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第1話 残業二時、召喚されたのは「勇者」ではなく「社畜」だった

深夜二時を回ったオフィスでは、空調の低い唸りとキーボードを叩く音だけが生きていた。


 佐藤健治さとうけんじ、二十八歳。


 中堅商社の物流部門に勤めて六年目。残業代は固定、休日は電話で消え、急ぎの案件はいつも「悪い、ちょっと頼める?」の一言で彼の机に積み上がる。


 モニターの端には、未読のチャットがいくつも光っていた。


『明朝会議の資料、数字だけ合わせておいて』


『倉庫Bの件、先方に連絡頼む』


『悪い、これも今日中で』


 どれも短い。


 短いくせに、健治の今日を食い潰すには十分だった。


 机の脇には、飲みかけのエナジードリンクが二本。どちらもぬるくなっている。終電はとうに過ぎていた。タクシーを使うほどの金は惜しいし、そもそも始発まで会社にいることに、もうほとんど違和感はない。


 慣れとは怖い。


 おかしいことを、おかしいと思わなくなる。


 薄い目をこすりながら、健治は在庫一覧の最終行に数字を打ち込んだ。これで倉庫AとBの差異は消える。数字はきれいに揃う。現場が本当に楽になるかは知らない。だが、朝の会議で部長に詰められる人間は減る。


 それでいい、と自分に言い聞かせる。


 断れないのではない。


 断ったあと、誰かが困る顔を想像してしまうだけだ。


 学生時代からそうだった。文化祭の雑務も、サークルの会計も、引っ越しの手伝いも、面倒ごとはだいたい最後に彼のところへ回ってきた。健治が優しいからではない。頼めばやると、周囲が知っていただけだ。


 便利な人間。


 それは褒め言葉の顔をした、使い潰しの予告みたいなものだった。


 長く息を落として、健治は椅子にもたれた。凝り固まった肩が鈍く痛む。明日の朝。いや、もう今日の朝か——も全体会議がある。資料の説明はたぶん健治がやることになるだろう。質問されたら答え、責任の所在が曖昧なら、とりあえず謝る。それでまた一日が終わる。


 辞めたい、と思わなかったわけじゃない。


 何度もある。


 けれど、辞めたあとのことを考えると足が止まった。自分が抜けた穴を誰が埋めるのか。引き継ぎの途中で現場が止まったらどうするのか。そうやって考えているうちに、結局また今日まで来てしまった。


「……馬鹿だな、俺」


 誰に聞かせるでもなくつぶやき、健治は立ち上がった。少し歩こうと思っただけだった。固まり切った身体を伸ばして、ついでに自販機で水でも買う。それくらいの小さな休憩くらい、許されるはずだ。


 その時だった。


 床が、光った。


「……は?」


 白いタイルの目地に沿って、淡い光が走る。最初は漏電かと思った。ところが次の瞬間には、それは幾何学的な模様を描き、健治の足元いっぱいに複雑な円陣を形作っていた。


 説明のつく現象がない。


「ちょ、待っ」


 猛烈な浮遊感が身体を包んだ。胃が浮く。視界が白く焼ける。机の上の缶が倒れて転がる音だけが、やけに現実的に耳に残った。


 そして、意識が途切れた。


◆ ◆ ◆


 次に目を開けたとき、健治は見たこともない天井を見上げていた。


 高い。いや、広い、のほうが正しいかもしれない。白い石で組まれたドーム状の天井には、金糸のような紋様が走っている。鼻をくすぐるのは香の匂い。ひんやりとした床の感触。ぼやけた視界の向こうに、大理石の柱と銀色の鎧を着た騎士たちが並んでいるのが見えた。


「おお、目を覚まされましたか!」


 朗々とした声が響いた。


 身体を起こした健治の前で、白い法衣の老人が両手を広げていた。いかにも偉そうな髭。いかにも神官っぽい杖。ここが会社の休憩室でないことだけは、もう疑いようがない。


 周囲を見れば、同じように混乱した顔の若者たちが何人かいる。制服姿の男女。どう見ても高校生だ。


 健治だけが、ヨレたスーツだった。


「勇者様方! 我らルミナス王国は、皆様を心より歓迎いたします!」


 歓迎。


 勇者。


 王国。


 頭が追いつかない単語が並んでいく。老人(たぶん神官長か何かだろう)は感激したように事情を語った。ここはルミナス王国。魔王軍の侵攻に対抗するため、異世界から選ばれし勇者を召喚したのだという。


 どう考えても、異世界召喚としか言いようがない。


 普通ならもっと驚くべき場面なのだろう。だが健治の脳裏にまず浮かんだのは、もっと情けないことだった。


 今日、無断欠勤になるな。


 我ながら終わっていると思う。六年も社畜をやっていると、非常識な状況でも先に勤務連絡の心配が立つ。


 神官長に促され、高校生たちが順に祭壇の水晶へ手をかざしていく。

最初の少年のとき、神殿は歓声に揺れた。


『聖剣の主』


 次の少女ではざわめきが起きた。


『大賢者』


 その次は、『紅蓮の魔術師』


 なるほど、わかりやすく当たりだ。神殿の空気がどんどん華やいでいく。騎士たちの顔も明るい。老臣らしき男たちはうなずき合い、神官長は上機嫌に髭を撫でている。


 最後のほうで、視線が一斉にこちらへ向いた。


「では、そちらの方も」


 そちらの方。名前ですらない呼ばれ方に、健治はそっと息を落とした。


 祭壇へ歩み寄る。場違いなスーツ姿。くたびれた革靴。寝不足で重い頭。ここまでの流れからして、どう考えても自分だけ異物だった。

それでも、触れと言われたからふれる。

透明な水晶はひんやりと冷たかった。


 一瞬光る。


 文字が浮かび上がった。


【スキル:無限倉庫インベントリLv.1】


 神殿が静まり返った。


「倉庫?」


 誰かが、拍子抜けしたように言った。

騎士の一人が露骨に眉をひそめる。老臣たちは顔を見合わせ、すぐに興味を失い視線を逸らした。神官長の笑みも薄れていく。


「物をしまうだけのスキル、か」


「商人でも持つ末技まつぎですな」


「召喚陣に余計な者が巻き込まれたのでしょう」


 遠慮のない囁きが、わざと聞こえる音量で飛んでくる。

健治は水晶から手を離した。


 怒りはなかった。


 驚くほどなかった。


 ああ、そうか。


 こっちでも同じなんだ、と思っただけだ。

役に立つと判断されるうちは歓迎される。思ったほど使えないとわかった瞬間、扱いは変わる。元の世界でも何度も見た。便利そうだから呼んでおいて、都合が悪くなれば切り離す。その構図に、異世界も何もない。


 ただ、違ったのは、一人だけ完全に視線を外さない人間がいたことだ。


 祭壇の脇に立つ、金髪の若い女性。


 歳は健治とそう変わらないだろう。気品のある衣装をまといながらも、その顔つきはどこか硬い。第一王女アリシア。神官長が先ほどそう呼んでいた。王家の血筋が持つ「千里眼」の使い手だとも。


 彼女だけは、失望ではなく、戸惑いに近い目をしていた。まるで、ここに見えているものとは別の何かを見ているような、遠くを測るような目つきだった。


「お待ちください。その方も召喚された以上、王国として」


 アリシアが一歩前へ出る。

しかし、すぐに横の老臣が低い声で遮った。


「アリシア殿下。今は勇者様方への説明が先にございます」


「しかし」


「『倉庫』でございますぞ」


 倉庫。


 たった二文字で話は終わった。

神官長は咳払いを一つして、いかにも穏当おんとうな口調を作った。


「召喚陣はごく稀に、近くにいた者を巻き込むことがございます。気の毒ではありますが王国としても、今回の戦いに不要な人員まで養う余裕はございません」


 不要な人員。


 会社で何度か見た言い回しとよく似ていた。数字が悪い期の、切り捨てる側の言葉だ。


「路銀を持たせて、王都の外へ。それで十分でしょう」


 老臣がそう締めくくる。


「仮に未知のスキルを軍に組み込んだとして、運用の手順も前例もございません。勇者様方の作戦行動に支障が出る恐れすらある」


 別の老臣が、もっともらしく付け加えた。合理的に聞こえる切り捨て方だった。


 神官長も騎士たちも反対しない。


 高校生の勇者候補たちは居心地悪そうに視線を伏せていたが、誰かがかばうこともなかった。責める気にはなれない。彼らだって突然こんな場所に連れてこられた被害者だ。


 アリシアだけが、まだ何か言いたげにしていた。

けれど結局、その唇から言葉が落ちることはなかった。


◆ ◆ ◆


 王宮の門前で、健治は小さな革袋を渡された。

中には銀貨が数枚。


 銀貨のほかにも、古い護符や枯れた薬草、それから手のひらに収まらないほどの青黒い石が詰め込まれていた。やたらに重い。見た目の大きさに比べて、鉄の塊でも握っているような密度がある。何に使うかも分からない。だが、くれるなら貰っておくのが元社畜の性分だった。


 兵士が事務的に言った。


「王都の治安は悪くありませんが、裏路地には近づかぬことです。南門から出れば街道に出られます」


「どうも」


「その……災難でしたね」


 最後の一言だけは、かろうじて人間味があった。

健治は苦笑して、門を離れた。


 夜の王都は妙に明るかった。石畳の道、魔導灯の青白い光、遅くまで開いている屋台、酔客の笑い声。異世界に放り出された実感なんて、もっとゆっくり来るものだと思っていた。


 だが実際には、腹が鳴るほうが先だった。


「まずは飯だな」


 人通りの少ない路地へ入り、健治は肩の力を抜いた。

頭を整理したい。それに、さっきのスキル表示も気になる。


 【無限倉庫】


 倉庫、という単語自体は聞き流せない。五、六年仕事で毎日見てきた言葉だ。


「出てこい。……って、こういうの、どうやるんだ」


 半信半疑で念じてみる。


 すると、目の前の空間に青白い板状の光が浮かんだ。


「うわっ」


 そこに表示されていたのは、想像していたファンタジーっぽい魔法陣などではない。


 タブ。


 検索窓。


 カテゴリ分け。


 収納、取り出し、一覧、並び替え。


「……在庫管理システムじゃないか」


 あまりに見覚えがありすぎた。


 試しに足元の石を一つ拾い、念じて収納する。石は光の粒になって消え、一覧に文字が増えた。


[ただの石x1]


 さらに横には、小さな詳細欄。


 状態:完全保存(時間停止)

 収納中重量:0kg

 使用量:0/∞

 }


 ふと、足元を何かが横切った。

小さなトカゲだった。石畳の隙間から出てきて、落ち葉の下へ潜り込もうとしている。


 ……入るか?


 一瞬だけそう思った。思っただけで手は動かない。

いや、違う。試す気にはならなかった。


 時間停止。生物の場合、呼吸はどうなる。心臓は。血液は。

収納した瞬間、中で生きているのか死んでいるのか、確認する方法がない。もし生きていたとして、取り出したとき無事である保証もない。


 何より、試して、動かなくなったものを取り出す瞬間を想像しただけで、胃の底が冷えた。


 無理だ。これは物を入れる箱だ。命を入れていい箱じゃない。

トカゲは、健治の逡巡など知らずに葉陰へ消えた。


 小さく息を吐いて、健治は視線をスキル画面へ戻した。


 改めて、表示を読む。


 時間停止。


 重量ゼロ。


 容量、無限。


 喉が鳴った。


 石ころ一個でここまで動揺するのも馬鹿らしい。それでも、健治にとっては十分すぎる情報だった。頭の中で数字が走る。保管料、輸送費、廃棄ロス、冷蔵、鮮度維持、人件費、積載制限、納期……


「物流の常識、崩れるだろ」


 市場で余った食材を腐る前に全部回収できる。重たい資材も、輸送費なしで動かせる。道が悪かろうと距離が遠かろうと関係ない。倉庫不足もない。冷蔵車もいらない。積み替えの人員も減らせる。


 それはもう、ただの「荷物持ち」ではない。

むしろ、戦場でも市場でも、世界の形そのものを変えかねない力だった。


 健治の指先が、かすかに震える。


 さっきまで神殿で向けられていた失望の目を思い出した。

あいつらは、これをただの倉庫だと思ったのだ。


 笑えてくる。


「見る目、なさすぎだろ」


 乾いた笑いが漏れた。


魔王討伐だの勇者だのは知らない。ただ一つだけはっきりしたことがある。


 剣より先に人を生かすのは、たいてい兵站へいたんだ。


 兵站ーーつまり補給と物資の流れを管理すること。前の会社で何年もやってきた倉庫管理・配送管理と、やっていることは本質的に同じだ。


 食糧、薬、武器、資材。


 必要な場所へ、必要なものを、必要なだけ、止めずに届ける。

それが崩れればどれだけ強い前線も腐る。

会社で叩き込まれた知識が、血のように身体の奥で騒ぎ始めていた。


 ——もっとも。


 それをさっき自分を切り捨てた連中のために使ってやる義理はない。

健治は青白い画面を見つめたまま、ゆっくりと口の端を上げた。


「勇者様方はあっちでやってくれ。俺は俺でちゃんと休める仕事を探す」


 そう決めた瞬間、ふいに肩の力が抜けた。


 まずは王都市場だ。売れ残りや訳あり品の流れを見る。次に、それを欲しがる場所を探す。王都の外に出れば、たぶんすぐ見つかる。余って捨てられるものと、足りなくて困っているもの。その間をつなげば、商売になるし、人も救える。


 そして何より、もう誰かの都合で夜中まで働くのはごめんだった。

健治は画面を閉じ、王都の明かりのほうを見た。


 このときの彼はまだ知らない。

自分が今後「流し直す」というやり方で、もっと大きなものを動かすことになるとは。


 ただ、その夜の健治が知っていたのは……。


このスキルは、荷物をしまうためのものじゃない。

余っている場所から足りない場所へ、そのまま(腐らせずに)届ける——。

それだけで、たぶん何かが変わる。


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勇者として期待される高校生たちの中で、健治だけが「倉庫」スキルとして軽んじられる展開が切なくも面白く、そこから社畜として培った物流知識が一気に武器へ変わっていく流れに引き込まれました。 ただ物をしま…
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