第2話 「ただの倉庫」じゃない
王都の朝は、思っていたよりずっと早かった。
まだ日が昇りきる前だというのに、石畳の通りには荷馬車が何台も行き交っている。野菜を積んだ荷車、樽を載せた馬車、布を抱えた商人、眠そうな顔で店を開ける露天商。空気は冷たいのに、人の動きだけが熱を持っていた。
健治は安宿の二階の小部屋から、その流れをしばらく窓越しに眺めていた。
昨夜は結局、路地裏でスキルを確認したあと、銀貨一枚で泊まれる宿に転がり込んだ。寝台は硬く、毛布は少し埃っぽかったが、会社の会議室の椅子よりは百倍マシだ。久しぶりに横になって眠った気がする。
起きて最初に思ったのは『出社しなくていい』だった。
その事実に自分で笑ってしまった。異世界に放り出されたというのに、最初の幸福がそれなのだから我ながら小さい。
だが小さくていい、と健治は思った。
大きな幸福なんて、たいてい会社のスローガンみたいに胡散臭い。
朝起きて、急かされず、胃を痛めずに一日を始められる。今の自分には、それくらいで十分だった。
部屋の隅に置いた革袋を手に取り、中身を確かめる。昨夜使った宿代を差し引いても、まだ銀貨は残っている。派手に使える額ではないが、動くための元手としては悪くない。
「よし……市場、だな」
健治はそう呟いて立ち上がった。
◆ ◆ ◆
王都中央市場は、城下町のほぼ中心に広がっていた。
大きな屋根付きの通路の両脇に、野菜、果物、肉、魚、香辛料、雑貨の店がずらりと並ぶ。客の声、店主の怒鳴り声、値切り交渉、包丁の音、荷が置かれる音。それらが混ざり合って、ひとつの巨大なうねりになっていた。
健治は人波を避けながら歩き、目だけは忙しく動かしていた。
陳列の仕方。売れ筋の位置。客足の多い店と、そうでない店。
荷の回転。値下げのタイミング。店先に残る『売れ残る気配』
長年数字の画面ばかり見てきた目は、思っていた以上に現場を覚えていた。
朝のうちは、どの店もまだ顔がいい。新鮮な葉物、艶のある果実、焼き色のきれいなパン。けれど、昼を回り、夕方が近づくにつれて、売れるものと売れないものの差がはっきりしてくるはずだ。
健治はまず、屋台で一番安い串焼きと硬いパンを買った。食事代を惜しんで動けなくなるのは本末転倒だ。立ったままパンを齧りながら、市場の流れを観察する。
そして、昼を過ぎたころだった。最初の「宝の山」を見つけたのは。
「おい、兄ちゃん。邪魔するなら向こう行ってくれ。こっちは片づけだ」
八百屋の親父が、店の脇に積み上げた木箱を睨みながら吐き捨てるように言った。木箱の中には、形の悪い人参、少し傷の入った林檎、葉のしおれたキャベツが雑に詰め込まれている。
「売り物じゃないんですか」
「朝ならな。今はもう見栄えが悪い。明日まで持たせるには手間がかかるし、値を落としても売れ残る」
「捨てるんですか」
「豚の餌か、よくて安酒場行きだな」
健治は箱の中身を一つ手に取った。人参は少し曲がっているが、腐っているわけではない。林檎の傷も浅い。キャベツだって、外葉を一枚剥けば十分食える。
規格外、見切り品、値崩れ、鮮度限界。
食えないのではない。売りにくいだけだ。
「全部で、いくらですか」
「は?」
親父が顔を上げる。
「この箱、全部です。いくらなら手放します」
「こんな傷物をか?」
「食うのは人間です。貴族の食卓に並べるわけじゃない」
親父は怪訝そうに健治の顔を見た。ボロいスーツ姿の男が、商人でもないのに端物を買い漁ろうとしている。怪しむのも無理はない。
「銀貨二枚」
「高い」
「運び出しもこっちの手間だ」
「銀貨一枚と銅貨五枚」
「ふざけるな」
「今日中に処分しないと明日にはもっと安くなる。違いますか」
健治が淡々と言うと、親父は口をつぐんだ。
交渉というほどのものではない。ただの在庫処分だ。相手の困りごとが見えれば、値段は自然と落ちる。
「銀貨一枚と銅貨八枚」
「じゃあ、それで」
親父が呆れた顔で肩をすくめる。
「本当に持ってくのか?」
「持っていきますよ」
親父は一瞬ためらったあと、声を低くした。
「忠告だ。あんまり大量にやるなよ。商業ギルドの目に止まる」
「ギルド?」
「王都で物を流すには、商業ギルドの登録がいるんだよ。登録なしで大口の買い付けやって、それを別の場所で売ったら、流通違反で取締が来る。ギルド税も払ってない奴が商売してるってな」
「食う分だけなら?」
「箱単位で食う奴がどこにいる」
それもそうだ。健治は苦笑した。
商業ギルド。つまり、この世界でも流通は管理されている。物が余る場所と足りない場所があっても、ギルドの採算に合わなければ運ばれない。逆に言えば、ギルドの網に引っかからない場所は、最初から流通の外に置かれている。
健治は木箱に手を触れた。心の中で収納を念じる。
次の瞬間、箱は光の粒になって消えた。
もっとも、親父の言い分にも一理はあった。無登録の流通が横行すれば、税収も品質保証も崩れる。粗悪品が出回ったときの責任も追えない。ギルドが独占する構造は歪んでいるが、それなりの理由で維持されてきた仕組みだろう。
壊すのは簡単だ。壊したあとに何が残るかを考えないのは、ただの暴走だ。
「なっ……!?」
親父が目を剥く。
健治の視界には、青白いウィンドウが開いていた。
[人参(規格外)x18]
[林檎(軽度損傷)x12]
[キャベツ(外葉劣化)x7]
そして詳細欄。
{
状態:完全保存(時間停止)
}
昨夜見たそれを、今度はもっと冷静に読む。
『時間停止』
改めて文字にすると、やはり頭がおかしい性能だった。少し傷んだ食材も、その瞬間で保存される。
つまり、鮮度低下が止まる。心臓が、ひとつ大きく打った。
「兄ちゃん……今の、収納か?」
「まあ、そんなもんです」
「見たことねえぞ、そんなの」
「俺も昨日まで見たことなかったです」
親父はまだ半信半疑の顔だったが、金さえ払えば文句はないらしい。健治が代金を渡すと、すぐに別の片づけへ移っていった。
健治は人混みから少し離れた通路の端で、呼吸を整えた。
できる。
想像以上に、できる。
傷物野菜の処分。売れ残りのパン。余剰在庫の保存。
距離による劣化の停止。持ち運びコストの消失。
頭の中で、いくつもの赤字が黒に変わっていく。
笑いが漏れた。
昨夜、路地裏で石ころ一個を仕舞ったときは「すごい」で終わった。だが市場で実際に手を動かすと、その一語では全然足りない。
仕舞ったパンが冷めない。果物が傷まない。どれだけ放り込んでも重さを感じない。頭で組み立てた計算が、指先で次々と裏付けられていく。
これは戦うための力ではない。だが、物流の力としては——反則だった。
市場を見て回るうちに、日はすっかり高くなっていた。
傷のある果物。焼きすぎたパン。脂の少ない部位だけが残った肉。
型崩れした菓子。樽詰めの塩漬け、味は問題ないが見た目が悪いもの。
最初は怪しんでいた店主たちも、すぐに彼を「半端品を引き取ってくれる変な客」として扱い始めた。こちらとしては好都合だった。変な客でいい。儲け話は、最初から立派な顔をしてやってこない。
夕方近く、パン屋の裏手で、小麦粉まみれの若い職人が大袋を前にうなだれていた。
「それも売れ残りですか」
「ああ」
職人は疲れた顔で答える。麻袋の中には、小ぶりの丸パンがぎっしり詰まっていた。表面の焼き色がまだらで、いくつかは少し焦げている。
「味は悪くねえ。けど、今日は貴族街からの注文が多くてな。見た目が揃わないやつは戻された」
「返品ですか」
「言い方は綺麗だけどな。要するに、いらねえってことだ」
職人は悔しそうに笑った。
「これ、どうするんです」
「店主は家畜商に流すって言ってたよ。安くな」
「人が食うには十分ですよね」
「十分どころか、腹を満たすだけなら上等だよ」
健治はしゃがみ込み、一つ手に取った。まだほんのり温かい。指先に柔らかさが伝わる。
昨日の自分なら、ここでまず利益計算をしただろう。どこに売れば、いくらになるか。どれだけ回せるか。回転率はどうか。
でも今、頭に浮かんだのは別の景色だった。
王宮の外で聞こえた笑い声。市場に溢れる食べ物。そして、まだ見てもいないのに、なぜか確信めいて浮かぶ、王都の外の空腹。
神殿で老臣が言っていた。王国は魔王軍との戦いで忙しいのだと。
忙しい。
その言葉は便利だ。支援しない理由にも、切り捨てる理由にもなる。
「全部でいくらですか」
「またその顔かよ」
職人が苦笑した。もう何度か同じような顔を見られている。損切り品を見ると、健治の顔つきはたぶん少し変わるのだ。
「銀貨三枚。いや、待て、店主に確認を……」
「銀貨二枚と銅貨五枚」
「強気だな」
「今夜のうちに家畜商へ流すなら、その運搬と値引きがある。違います?」
「お前、商人か?」
「物流です」
「なんだそりゃ」
「俺も昨日までそう思ってました」
結局、銀貨二枚と銅貨八枚でまとまった。
パンの袋が倉庫に消える。
一覧に新しい行が追加される。
[丸パン(焼き色不揃い)x64]
{
状態:焼きたてを維持
}
ただ、一覧が増えるたびに、画面の奥で項目が雪崩れるように積み上がっていくのが見えた。
試しに干し豆を取り出そうとして、手が止まった。
一覧に「豆」と入れると、干し豆、生豆、豆の粉、豆入りパン、拾った小石(名前未設定)が並ぶ。小石は豆じゃない。収納したときに名前をつけなかったせいで、サイズと形状だけで近いところへ紛れ込んでいた。
干し豆を選んだつもりが、出てきたのは豆の粉だった。画面をよく見れば、行がひとつずれている。指先の操作ミスだ。前の会社で倉庫管理システムを使っていたとき、検索結果の行がずれてピッキングを間違える事故を何度も見た。あれと同じことが、自分の頭の中で起きている。
近くにいた店主が、こちらをじろりと見た。
「おい兄ちゃん、いま何か出したか?」
「いえ、ちょっと手品みたいなもので……」
誤魔化したが、声が上ずっている自覚があった。人目のある場所で操作をミスれば、怪しまれる。今回は粉だったからまだいい。もし間違えて高価なものを出していたら、盗品と疑われかねない。
「まずいな、これ」
石もパンも野菜も、とにかく入る。
けれど「入る」のと「必要なときに迷わず出せる」のは別だ。
今はまだ数が少ないから気合いで追える。これが桁を一つ超えたら、名前の付け方と並べ方から作り直さないと、たぶん自分が詰まる。
健治はその表示を見て、目を細めた。
焼きたてを維持。
言葉にすると、ますます反則だ。
馬車で何日かかる距離でも、収納した瞬間のまま届けられる。
もし王都から遠い場所に飢えた村があったとしたら。
「いや、あるんだろうな」
思わず口に出る。
「何が?」
「余ってる場所と、足りてない場所ですよ」
「そりゃ、まあ……あるだろうさ。王都の外れでも貧民街はあるし、辺境なんてもっとひでえって聞く」
「辺境、ですか」
「北も南も、王都から離れりゃそんなもんだ。特に最近は税も重いし、軍向けの優先供出もある。城の近くは食えても、遠いとこから先に干上がる」
若い職人は、パン粉を払いながら何気なく言った。
その言葉が、健治の中で小さく音を立ててはまった。
ああ、やっぱりそうか。
余って捨てる場所と、足りなくて干上がる場所。その間に、距離と手間と金がある。
だから流れない。
流れないから、片方では捨て、片方では飢える。典型的な需給の詰まりだった。
そして、その「詰まり」を外せるかもしれないのが、自分のスキルだ。
そう考えて市場に戻り、もう一巡しようとしたときだった。
「ちょっと待て。おい、あんた」
背後から声がかかった。振り向くと、革の胸当てに紋章を縫いつけた男が立っていた。四十前後。腰に帳面を挟み、目つきだけが妙に鋭い。
「商業ギルドの検査だ。登録証を見せろ」
「登録証?」
「この市場で箱単位の買い付けを三度以上やってるな。無登録の大口取引は流通規約違反だ。品を確認させてもらう」
健治の背中に、冷たいものが走った。
スキルがどれだけ便利でも、制度に引っかかれば動けない。通関書類の記載ミスで港が止まるのと同じだ。制度を無視して動けば、いつか足元をすくわれる。仕組みは力で突破できない。
「……あの、買い付けじゃないんです」
「ほう?」
「廃棄品の引き取りです。店主さんの処分費を浮かせる代わりに、捨てるはずのものを引き受けてるだけで」
検査官の目が細くなった。
「処分を引き受けている、と?」
「はい。売買じゃなくて廃棄委託です。ギルドの規定だと、廃棄品の処理受託は買い付けに該当しないはずですが」
健治は自分でも驚くほど冷静に言えた。さっき親父の話を聞いたとき、頭の片隅で引っかかっていたのだ。売買にならない形で物を動かす方法。物流の世界では日常的にやっていたことだ。名目を変えれば、流れは変わる。
検査官はしばらく帳面をめくっていたが、やがて舌打ちした。
「規定上は問題ない、か。だが覚えておけ。次からは目をつけてる」
男は踵を返して去っていった。
健治は大きく息を吐いた。手のひらに汗をかいていた。
ルールの中で動く方法を見つける。正面からぶつかるのは物流屋の仕事じゃない。
ただし、このやり方がいつまで通じるかはわからない。規模が大きくなれば、名目だけでは誤魔化せなくなる日が来る。そのとき必要なのは、抜け道じゃなくて、正面から通れる仕組みだ。
その考えを、頭の隅に置いた。




