと、隣でミナが板を見上げた。
「会社ってこういうの貼るの?」
「貼る。というか、貼っても見ないやつがいる」
「ここでもいるよ」
「だろうな」
「ルークとか」
「聞こえてるぞー!」遠くから本人の抗議が飛んでくる。
そんなやり取りができる程度には、村の空気は柔らかくなっていた。
もちろん、問題は山ほどある。食糧は継続して仕入れなければならないし、井戸の修理も必要だ。畑もこのままでは次の収穫が怪しい。けれど今は少なくとも「今日食うものがない」状態からは脱している。
その差は大きかった。
ただし、この数日で一つ失敗もあった。
隣村のラードスへの配送を、ルークに任せた日のことだ。健治の計算では朝出れば昼に届くはずだった。だがルークは途中で道を間違え、着いたのは翌朝になった。その一日の間に、ラードスの食糧は底をついた。
倉庫の保存空間は無限にある。だが運ぶのは人間の足だ。スキルが解決するのは保管と鮮度だけで「いつ、誰が、どこへ届けるか」は人の問題のまま残る。
計算通りにいかなかった一日を経て、健治は二つのことを決めた。配送はルークとダンに分担させること。ルークは足が速いが確認が甘い。ダンは遅いが、荷の数を三回数えてから出発する。同じ仕事を二人に任せるなら、性格の違いを活かしたほうがいい。
そして街道沿いに一箇所だけ、小さな荷置き場を作ること。「中間在庫」と健治は呼んだ。仕入れと消費の間にバッファを置く。物流の基本中の基本なのに、スキルに頼りすぎて忘れていた。
広場では、ダンとルークが荷車の補修をしていた。近隣の集落へ少量の豆と保存食を持っていくためだ。代わりに薪や塩を回してもらう。ほんの小さな取引。ただこういう小口が積み重なると、村は少しずつ自力を取り戻していく。
「ケンジさん」村長が歩いてきて、掲示板の前で立ち止まった。
「少しずつですが、村の中が動いておりますな」
「物があると、人は動きやすいですから」
「物だけでなく、やることが見えるのも大きいのでしょう」
「まあ、そのへんは前職仕込みです」
村長は板の文字を眺めながら、ぽつりと言った。
「不思議なものです。たかが食糧が少し増えただけで、皆の顔が違う」
「たかが、じゃないですよ。食うものがあるって、それだけでかなり違う」
「王都の人間は、そういう当たり前を忘れがちです」
「王都だけじゃないでしょうけどね」
健治は目を細めた。数字と効率の奥で、何が削れているかを見ないふりするのはどこでも同じだ。
村長は少し黙ってから、ふっと口元を緩めた。
「ところで、その拠点の名前ですが」
「まだ考えてません」
「いつまでも「ケンジの家」では不便ですぞ」
「別に不便では」
「不便です。子供らが勝手に呼び始めておりますので」
「厄介なことになりそうだな」
ちょうどそのとき、トウマが友達らしい子供を二人連れて走ってきた。
「ケンジー! 今日もおうちから出すの?」
「おうちじゃない」
「じゃあ、ケンジのくら!」
「雑だな」
「くらじゃないなら、なんなの?」
「拠点?」
「きょてんってなに?」
健治は返答に詰まった。後ろでミナがにやにやしている。
「ちゃんとした名前、ないの?」
「いる?」
「いるよ。あったほうがかっこいいし」
「その基準かよ」少し考える。
名前。商会名。屋号。
前の世界なら、たぶん無難に横文字をつけていた。だがこの村で、それをそのまま言っても通じにくい。
「佐藤ロジスティクス」
半分冗談で口にした。
前の世界で独立した同僚がいた。三ヶ月で戻ってきた。「自分の名前で仕事するって、思ったよりキツいよ」と笑っていた。あのとき健治は、そっち側に行く自分を想像できなかった。
——異世界に来て、初めて自分の名前を看板にしようとしている。
その場にいた全員が、しばし沈黙する。
「長い」真っ先に言ったのはミナだった。
「長いな」
「長いですな」
「ロジ……すてぃ……なんだって?」
「だから、佐藤ロジスティクス」
「もっと長く聞こえた」エマが腕を組んで言う。
「舌を噛みそうだよ。却下」
「即却下って」
「佐藤ロジ、でいいじゃない」
「略すの早くない?」
「呼べる名前のほうが大事だよ」
「それはまあ、そうだけど」
トウマが元気よく叫ぶ。
「さとうろじ!」
「決まりだな」ルークが笑う。
ダンもつられて吹き出した。
健治は天を仰いだ。正式名称を一応考えたのに、村人の合理性に、秒で負けた。
「まあ、いいか」
呼び易いほうが良い。どうせ名前なんて使われて定着してからが本番だ。
「じゃあ、ここは『佐藤ロジ』で」
「よし、決まりだな」
「正式には佐藤ロジスティクスですぞ」
「村長まで乗るのか」
広場に小さな笑いが広がる。その響きを聞きながら、喉の奥に、じわりとあたたかいものが込み上げた。
悪くない名前だ。少なくとも、どこかの会社の格好だけ立派な横文字ブランド名よりはずっと。
その日の夕方、健治は佐藤ロジの土間に一人で立っていた。倉庫の一覧を開き、在庫を確認する。
パン。干し豆。塩漬け肉。野菜。果物。
保存の利くものと、優先して出すべきもの。
一覧の端に、見覚えのない項目がある[召喚儀式用巨大魔石x1]
王宮を追い出されたとき、手切れ金の革袋に紛れていたあの青黒い石か。やたらに重かった記憶はあるが、使い道はまったくわからない。
注釈欄に「高熱で体積・質量が膨張。冷却で復元」とある。膨張するから「巨大」か。神殿では魔術師が加熱して使っていたのだろう。今の自分には関係ない。放っておく。
それに加えて、村側の在庫も頭に入れる。誰が何日分持っているか。どこが足りないか。近隣と交換できるものは何か。
画面の青白い文字を見ていると、不思議と落ち着いた。同じ在庫管理でも、その先に誰かの腹が満たされると思うと、不思議と胃が痛まない。
「ケンジさん、また一人で見てる」
振り向くと、戸口にミナがいた。手には干した果物の皿がある。
「差し入れ。エマさんが『手が止まるなら食べろ』って」
「それ、止まらないように食えって意味にも聞こえる」
「そうとも言う」
ミナは皿を置くと、倉庫画面を覗き込もうとして、当然何も見えずに首をかしげた。
「ほんとに、そこにいっぱい入ってるんだ」
「入ってる」
「変なの」
「俺もそう思う」
「でも便利」
「うん。便利すぎてちょっと怖い」
ミナは少し考えてから、真顔で言った。
「じゃあ、ケンジさんが怖くならなきゃいいんじゃない?」
「どういう理屈」
「便利なものって、人が変になるんでしょ。村長が言ってた」
「村長、妙に本質つくな……」
「でもケンジさん、前よりちゃんと人に頼るようになったよ」
「まだ途中だよ」
「最初の日、全部自分で見ようとしてた」
「見てたのか」
「うん。見てた」
逃げ場のない返答だった。健治は干し果物を一つつまみ、口に放り込む。甘みは薄いが、噛むほど味が出る。
「まあ、気をつける」
「うん。それでよし」
ミナは満足げにうなずいた。十歳そこそこの子に管理されている気がして、健治は少し笑う。
◆ ◆ ◆
翌朝、厄介な客が来た。
広場の入口に、一頭立ての地味な馬車が止まっている。王都のもの。しかし、紋章は商業ギルドのものだった。
降りてきたのは、痩せた中年の男だ。黒縁の眼鏡をかけ、革の帳面を小脇に抱えている。目つきは穏やかだが、口元が笑っていない。見覚えがあった。王都の市場で、廃棄委託の件で最後にこちらを睨んでいた検査官だ。
「佐藤殿、でしたか」
「はい」
「商業ギルド管理局の者です。廃棄委託処理に関する現地調査にまいりました」
調査。名目はそうだろう。けれど、わざわざ王都から数日かけて辺境まで来る「調査」がただの確認のわけがない。
「帳簿を見せてください」
「どうぞ」
健治はあっさり応じた。隠すものはない。配分表も、入荷記録も、全部ミナの帳面に書いてある。
検査官は帳面を一枚一枚めくった。丁寧に、ゆっくりと。ときどき数字を指で押さえ、自分の帳面に何かを書き写す。
ルークが横で不安そうにしていた。エマは腕を組んで、露骨に不機嫌な顔をしている。
やがて検査官は帳面を閉じ、眼鏡を押し上げた。
「佐藤殿。廃棄委託処理の量が、個人の処理範囲を大幅に超えています」
「それは……」
「現時点では違反とは申しません。ただし、今後は四半期ごとの処理量報告書を提出していただきます。書式はこちらから送ります」
検査官は革帳面から一枚の紙を引き抜き、健治に渡した。
「あと、処理品の流通先の記載も」
「流通先?」
「どこへ、何を、いくつ。ギルド登録なしの流通が一定量を超えた場合、是正勧告の対象になります」
健治は紙を受け取った。文字が細かい。役所仕事の匂いがする。
「わかりました」
「ご協力感謝します」
検査官は丁寧に頭を下げ、馬車に戻った。去り際にちらりと佐藤ロジの看板を見たが、何も言わなかった。
その背中を見送りながら、エマが言った。
「あれ、嫌がらせだろ」
「たぶん」
「たぶんじゃないよ。目が笑ってなかったもの」
健治は渡された紙を畳んで懐にしまった。
禁止はされていない。でも、報告義務が増えた。書類の負担は地味に効く。そしてこの手の「調査」は、一度来たら二度目がある。三度目には別の名目がつく。
面倒ごとの入口に立った感覚があった。でも、今は走るしかない。立ち止まれば、この仕組みごと潰される。
そのとき、外から慌ただしい足音がした。誰かが走ってくる。広場のほうで声が上がる。
「村長! 村長、いるか!」
健治とミナは顔を見合わせ、同時に外へ出た。見張りに出ていた若い男が、息を切らして広場へ飛び込んでくる。顔色は青い。額に汗がにじんでいた。
「王都から……王都の紋章をつけた馬車が、こっちへ向かって来てる!」
「王都だと?」
「騎士もいる! ただ、様子がおかしい。馬も人も、みんなボロボロで……」
村長が表情を険しくする。広場の空気が一気に張り詰めた。
ミナが無意識にトウマを自分の後ろへ引いた。ダンとルークは作業の手を止め、村の外れの道を見る。エマは舌打ちして鍋の火を弱めた。
健治は何も言わず、王都の方角を見た。穏やかじゃないな。
けれど同時に、どこかでわかってもいた。
王都の連中が、自分をただ追い出して終わるはずがない。もし本当に、自分のスキルの価値に気づいたなら。あるいは、よほど切羽詰まった事情ができたなら。
夜風が、乾いた土の匂いを運んでくる。
小さく育ち始めたこの村の平穏が、そこでいったん止まった。
王都の馬車が、この辺境まで来る。
その意味を、健治はまだ掴みきれていなかった。
ただ一つだけ確かなのは——今度来る連中は、きっと「倉庫」を笑いには来ない、ということだった。




