第4話 飢えた村に、王都の売れ残りを
オークヘイブンは、村というより、なんとか形を保っている暮らしの集まりだった。柵はところどころ歪み、畑は痩せた土がむき出しになっている。風車は止まり、井戸の周りにはひびの入った桶が転がっていた。家々の壁には補修の跡が何度も重ねられ、そのどれもが「間に合わせ」の色をしている。
村の入り口で立ち止まった健治の鼻に、乾いた土と古い藁の匂いが混ざって届いた。肉を焼く匂いも、煮炊きの湯気も、ない。
そこへ、一人の少女が小さな桶を抱えて歩いてきた。年の頃は十歳前後だろうか。焦げ茶の髪はぱさつき、服は何度も繕われている。桶の中には、濁った水が少しだけ入っていた。
少女は健治に気づくと、ぴたりと足を止めた。
警戒している。無理もない。知らない男がふらりと来たところで、歓迎できる余裕のある村には見えなかった。
「旅の人?」
「まあ、そんなところ。ここ、オークヘイブンで合ってる?」
「うん……そうだけど」
少女の視線が健治の背中や腰のあたりを行ったり来たりする。荷車も馬もいない。大きな荷袋もない。どう見ても、食べ物を運んできた人間には見えないだろう。
「村長さん、いるかな」
「いるよ。でも……」少女は言いよどみ、目を伏せた。
「今、機嫌よくないかも」
「それは、もともと?」
「ちがう。ずっと」
健治は思わず少し笑いそうになった。冗談が言えるくらいの元気はあるらしい。けれどその顔色は悪い。頬は痩せ、目の下には薄く影が落ちている。
少女の腹が、ぐぅ、と鳴った。
本人がいちばん驚いたように目を見開く。次いで、気まずそうに桶を抱え直した。
「聞かなかったことにする」
「ありがと」少女は小さく答え、それから背筋をのばした。
「ミナっていうの。案内する」
「健治だ。助かる」
ミナはこくりとうなずくと、村の中央へ歩き出した。
健治はその後ろをついていきながら、周囲を見回す。
家の前に座る老人。
空の籠を抱いたまま地面を見ている女。
痩せ細った犬。
畑の隅で土をいじる子どもたち。
誰もが「もう慣れてしまった顔」をしていた。飢えや貧しさが、いっときの不運ではなく、生活そのものに染み込んでしまった顔だ。
腹の底に、じわりと嫌な熱が落ちる。
「最近、王都から商人は来ないのか?」
「来るよ。たまに」
「食べ物は?」
「高いのしか持ってこない」
「売れないだろ」
「うん。だから来なくなる」ミナの返事は簡単だった。
簡単だからこそ、余計にきつい。運ぶのに手間がかかる。
遠い。
量がまとまらない。貧しい村は高く買えない。結果、商人は来ない。
市場で見た売れ残りの山と、この村の痩せた空気が、健治の中で一本の線になる。
「弟がいるの」不意に、ミナが言った。
「さっきの話の続き?」
「うん。まだ小さいから、すぐお腹すくんだ」
振り向きもせず、ミナは続けた。
「だから、あたしは平気って言う。ほんとは平気じゃないけど、弟の前では言わないようにしてる」
「偉いな」
「偉くないよ。お姉ちゃんだから」
その言い方があまりに当たり前で、健治は返す言葉を失う。
やがて、村の中央にある少し大きめの家の前でミナが立ち止まる。扉をノックし、中へ声をかけた。
「村長〜。旅の人」
中から、しばらく間を置いて返事があった。
「……入れ」
案内された先で待っていたオークヘイブンの村長は、五十代半ばほどの男だった。
痩せてはいるが、骨ばった顔つきにまだ気力は残っている。白髪混じりの髪を無造作に束ね、粗末な上着を羽織っていた。机の上には古い帳面と、わずかな穀物の入った木鉢が置かれている。
「旅人にしては、えらく身なりが妙ですな」開口一番、それだった。
「よく言われます」
「それで、何の用でこんな村へ」
歓迎する声ではない。それでも無礼というほどではない。余裕がないだけだ。健治は椅子を勧められるのを待たずに、軽く頭を下げた。
「王都から来ました。売れ残りや訳あり品の食糧を扱っています」
「行商人?」
「半分は。もう半分は物流屋、ですかね」
「ぶつりゅう……?」通じない。そりゃそうだ。
「必要な物を、必要な場所へ運ぶ仕事です」
「この村へ?」村長の声に、わずかに警戒が混じる。
健治はうなずいた。
「はい。もし、村の人たちが当面食いつなげるだけの食糧を俺が用意できたら、その代わりに空き家を一軒と、少しの土地を貸してもらえませんか」
「は?」村長が目を細めた。
「ここがどれほど王都から遠いか、ご存じで?」
「歩いて三日」
「わかっていて、その言い草か。食糧を持ってくる馬車も、護衛も見当たらんが」
もっともな反応だった。
健治は視線を横へ流した。部屋の隅、木椀が三つ。だが中身は空だ。窓の外では、ミナがまだ帰らずにこちらを窺っている。
「馬車はありません。護衛も」
「ふざけておるのか」
「いいえ。本気です」
村長の眉間に皺が寄る。
「施しなら断る」村長の声が、急に硬くなった。
「施しじゃありません。取引——」
「前にもそういう話があった」
村長は窓の外を見た。疲れた横顔に、別の色が混じる。諦めとも怒りともつかない、古い感情だった。
「王都から来た商人が、食糧をやると言った。その見返りに、若い者を兵として差し出せとな。だから断った」
健治は黙った。
「王都の人間が、タダで何かをくれることはない。それがこの村の経験則だ」
返す言葉が見つからない。村長が疑うのは当然だ。信用は言葉では積めない。自分が何者かを説明したところで、「信じてくれ」は説得材料にならない。広場で食糧を見せようとしたが、村長が首を横に振った。
「許可は出さん。村の広場はわしの判断で使う」
膠着した。
健治は倉庫の中に食える物を山ほど抱えているのに、目の前の子どもに一つも渡せない。押しつけてでも食わせるべきか。それとも、この人の判断を尊重すべきか。健治が返答に詰まったとき、部屋の外から小さな咳が聞こえた。
振り向くと、さっきのミナが、いつの間にかさらに小さな子どもを連れて立っていた。弟だろう。五つか六つほどの男の子は、姉の裾を掴みながら健治を見ている。
その子の手には、薄茶色の固い塊があった。パンでも芋でもない。土を練って焼いたような、粗末な何かだ。
村長が舌打ちする。
「ミナ、下がりなさい」
「ごめんなさい。でも、トウマがお腹すいたって……」
「後でだと言ったろう」
ミナは唇を噛み、トウマを庇うように抱き寄せた。トウマは黙って、そのよくわからない塊を齧ろうとする。
そこで、健治の中で何かが切り替わった。
「村長さん」声は思ったより低く出た。
「広場、借ります」
村長が怪訝そうに顔を上げる。
「何を……」
「証明します。今ここで」健治は踵を返し、家を出た。
背後で村長とミナが慌ててついてくる気配がする。そのまま村の中央の小さな広場まで歩き、立ち止まった。村人たちの視線が集まる。知らない男が、何も持たずに広場の真ん中へ立っているのだから当然だ。
健治は大きく息を吸った。
「『無限倉庫』——取り出し。カテゴリ、食糧。一括指定モード」
目の前に青白いウィンドウが開く。一覧から必要なものを選ぶ。丸パン。傷物の果物。野菜。塩漬け肉。干し豆。昨日まで市場の隅で価値を失っていたものたち。
「展開」
空間が、震えた。次の瞬間。
広場の真ん中に、麻袋が、木箱が、樽が、山のように現れた。
どさり、と重たい音。
続いて、焼きたてのパンの匂いが広がる。甘い果物の香り。塩気を含んだ肉の匂い。人が「食べ物だ」と一瞬でわかる匂いが、乾いた村の空気を塗り替えていく。
誰も、すぐには動かない。理解が追いつかないのだ。
ミナの弟のトウマが、最初に一歩踏み出した。ふらふらと、夢でも見ているみたいに。パンの袋の前で立ち止まり、手を伸ばしかけて、振り返る。
「お姉ちゃん」
ミナは目を見開いたまま動けない。村長も口を開けたまま固まっていた。
「食べていいよ」
健治が言うと、トウマは堰を切ったみたいにパンを掴んだ。次の瞬間、その匂いに引かれるように他の子どもたちも集まってくる。
「待ちなさい! 列を……」
一瞬、広場が崩れかけた。
子どもたちが袋に殺到し、年寄りが押し退けられそうになる。
若い男が「おい、順番だ!」と怒鳴り、赤ん坊を抱いた母親が後ずさる。
健治は咄嗟に声を出しかけたが、その前にミナが動いた。
「小さい子から! 押さないで! おじいちゃん、こっち来て!」
十歳の少女が、空腹の群れを仕切っている。その姿に、健治は息を飲んだ。物を出すだけじゃ足りない。配る仕組みがなければ、善意は混乱にしかならない。
ようやく列が落ち着いたころ、トウマがパンを一口齧った。
そして、泣いた。
ぼろぼろと、大粒の涙を落としながら、口いっぱいに頬張る。泣きながら食べる子どもを見て、周囲の大人たちもようやく現実を理解したらしい。ざわめきが広がり、誰かが口元を押さえ、誰かが神に祈るみたいに膝をついた。
村長は、ずっと黙って見ていた。
子供が泣きながらパンを食べる。大人が膝をつく。ミナが必死に列を仕切る。その全部を、腕を組んだまま見つめていた。
やがて、肩を落とした。
「条件を聞こう」
ありがとう、とは言わなかった。代わりに出てきたのは、交渉の言葉だった。村長としての顔だ。
子どもの空腹だけは、待てと言いにくい。理屈では配る順番があるとわかっていても、目の前で腹を鳴らされると、その理屈ごと殴り飛ばしたくなる。健治はそういう自分を、あまり仕事向きではないと思っていた。
「本物の……パンだ」
「温かいぞ」
「野菜もある……!」
健治は一歩引いて、広場を見渡した。
王都では見切り品。ここでは、ごちそう。
わかっていたことのはずなのに、目の前で起きると衝撃が違った。自分が昨日まで見ていた「数字の調整」の先に、本当はこういう景色があったのかもしれないと思うと、腹の底がざわついた。
「改めて聞く、ケンジさん」
村長が広場の端から歩いてきた。さっき「条件を聞こう」と言ったときの硬さは少し和らいでいたが、目だけは真剣なままだ。
「これは、本当に、あなた一人で?」
「今のところは」
「どこから」
「王都の市場です。売れ残り、規格外、訳あり品。向こうでは値がつかないものでも、こっちでは十分食える」
「そんな都合のいい話が」
「あります。ただし、運べれば、です」
健治は簡単に説明した。スキルの細かい仕様までは言わない。けれど、「保管と運搬に優れている」ことだけは伝える。
村長はしばらく無言だった。広場では、ミナが子どもたちを並ばせ、トウマの口元を拭いながら必死に配っている。年寄りの女が、木箱の前で手を震わせていた。若い男たちが肉樽を運ぶのを手伝い始めている。
その光景を見ながら、村長は低く言った。
「王都に支援を求めたことがあります」
「でしょうね」
「二度。いえ、三度か。税を納め、兵も出し、それでも飢えたので、せめて次の収穫までと」
「返事は?」
「『魔王軍との戦いで余裕がない』と」
健治は黙って聞いた。
「間違っているとまでは言いません。戦が迫っているなら、都合をつけねばならんのでしょう。だが、辺境はいつも後回しです。王都に近いところから救われる。遠いところは、耐えろと言われる」
村長の声は静かだった。怒鳴る元気も、もう残っていないのかもしれない。
「だから正直、最初はあなたも信用しませんでした。口先だけの人間は、何人も来た」
「わかります」
「ですが」村長は、広場のほうを見た。
トウマがパンを抱えたまま、今度はミナに無理やり食べさせようとしている。ミナは「先にお年寄り」と言いながらも、結局一口齧って、目を潤ませた。その様子を見て、村長は大きく息を吐いた。
「ありがとうございます、と言うしかない」
その言葉に、健治は返答に詰まった。
礼を言われるのが苦手だった。仕事をして「助かった」と言われることはあっても、それは大抵、次の仕事の前振りみたいなものだったからだ。本当に腹の底からの感謝を向けられると、どう返せばいいのかわからない。
「まだ早いですよ」だから、少しぶっきらぼうに返す。
「三日分じゃ終わらない。ちゃんと回る形にしないと意味がない」
「形?」
「物が来て終わりじゃなくて、この村の中で回るようにする。仕分け、保存、交換、場合によっては近くの村ともつなぐ」
「それを、あなたが?」
「俺一人じゃ無理です」健治はきっぱり言った。
「だから、人を借ります。空き家と土地も」
「それは、先ほどの条件ですな」
「はい。住む場所と拠点が欲しい。タダでとは言いません。村に還元します」
「もう十分しておる」村長はそう言いながらも、口元を緩めた。
「村外れに、一軒あります。元は鍛冶屋の家でしたが、主が冬を越せずに亡くなってな。土地も、その裏手なら空いている」
「お借ります」
「お貸ししましょう。いや……頼みます、か」
健治はその言い方に、ようやく肩の力を少し抜いた。




