第3話 余りものの行き先
日が落ち始めるころ、市場の喧騒は別の色に変わっていた。
売り切って笑う店主。値下げしても客がつかず顔をしかめる商人。
片づけられていく台。そして、最後まで残った品物たち。
健治は市場の隅にある噴水の縁に腰掛け、頭の中で今日一日の仕入れを整理していた。
野菜、果物、パン、塩漬け肉、干し豆。種類は十分。量も悪くない。
この世界の貨幣価値はまだ把握できていないが、少なくとも「売れ残りの処分」という用途では、十分に回る。ただし、王都の中でこれを売っても大した利益にはならない。
大事なのは、別の場所だ。
遠く。
運ぶのが面倒で、鮮度も落ちるから、誰も安くは届けない場所。
でも人は生きていて、食う必要がある場所。健治は懐からこの国の簡素な地図を取り出した。宿で借りたものだ。王都ルミナスを中心に、主要街道といくつかの地方名が書かれている。その端のほうに、小さくいくつかの村の名前があった。
オークヘイブン。
名前だけなら、まだ何もわからない。けれど、王都から遠い。遠いというだけで、物流は一気に面倒になる。健治の指が、その文字の上で止まった。
「ここかな……」
商売になる、という考えは当然ある。元手がない以上、綺麗事だけでは動けない。でも、それより先に浮かんでしまうものがあった。
昼間に見た、焼き色の悪いパン。曲がった人参。少し傷んだ林檎。
王都では豚の餌扱いされるそれを、もし誰かが「ごちそう」として受け取る場所があるなら。
救える。
自分でも少し笑ってしまう。昨日までの自分なら、そんな言葉はもっと後に出てきたはずだ。まず利益、次に効率、そのあとで、余裕があれば社会性。そういう順番で考えていた。
なのに今は違う。
いや、違うというより、本当は最初からそうだったのかもしれない。数字を合わせるたびに、心のどこかで思っていたのだ。この仕事が、本当に誰かの腹や暮らしにつながって見えたなら、もう少し好きになれたのに、と。
噴水の水音が静かに響く。健治は地図を畳み、立ち上がった。
「よし。まずは行ってみるか」
市場で余ったものを、倉庫に入れる。時間は止まる。重さは消える。
あとは、必要な場所まで歩いて行って、そこで出すだけだ。あまりに単純だ。単純すぎて、いままで誰もやらなかったのがおかしいくらいだ。
でも、この世界の誰にも、それはできない。少なくとも今のところ、自分以外には。
健治は最後にもう一度、市場を振り返った。片づけられていく店先。雑に積まれた見切り品。値札を外され、価値を失った食べ物たち。
それを見て、ふと神殿で向けられた視線を思い出す。
倉庫。ただ物をしまうだけの、外れスキル。
「違うだろ」小さく呟く。
「これは、流れを作る力だ」
王都の人間はまだ、その意味を知らない。しかし、たぶん遠く離れた場所では、この力は剣や魔法よりずっと切実に必要とされる。
健治は革袋の残金を確かめ、市場をあとにした。宿に戻り、明日の出発に備えるためだ。目指す先は辺境の村。
王都で余った食べ物を、誰かの明日の食卓へつなぐ。たぶんそれが、異世界に来て初めて自分で選ぶ仕事になる。
◆ ◆ ◆
王都を出て三日目の昼、街道はとうとう獣道より少しマシな程度の幅にまで細っていた。石畳はとっくに消えている。荷馬車の轍で抉れた土の道は乾ききって、風が吹くたびに白っぽい砂が舞った。
健治は肩に背嚢をかけ直し、額の汗を手の甲で拭った。倉庫の中には王都で買い集めた食糧がたっぷり入っている。重さはゼロだ。そのはずなのに、歩けば普通に疲れるし、腹も減るし、喉も渇く。
「そりゃそうか」小さく呟いて、苦笑する。
靴擦れが右足にできていた。前の世界の革靴は街道歩きには向いていない。スキルがどれだけ便利でも、それを運ぶ自分の身体は、ただの二十八歳のデスクワーカーのままだった。
初日の夜は野宿だった。倉庫から出したパンは焼きたてのまま。
前の世界のコンビニ弁当とは違う——あれは「食べなきゃ明日動けない」から食べていた。
このパンは「食べたいから食べた」それだけで味がまるで違った。
二日目の午後、街道沿いの小さな集落を通りかかった。集落というより、家が五つ並んでいるだけの場所だ。井戸端で老婆が一人、干からびた根菜を抱えて座り込んでいた。
目が合った。
健治は倉庫からパンを二つ出し、老婆の前に置いた。老婆は目を丸くし、何か言おうとしたが、言葉より先に手が動いていた。パンを掴み、匂いを嗅いで、ゆっくりと齧る。その顔を見た瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
ああ、これだ。
数字の画面の向こうにいた人が、目の前にいる。自分が運んだものが、今この瞬間、誰かの腹に入っていく。
その事実が、六年間ずっと空っぽだった場所を埋めていく。
老婆は何も言わなかった。ただ、頭を深く下げた。
健治は手を振って歩き出した。振り向かなかった。振り向いたら、もっと出したくなる。今は全部を撒くわけにはいかない。この先に、もっと大きな「詰まり」がある。
道端の岩に腰を下ろし、水筒を取り出す。喉を潤しながら、もう一度地図を確かめた。
目指しているのは『オークヘイブン』
市場の若い職人から聞いた「王都から遠く、たぶん干上がっている場所」の一つだ。
当てずっぽうだ。それでも足は止まらなかった。立ち上がり、再び歩き出す。
やがて丘を越えた先に、ようやく小さな集落が見えた。




