第5話 一日分のメシでは、明日は回らない
その夜、オークヘイブンには久しぶりに「食事の匂い」が満ちていた。
広場の真ん中では大鍋が煮え、塩漬け肉と野菜のスープがぐつぐつと音を立てている。パンは一人ずつ配られ、果物は子どもから先に回された。量としては、王都で見れば大したことはない。だがこの村にとっては、何日ぶりかもわからないほどのまともな夕食だった。
健治は空き家に案内される前に、広場の隅で配給の流れを眺めていた。
ミナが思ったよりしっかりしている。年寄りの家から先に回し、子どもが列を乱せば叱り、トウマが二個目のパンに手を伸ばせば耳を引っ張る。空腹でふらついていたはずなのに、役割を与えられると急に背筋が伸びた。
ただ、うまくいっているように見えたのは最初だけだった。鍋の中身が減ってくると、列の後ろのほうがざわつき始める。
「もう少し増やせないのか」「うちは三人いるんだ」と、声は低いが、空腹の苛立ちは隠せない。ミナの顔が一瞬こわばった。
健治は前に出た。
「すみません。まず全員に最低一杯ずつ行き渡らせます。余った分は、年寄りと小さい子から追加で」
「なんであんたが決めるんだ」
当然の反発だった。昨日まで見たこともない余所者が、いきなり配り方を仕切れば角が立つ。
健治は村長を見た。
「村長、この村では普段どう分けてましたか」
「普段も何も、分けるほどのものがなかったんですがな」村長は苦い顔で言った。
「ただ、以前は年寄りが先と決めてました。年寄りが倒れれば、知恵も経験も失う。子どもは最悪、年寄りの膝で我慢できる」
「なるほど。じゃあそれに従います。年寄りから先に追加、子どもが次。俺が決めたんじゃなく、村のやり方です」
列のざわつきが、少しだけ収まった。村長が頷いたのが大きい。余所者の指示ではなく、村の決まりだと受け取れるからだ。
ミナが小さく息をつき、健治にだけ聞こえる声で
「ありがと」
ただ、そのあとだった。追加の配分を回しながら、健治はつい手元で量を微調整していた。この家は子どもが小さいから少し多めに、この老人は体格がいいから標準で足りるだろう。村長に聞いた基準とは別の判断が、指先で勝手に動いている。
自分では気づいていなかった。
「働き者ですね、あの子」
隣に来た村長が言う。
「弟抱えてる子は、だいたい早く大人になります」
「……できれば、そんなことはないほうが良かったんでしょうがな」
村長の言葉に、健治は返せなかった。代わりに、鍋の湯気を見つめる。
前の世界で、自分が扱っていたのは在庫番号と差異報告と納期調整だった。そこにもきっと人はいたのだろう。でも、画面越しの数字の向こうに、こうして腹を満たして笑う顔までは見えなかった。
だからだろうか。
今、自分の中にあるこの妙な充実感が、少し怖い。仕事で達成感なんて、もうずっと感じていなかったから。
「ケンジさん!」
振り向くと、ミナが小走りでやってきた。両手で木椀を持っている。湯気の立つスープがなみなみと入っていた。
「これ、村のみんなで決めたの。一番に食べてって」
「いや、俺はあとで……」
「ダメ。今日はケンジさんが一番」
断る隙を与えない目だった。
奇妙な既視感がある。仕事を押しつける上司の目ではなく、善意で逃がしてくれないタイプの目だ。
健治は苦笑して、木椀を受け取った。
スープは思ったより熱く、塩気は控えめで、それでも驚くほど旨かった。ただの肉と野菜の煮込みだ。王都の酒場なら平凡な一皿でしかない。けれど、腹を空かせた村の真ん中で食べるそれは、不思議と身体へ染みた。
「おいしい?」
「うん」
「よかった」ミナが、ほっとしたように笑う。
トウマも少し離れたところからこちらを見ていて、パンを両手で持ったまま、にこっとした。
健治は木椀を持ったまま、視線を逸らした。
こういうのに弱い。感謝とか笑顔とか、そういうまっすぐなものを向けられると、どうしていいかわからなくなる。
「ケンジさん、変な顔」
「うるさい」
「泣きそう?」
「泣いてない」
「じゃあ、おかわりいる?」
「いる」
ミナが吹き出した。
広場のあちこちで、久しぶりの笑い声が小さく上がっていた。大きな宴ではない。豪華でもない。それでも、この村にとっては、確かに「生き延びる夜」だった。
広場の片づけを手伝っていると、年配の女が黙って鍋を洗い始めた。背は低いが、手つきに迷いがない。
「さっき、村長に聞いといて、結局自分で決めてたね」
唐突に言われた。健治が振り向くと、女はこちらを見もせず鍋を磨いている。
「え?」
「年寄りから先って言ったのは村長だ。でもその後、あんたが勝手に量を調整してただろう。聞いたふりして、最後は自分の判断。前の仕事でもそうだったんじゃないの」
返す言葉がなかった。そのとおりだ。聞いたのに、結局自分でやってしまった。
「明日からは大人が交代で配給番をやるべきだね。あの子は子どもなんだ。あんたも、一人で全部やろうとしなさんな」
「……すみません」
「エマだよ。あんた、名前くらい聞きなさい」
ぴしゃりと言って、エマは鍋を担いで去っていった。背中が小さいのに、妙に迫力がある。
健治は広場に残って、しばらく動けなかった。
一人でやったほうが早い——その癖が、もう出ている。
異世界に来ても、変わっていない自分に気づかされた。
◆ ◆ ◆
村が寝静まったころ、ミナは家の裏に座り込んでいた。膝を抱えて、息を殺している。肩が小さく震えていた。昼間はずっと平気な顔をしていた。列を仕切り、年寄りに声をかけ、トウマの口元を拭いて、大人たちに指示を出した。十歳の少女が、空腹の村を回した。
でも、一人になったら、もう無理だった。
声を出さないように手で口を押さえる。涙が指の隙間からこぼれた。理由はわからない。嬉しいのか、悲しいのか、疲れたのか。たぶん全部だ。
ずっと我慢していた。弟の前では泣かないと決めていた。お姉ちゃんが泣いたら、トウマが怖がるから。
背後で、かすかな足音がした。
「お姉ちゃん?」
トウマが、目をこすりながら立っていた。
ミナは慌てて顔を拭いた。
「なんでもない。お腹すいただけ。寝なよ」
トウマは黙ってミナの隣に座った。小さな手が、姉の袖を掴む。
「お腹すいたなら、パン残してあるよ」
「うん。あとで食べる」
「うん」
二人とも、嘘だとわかっていた。でもそのまま、しばらく黙って並んで座っていた。
夜風が、まだかすかにスープの匂いを運んでくる。
食事が終わるころ、健治は村外れの空き家へ案内された。
鍛冶屋だったというだけあって、土間は広く、裏には簡単な作業場跡が残っている。炉は壊れているが、壁はまだしっかりしていた。屋根も少し補修すれば十分住めそうだ。
「ここなら、倉庫代わりにも使えますな」村長が言う。
「ありがたいです。裏の土地も借ります」
「何を作るおつもりで?」
「まずは保管と仕分けの場所を。あとは、回せるようになったら考えます」
健治は家の中をざっと見回した。広さは十分。導線も悪くない。表から荷を入れて、奥で仕分け、裏へ抜ける動きが作れる。脳のどこかが、もう勝手に配置を考え始めている。
自分でも笑ってしまう。異世界に来ても、やることは結局ロジスティクスだ。
「名前、つけるんですか」村長が何気なく訊く。
「名前?」
「拠点のです。商会でも、店でも」
「まだそこまでは」
「では、決めておくといい。名前があると、人はそこを頼りやすい」
その言葉は、不思議と納得できた。
頼りやすい名前。
呼びやすい名前。
それはもう少し先で考えればいい。
今はまず、この村を明日につなぐことが先だ。
村長が去ったあと、健治は空き家の真ん中に立ち、深く息を吐いた。窓の隙間から、広場の笑い声がまだかすかに聞こえる。
その音を背にしながら、倉庫の画面を開く。
画面に並ぶ品目を指で追う。パンが残り四十二個。塩漬け肉が七キロ。野菜は種類ごとに表示されるが、日持ちしない葉物が半分以上を占めている。
前職の癖で、頭の中に表が浮かんだ。村の人口は約六十人。一人一日あたりの最低量をざっくり見積もって、パンなら一人一個で一日分にもならない。肉とスープで補っても、今の在庫では三日が限界だ。
三日。
王都までの往復が六日。つまり、在庫が尽きる前に次の補給を確保する手段がいる。王都に戻って買い出しでは間に合わない。
倉庫スキルの問題ではない。物流の問題だ。「入れる」と「出す」だけでは回らない。「どこから仕入れて、どう運び、いつ届けるか」——その流れを作らなければ、一日分のメシで終わる。
エマの言葉が頭をよぎった。一人で全部やろうとするな。だが今は、この計算ができるのは自分しかいない。
それでも、明日はエマに相談してみよう。配給番の件だけじゃなく、仕入れのことも。この村で何が手に入って、何が足りないのか。それは村に長く住んでいる人間のほうが知っている。
けれど、これで終わりにはできない。
明日からは、仕組みにしなければいけない。
配る順番。保存の手順。労力の分担。村人に負担をかけすぎず、それでいて依存だけにもならない形。考えることはいくらでもある。
「……でも」
独り言が、静かな家の中に落ちる。
「悪くないな、これ」
仕事をして、誰かが食べられる。
数字じゃなく、目の前で。
そんな当たり前みたいなことが、今の自分には新鮮だった。
壁にもたれて座り込み、健治は天井を見上げる。
王都の宿よりずっと質素な空間なのに、思いのほか落ち着いた。
ここならやり直せるかもしれない。
そんな考えが、ふいに胸をよぎった。少なくとも今夜は、誰かの顔色を窺わなくていい。
そのときだった。外で、慌ただしい足音がした。
「村長! 村長、いるか!」男の叫び声。
続いて、誰かが息を切らしながら広場へ飛び込んでくる気配。
健治は立ち上がり、家の外へ出た。
広場のほうで、見張りに出ていたらしい若者が肩で息をしている。その顔は青ざめていた。
「王都から……王都の紋章をつけた馬車が、こっちへ来る!」
「王都から?」
村長が眉をひそめる。若者は何度もうなずいた。
「しかも、騎士だ! ただ……様子がおかしい。馬も人も、みんなボロボロで……」
健治は無意識に、ぐっと指を握っていた。嫌な予感がした。
王都の連中が、こんな辺境までわざわざ来る理由なんて、ろくなものじゃない。
夜風が、さっきまでの温かな匂いを少し薄めていく。広場のざわめきが静まり、村人たちの顔に不安が戻る。
その中心で健治は、王都の方角を見た。
どうやら、のんびりしている暇はないらしい。




