第10話 補給線なき軍隊と、眠れる兵士たち
絶望の砦に最初の補給が落ちてから、二日が経った。その二日で変わったものは多い。だが、いちばん大きかったのは、剣でも薬でもない。
眠れるようになったことだ。
夜明け前の砦は、まだ冷える。石壁の隙間から入る風は容赦なく、横たえられた毛布は相変わらず硬い。門の修復も東壁の補強も終わっていない。敵がまた押し寄せれば、決して楽な戦いにはならない。
それでも、砦の中には確かに「眠っている人」がいた。
壁際に並べられた簡易寝台。その上で、鎧の留め具だけ外した騎士たちが、ぐったりと、しかし穏やかな呼吸で目を閉じている。ほんの数日前まで、二時間おきに叩き起こされ、水だけで持ちこたえていた連中だ。
寝息がある。それだけで、砦の空気はずいぶん違って見えた。
「寝てるな」中庭の端で腕を組んだガレスが、ぽつりと呟く。
健治はその隣で、青白い一覧画面を眺めながらうなずいた。
「寝かせたからです」
「言い方が軽いな」
「軽くないですよ。補給より厄介なんだから」
ガレスは低く笑った。
「違いない」
中庭の中央では、エマと王都側の補給係に臨時任命された騎士たちが、大鍋の周りで朝の配分を決めている。初日は一から十まで健治が指示を飛ばしたが、二日も経つと現場の回り方が変わった。
まず、食糧は「届いた順に奪い合うもの」ではなくなった。
朝に何を出し、昼に何を回し、夜に何を残すか。
重傷者、夜番明け、門前班、壁上班、治癒係。
順番が見えれば、人は少し落ち着く。
回復薬も同じだ。誰にでも配るのではなく、深い傷、発熱、感染兆候、魔力枯渇、それぞれに優先がつく。水と塩も、ただの「ついで」ではなく、動ける身体を維持するための資源として見られるようになった。
たった二日。ただ二日あれば、現場は変わる。
「おい、物流屋」
後ろから声がした。
振り向くと、『聖剣の主』の少年が、替えたばかりの剣を肩にかけて立っていた。名をレオンという。まだ十七か十八だろうに、ここ数日で、どこか顔つきが締まっていた。
「剣、慣れた?」
「まだ少し重い。でも折れないだけでありがたい」
「それはよかった」
「礼を言いに来た」居心地悪そうに言う。
「最初、あんたのこと、正直なめてた」
「だろうな」
「神殿で見たとき、俺も「倉庫か」って思った」
「素直でよろしい」
「今思うとぶん殴られても文句言えない」
「俺、前線に出ない主義なんで」そう返すと、レオンは笑った。
以前ならもっと刺々しかったのだろうが、今の彼にはその余裕がない。あるいは、ようやく余裕が戻ってきたのかもしれない。
「でも、本当に助かった。剣だけじゃない。飯も、薬も、寝る時間も。俺たち、あれがないと多分……」
「わかってるなら次から無茶するな」
「したくてしてるんじゃない」
「それも知ってる」画面から目を離さず言う。
「だから、無茶しなくていい形にするのがこっちの仕事です」
「あんたさ」
「何」
「たまに、すげえムカつくくらい正しいこと言うよな」
「褒め言葉として受け取っとく」
レオンはしばらく黙って、剣の柄に手を置いた。
「おっさんさ」
「おっさん言うな」
「俺にはこれしかないんだ」 剣を軽く持ち上げる。
「前に出て、斬る。それだけ。おっさんみたいに、流れを作って人を生かすのは、俺にはできない」
健治は首を振った。
「俺は前に出たら三秒で死ぬよ。それができるのは、お前だけだ」
「お互い、足りないな」
レオンが少し笑った。それは、初めて見せる、勇者ではなく十七歳の少年の顔だった。
レオンは肩をすくめると、そのまま壁上の持ち場へ戻っていった。召喚のとき、名前を聞かれて「レオン」と堂々と名乗ったらしい。本名じゃないだろう。漫画かゲームだ。あとで聞いたら「とっさに出た。かっこいいだろ」と笑っていた。全部がそういう奴だ。
レオンが去ったあと、健治はしばらく画面に向かっていた。背後で、石を蹴る音がした。
「なあ」
振り向くと、「紅蓮の魔術師」の少年が壁にもたれていた。名はカイル。勇者三人の中で最も態度がでかい。今は腕を組んで、不満を隠す気もない顔をしている。
「何」
「あんた、前線来ないよな」
「行かないよ」
「なんで」
「前線で死んだら、誰が補給するの」
「そりゃそうだけど」
カイルは壁を蹴った。苛立ちを足にぶつけている。十七、八だろう。怒りの扱い方がまだ身体に収まっていない年齢だ。
「あんたの回復薬がなかったら、俺の炎はとっくに空だった。それはわかってる。わかってるけど——」
「ムカつく?」
「ムカつく」
正直だった。健治は少し笑った。
「何がムカつくか、言えるか」
カイルは少し黙ってから、吐き出すように言った。
「俺は「紅蓮の魔術師」だぞ。勇者だ。なのに、あんたがいないとまともに戦えない。飯も薬も、全部あんたから出てくる。俺が壁の上でどれだけ燃やしたって、結局あんたの倉庫がなきゃ何も回らないんだろ」
「それは違うよ」は画面を閉じて、カイルを見た。
「俺の倉庫は物を出すだけだ。壁の上で炎を撃てるのはお前しかいない。俺がどれだけ回復薬を積んでも、撃つ人間がいなきゃただの在庫だよ」
「……」
「ムカつくのはいい。でも、「自分がいなきゃ回らない」って思えてるってことは、お前がちゃんと戦力になってるってことだ。本当に要らない人間は、いなくても誰も困らないから」
カイルは口を開きかけて、閉じた。それからもう一度壁を蹴って、今度は足の勢いのまま歩き出した。
「覚えとく」背中だけで言い残して、壁上へ登っていった。
あいつの名前を思い出す。召喚のとき、名前を聞かれて「帰る」と言った。帰る。ここから帰る。それだけ言って口を閉じたのに、神官長が「カイル様」と復唱して、そのまま定着した。訂正するより怒るほうが先だったのだろう。あの怒りは今も変わっていない。向きだけが、少しずつ変わっている。
対照的な二人だな、と健治は思った。レオンは素直に礼を言える。カイルは怒りでしか感情を出せない。でも二人とも、ちゃんと立っている。折れかけても、まだ立っている。それだけで十分だった。
◆ ◆ ◆
同じころ、王都ルミナスでは別の種類のざわめきが広がっていた。
ーー王宮の会議室。
長机の上に広げられた地図。補給路の赤線、砦の位置、損耗報告。そこへ新たに加わった報告書が一枚あった。
[絶望の砦、持ち直しの兆候あり]
[要因:特定の補給支援]
宰相派の老臣たちは、その文面を見て顔をしかめていた。
「『特定の補給支援』とは何だ」
「殿下が直々に辺境まで赴き、例の『倉庫持ち』を連れて行ったとの事です」
「例の、だと?」
「召喚の儀で外れを引いた、一般人でございます」
部屋の空気が一瞬だけ凍る。
「あのとき処分した者か」
「解放でございます」
「言い換えはどうでもよい!」
宰相が机を叩いた。年齢のわりに声は張っているが、その顔には焦りがあった。
「なぜ今さらそんな者に頼る」
「頼ったからこそ、砦が持ち直したとも報告にあります」
「馬鹿な。補給線は三度潰されたのだぞ」
「通常の補給線では、という意味でしょう」
若い文官が恐る恐る口を挟む。その一言で、宰相の眉間の皺がさらに深くなった。
「つまり何だ。王国軍は今、王家の命令系統ではなく、あの一般人に支えられていると?」
「言い方はともかく、結果としては」
否定できる者がいない。王家の威信。貴族の権限。軍の序列。それらの外側にいるはずの男が、現場を回し始めている。面白いはずがない。
「殿下は何を考えておられる」誰かが呻くように言った。
しかしその問いに答えられる者は、この場にはいなかった。
会議室を出た宰相の書記が、廊下の隅で別の男と言葉を交わしていた。商業ギルドの連絡官だ。辺境で無登録の流通が動いている件は、ギルド本部にも報告が上がり始めていた。宰相派とギルドの利害は、この件に限って一致している。規格外の供給者は、どちらにとっても邪魔だった。
そのころ、砦では別の動きが始まっていた。
昼前、捕虜にした魔族兵が二名、中庭の隅へ連れてこられた。昨日の門前で取り押さえた若い兵と、壁下で倒れていた年嵩の兵だ。どちらも拘束されてはいるが、あからさまな拷問の気配はない。アリシアがそこだけは止めたのだろう。
「話を聞く」
健治がそう言うと、若いほうの魔族兵がぎろりと睨んできた。
「人間に話すことなんて——」
「食うか」
健治はパンを差し出した。魔族兵の言葉が止まる。焼き色の薄い丸パン。
見た目は地味だ。王都の貴族街なら見向きもされない。けれどその匂いは、空腹の人間にも魔族にも平等に効く。
「毒を入れてるか」
「入れる理由がない」
「信用できるか」
「じゃあ要らない?」
「……」
若い兵の喉が鳴る。隣の年嵩の兵はもっと露骨で、視線がパンから離れない。
アリシアが横で低く言った。
「食べなさい。今、あなたたちを餓死させる意味はありません」
その言い方に、若い兵は苦い顔をした。だが結局、差し出されたパンを受け取る。最初は警戒するように小さく齧り、次の一口からは隠しきれない速度で食べ始めた。
健治はその様子を見ながら、淡々と尋ねる。
「前線の兵士までそんなに飢えてるのか」
「答える義理はない」
「義理があるかないかで言えばないね。ただ、答えたらスープがつく」
「汚いぞ」
「物流屋なんで。交渉はします」
若い兵は恨めしそうに睨みつけたあと、パンを飲み込んだ。
「飢えてるのは前線だけじゃない」
「本国も?」
「領地全体だ。土は痩せ、獲れる魔獣も減った。貯蔵庫もほとんど空だ」
「じゃあなんで攻めてくる」
「食うためだ!」
怒鳴った直後、その兵は自分で口をつぐんだ。しかしもう十分だった。隣の年嵩の兵が、諦めたようにしゃがれ声で続ける。
「奪うしかないんだよ。人間の土地には、まだ作物があるからな」
「ベヒモスも、同じ理由で?」
「幹部のことまで知るか。だが、あれを動かすのにだって餌が要る。今の俺たちには、その餌すら惜しい」
アリシアが険しい顔になる。健治はその横で腕を組んだ。想像はしていた。ただ、こうして口にされると重みが違う。人間側の補給線が詰まっている。
魔族側はもっと根本の食糧事情が詰まっている。
前線だけを押し返しても、問題は戻ってくる。
「スープ、持ってきて」
健治が言うと、近くにいた補給係の騎士が驚いた顔をした。
「捕虜にですか?」
「聞きたいことがあるなら、飢えたまま喋らせるよりマシだろ」
「ですが」
「俺の分を回す」
実際には自分の分を削る必要はない。ただ、そう言ったほうが現場の反発は少ない。補給係は渋い顔のままうなずき、鍋へ向かった。その背中を見送りながら、アリシアが小さく言う。
「ありがとうございます」
「礼を言うところ?」
「ええ。王国側の騎士だけを優先しろ、と言う方が簡単でしたから」
「簡単だけど、先がない」
そう言ってから、横のアリシアをちらりと見た。理由はない。ただ、自分の言葉がこの人にどう聞こえたのか、少しだけ気になった。健治は捕虜たちを見た。
「兵站が詰まってる相手は、押し返して終わりじゃない」
若い魔族兵が、パンを握ったまま苦い顔で笑う。
「人間のくせに、妙なことを言う」
「物流屋なんだって」
◆ ◆ ◆
その日の夕方、砦の壁上では、久しぶりに交代表が機能していた。
八刻交代。夜番は四組。食事と睡眠を挟み、怪我人は無理に戻さない。
鍋番と補給番も固定しすぎず、負担が偏らないよう回す。
健治が叩き台を作り、ガレスとセレナが現場向けに調整した表だ。
「これが『仕組み化』か」
壁上で見張りをしていたレオンが、木板の交代表を見て呟いた。
「そんな大げさなもんじゃない」
「いや、大げさだろ。今までの俺達、死にかけた順に穴埋めしてたんだぞ」
「それをやめただけだよ」
「それが難しいんだって」
レオンはそう言ってから、真面目な顔になった。
「なあ、おっさん」
「だからおっさん言うな」
「俺さ、召喚されたとき、正直嬉しかったんだよ」
健治は黙った。
「『聖剣の主』かっこいいだろ。教室で名前呼ばれたこともなかったのに、いきなり『勇者様』だ」
レオンは剣の柄を撫でながら、笑っているような、泣いているような顔をした。
「でもさ、剣で倒しても、腹は膨れないんだよな」
「そうだな」
「おっさんの仕事見てて、初めて思った。俺が斬ってるのは敵であって、問題じゃない」
十七歳にしては、重い言葉だった。
教室で名前を呼ばれなかった少年。健治は自分の前の世界を思い出した。会社で「佐藤」と呼ばれても、それは名前じゃなくて機能の呼称だった。便利だから使う。それだけだ。この少年は剣をもらって初めて名前で呼ばれ、自分は倉庫をもらって初めて必要とされた。似ている。だから何も言えなかった。
「なあ」
「何」
「あんた、王都に戻らないのか」
「戻りたくない」
「そこ即答なんだ」
「ブラックだから」
「ぶらっく?」
通じなかった。健治は少し考えた末、肩をすくめる。
「働く人間を雑に使う組織ってこと」
「ああ。それならよくわかる」
レオンが乾いた笑いを漏らした。そのとき、階段を上がってきたアリシアが二人の会話を聞いていたらしく、苦笑を浮かべた。
「王都の名誉のために言いますが、全員がそうではありません」
「知ってます。そうじゃなきゃ、あなたがここにいない」
「それはそうですね」
アリシアは壁の外を見た。遠く、魔王軍の野営地には小さな火がいくつも見える。数はまだ多い。こちらが持ち直したからといって、相手が引いたわけではない。
「王都から使者が来ます」
彼女が言う。
「明日か、明後日には」
「早いな」
「砦が立ち直った報告は、もう届いているはずですから」
「喜んで来る?」
「喜ぶ方ばかりではないでしょう」
アリシアの横顔は静かだったが、その声には冷たい予感が混じっていた。
「あなたの存在が、都合の悪い人間もいます」
「だろうね」
「それでも」
「それでも?」
アリシアが健治を見る。
「私は、あなたを手放しません」
「それ、言い方ちょっと危ないですよ」
「契約相手としてです」
「急に補足するのずるいな」
レオンが吹き出しそうになって慌てて顔を逸らした。アリシアは短く咳払いをし、視線を外へ戻す。
「とにかく。王都側の反発は出ます」
「反発だけなら想定内」
「もし命令系統に組み込もうとしてきたら?」
「断る」
「もし褒賞で縛ろうとしてきたら?」
「もっと断る」
「もし、あなたのスキルを王家の管理下に置くべきだと言い出したら?」
今度は、沈黙が挟まった。健治は壁の外を見ながら答える。
「そのときは、そのとき考えます」
「曖昧ですね」
「即答したら角が立つでしょ」
「もう十分立っています」
「それもそうか」
アリシアが、ほんのわずかに笑う。その笑みに疲れは残っているが、初日に比べればずっとましだ。健治はそんな彼女を横目で見て、視線を外した。
王都側の反発。それは面倒だ。だが、もっと面倒なのは、おそらくこの戦争そのものの根っこだ。壁の下、捕虜に配られたパンの匂いを思い出す。あの飢え方は、前線だけのものじゃない。なら次に見に行くべきは、敵の後ろだ。
「王女様」
「はい」
「魔族側のこと、もっと知りたい」
「敵情視察、という意味ですか」
「兵站視察です」
「言い換えましたね」
「本音です」
アリシアは少し考え、それからうなずいた。
「私も、同じことを思っていました」
「じゃあ次は、そっちだ」
砦の上を風が抜ける。その風はまだ冷たかったが、二日前ほど「絶望」の匂いはしない。
下を見れば、交代表に従って休みに入った騎士が寝台へ向かっている。補給番は鍋を洗い、壁上番は干し肉の小袋を腰に下げて持ち場へ戻る。勇者たちも、それぞれが自分の役割に収まっていた。
完璧ではない。でも、回り始めている。
「眠れるって、でかいな」レオンがぽつりと言う。
健治はうなずいた。
「人間、寝ないとだいたい駄目になるからな」
「経験談?」
「嫌になるほどね」
レオンはそれ以上は聞かなかった。聞かれなくて助かった気もしたし、少しだけ物足りない気もした。
壁の向こう、魔王軍の野営地で火が揺れている。あちらにも眠れていない兵がいるのかもしれない。飢えて、削れて、奪うしかなくなった兵が。
この戦争は、まだ終わらない。報告書のことを、ふと思い出した。
王都から来た書記官ルーファスは、砦の補給記録を事細かに求めてきた。一品目ごとの納入量、消費速度、残量。官僚的で骨が折れたが、提出された報告書を後から読んだら、数字の並べ方が上手かった。事実を曲げてはいないが、王宮に通りやすい順番で組み直してある。嫌な男。しかし、無能ではない。いずれ使い方が見つかるかもしれない。
セレナからも、一つ報告があった。補給が安定してから、治癒班のトリアージを彼女が仕切っている。回復薬の割り当て、魔力の配分、治療の優先順位。昨日、軽傷者を先に治した。戦列に早く戻せるという合理的な判断だった。だが、その間に重傷者の一人が容態を悪くした。命は取り留めたが、危うかった。
「私の判断が遅れました」
セレナは、健治の前で初めて声を震わせた。完璧に冷静だった少女が、自分の判断ミスで人が死にかけた。その重さが、肩にのしかかっている。
「正解がない判断だったんだろ」
「でも、結果は……」
「結果は次に活かせばいい。少なくとも、お前がいなかったらもっと多くの人間が死んでた」
セレナは唇を噛んだ。
「次は、間違えません」
「間違えるよ。でも、間違えたあとに立て直せるのが強さだ」
我ながら偉そうなことを言っている、と健治は思った。前の職場では、こんな台詞は一度も言えなかった。
ただ少なくとも健治は、次に何を見に行くべきかをはっきり掴み始めていた。
人間側の勝ち筋ではなく、この戦争の詰まりそのものを。




