第18話 一便目の、重さ
「では、交換を開始します」
アリシアの声が広場へ響く。
健治は青白い画面を開き、小分け袋を順に移動させる。空間を介して、一瞬で積み上がる食糧。魔族側の兵が思わず一歩前へ出て、残った側近に睨まれて止まる。
逆側からは、黒曜石と月光草が王国側へ。セレナが月光草の品質を確認し、ガレスが魔鉄屑の数を数える。最初の三分の一。開封。確認。試食。問題なし。
二度目。
三度目。
静かな、しかし妙に張った時間が流れる。そして最後の袋が渡り切ったとき。広場の端で、小さな声がした。
魔族側の荷車の陰。
昨日どこかで見た顔だと思った。あの集落にいた、石をしゃぶって眠っていた子供だ。どうやら大人の後ろに隠れてついてきていたらしい。母親らしき女が慌てて引っ込めようとする。けれど子供の目は、積まれたパンの袋へ釘づけだった。
魔王がそれに気づいた。ほんの一瞬だけ、表情が揺れる。
次いで何も言わず、側近から袋を一つ受け取り、子供の前へ差し出した。丸パンが二つ入った、小さな袋だ。子供は最初、信じられないように袋を見た。それから両手で受け取り、恐る恐る中をのぞく。
パンの匂いがしたのだろう。
次の瞬間、顔つきが変わった。隠れていた空腹が、一気に表へ出る。
でも奪うようには食べない。まず母親を見て、それから小さくちぎって口へ入れる。ゆっくり、噛む。
残りの半分は食べなかった。小さな手で上着の内側へそっとしまう。誰かの分を取っておくみたいに。
その目に、涙が浮かんだ。
大げさな演出なんて何もない。ただ、今まで石をしゃぶっていた子どもが、ようやくパンを噛んでいる。その光景が広場の空気を一瞬だけ止めた。
王国側の騎士達も、魔族側の兵達も、誰もすぐには何も言えなかった。
ヴァルツが、それを見ていた。その顔に何が浮かんでいたか、健治にはわからない。怒りか、悔しさか、あるいはもっと複雑な何かか。ただ、目を逸らさなかったことだけは確かだった。
健治はその沈黙の中で、そっと息を吐いた。
これだ。
たぶん、自分が見たかったのは。
勝ち負けじゃない。少なくとも、こういう形で流れが戻る瞬間だ。
「……初回交換、完了です」
アリシアが静かに告げる。その声に、ようやく世界が動き出した。
魔王は健治を見た。
「物流屋」
「はい」
「お前の言う『流れ』とやら、確かに見た」
「そりゃどうも」
「だが、一便で世界は変わらん」
ゼルダークはそこで言葉を切り、健治をまっすぐ見た。深い疲労の奥に、別の光があった。怒りに近いが、もっと冷たい。
「お前のやり方は合理的だ。物の流れを作り、数で証明し、感情を迂回する。それは認める」
「……」
「だが、合理的であるがゆえに——我が民の怒りを、数字で処理するな」
健治は言い返せなかった。
ガルドの背中が浮かんだ。あの人の怒りは、交易の損益計算では量れない。百年の戦争で積み上がった死者の重さは、どんな帳簿にも載らない。それを「仕組みで回る」と言い切ることの傲慢さを、魔王は静かに突いてきた。
「すみません」
出てきたのは、謝罪だった。反論ではなく、言い訳でもなく。
ゼルダークが目を細めた。意外だったのかもしれない。
そのとき、横からアリシアが一歩前に出た。
「怒りを数字にしないことが、私の仕事です」
ゼルダークがアリシアを見た。
「この者の仕組みが届かない場所は、私が引き受けます。あなたの民の怒りも、ガルド殿の痛みも、帳簿には載せません。ですが——忘れもしません」
ゼルダークは長く沈黙した。
「……王女」
「はい」
「お前のほうが、よほど厄介だ」
それが褒め言葉なのか皮肉なのかは、健治にはわからなかった。ただ、ゼルダークの目から最も硬い部分が一枚剥がれたように見えた。
そこで一拍置いて、ゼルダークは低く続けた。
「だが、変わらぬことを選ぶには、もう遅い」
「知ってます。だから次便があります」
ゼルダークは低く息を鳴らした。
それが笑いだったのか、呆れだったのかはわからない。ただ、完全な否定ではなかった。
ゼルダークはそこで、ふと振り返った。ガルドが立ち去った方角を一瞬だけ見て、それから視線を戻す。
「あいつの怒りを背負えぬ王は、王ではない」
独り言のように言った。
「だが、ガルドは戻る。怒りが先に立つ奴だが、馬鹿ではない。腹が膨れれば、頭も動く」
「だといいですけどね」
「その『だといい』を、次便で証明しろ。物流屋」
「それは俺の台詞です」
◆ ◆ ◆
休息所跡から砦へ戻る道すがら。ルーファスが苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「一応、成立はしましたな」
「一応?」
健治が返す。
「初回は、です。王都に戻れば反発は出ます」
「でしょうね」
「ですが、同時に資源も入る。戦場の圧も少しは下がる。そこをどう説明するか……」
「そこは王宮の仕事では?」
「……あなた、時々ひどく冷たいですね」
「今日の役割分担です」
横でアリシアがさらりと言った。ルーファスが言い返しかけて、結局飲み込む。その様子に、健治は口元を緩めた。
砦が近づく。ベヒモスの死骸はもう大半が片づけられ、遠くから見ても昨日より「戦場」の輪郭が薄くなっていた。
「王女様」
「はい」
「一便、ちゃんと回りましたね」
「ええ」
「全員が納得してたわけじゃないけど」
「ええ」
アリシアはまっすぐ前を見たまま答えた。
「ガルドも。ヴァルツも。たぶん他にも、黙ったまま飲み込んだ人がいる」
「それでも、回った」
「割れながらも、進んだ」
健治は、その言葉をしばらく噛んでいた。
全員が賛成する和平なんてない。全員が納得する交易もない。それは前の世界でも同じだった。プロジェクトが全員一致で動くことなんて、一度もなかった。ここでは、もう一つ選択肢がある。割れたまま、進む。
反対する声を潰さず、でも止まらず、一歩だけ先へ行く。それが出来たのは、自分一人の力じゃなかった。
ガレスがヴァルツを止めてくれた。
アリシアが文言の線を引いてくれた。
魔王がガルドの離脱を受け入れて、それでもうなずいてくれた。
仕組みの外で、人が動いた。
その事実が、今の健治にはどんな設計図より重かった。
「ここから先のほうが、たぶんもっと面倒です」
「でしょうね」
「やめます?」
「やめません」
即答だった。健治は笑った。
「だと思った」
「あなたは?」
「……俺も」
そう答えて、少し驚いた。「たぶん」がつかない。
前の自分なら、ここで保険をかけた。「状況次第ですけど」「まあ、とりあえずは」そういう留保をつけて、逃げ道を残す癖があった。
今は、それが要らない。少なくとも、流れを戻すまでは。
そのとき、隣にアリシアが来た。
交渉の正装が泥で汚れている。ガルドの離脱を引き留めに行っていたのだろう。
「止められませんでした」
その声は、王女の声ではなかった。ただの、疲れた女の声だった。
「殿下——」
「今だけ、殿下と呼ばないでください」
健治は口を閉じた。
アリシアは数秒だけ目を閉じ、それから元の表情に戻った。王女の顔だ。
「失礼しました。続けましょう」
「はい」
何も聞かない。でも、あの数秒で見えたものは、忘れられなかった。




