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第17話 正しいと、赦せるは、同じじゃない

 翌朝、魔王は戻ってきた。


 前日より、目の下の影がわずかに濃い。側近たちの顔も硬かった。カザンに戻ったはずのガルドの姿もある。


「説得は難儀した」魔王は開口一番、そう言った。


「兵にも、後ろで飢えている集落にも、奪うより待てと説かねばならん。おそらく今日一番難儀なのはそこだ」


 その視線が健治とアリシアを順に射る。


「だが、今日食わせねば明日がない。ならば、王として嫌な選択を取るしかあるまい」


「条件付きで受ける」


 そこで初めて、広場の空気が一段だけ動いた。ただし、全員が動いたわけではなかった。魔王の斜め後ろに立っていたガルドが、そこで一歩前に出た。


「王よ」低い声が、広場に落ちた。


「申し上げる。あたしは、この交易には従えないよ」


 魔王が振り返る。側近の目はすわっていた。


「あたしらの兵が何人死んだ。あの砦の前で、人間の剣と矢に倒されて。その相手に頭を下げ、食糧を乞うってのかい?」


「頭は下げておらん」静かに返す。


「実質は同じだろ。食えないから物をくれと。それを交易と呼び換えたところで」


「ガルド」


「先の略奪も、あれは兵が間違えたんじゃない。飢えた者が、目の前の食糧を取っただけだよ。それを処罰して、人間に詫びを入れるなんて……」


「ガルド」魔王の声が低く沈んだ。


 広場が凍りつく。


「お前の怒りは理解する。だが、怒りで腹はふくれん」


「それでも」


「それでも、子どもは飢えている。お前の部下の家族も」


 ガルドの顔が、一瞬だけ歪んだ。痛いところだったのだろう。


「あたしは、この場を辞退するよ」


 低く吐き捨てるように言い、ガルドは踵を返した。魔族側の兵の何人かが目配せを交わす。動揺しているが、後を追う者はいない。


 魔王はその背を見送り、やがてこちらへ向き直った。


「一枚岩ではない。見てのとおりだ」


「こちらも同じです」アリシアが返した。


 その返答の意味が何を指していたのか、健治にはすぐにわかった。なぜなら、まさにそのとき、人間側でも同じ問題が起きかけていたからだ。


 初回交換の準備が始まったのは、その日の午後のことだった。まだ暗い色の残る空の下、休息所跡の広場に双方の荷が並び始める。王国側はパン、干し豆、見切り野菜、塩漬け肉を小分けにした袋。


 魔族側は黒曜石の束、乾燥月光草、魔鉄屑を入れた木箱。


 確認、印章の照合、開封立会い、試食、検品。一つ一つの手順を踏むたびに時間がかかるが、その面倒をやるからこそ成立する。

 ルーファスは最後まで渋い顔だったが、文面の読み上げはきっちりやった。魔王側の側近も同様だ。ガルドの不在が空白を作っていたが、残った側近たちは粛々と手順を進めた。


 準備が整い、あとはアリシアの号令で交換を開始する、その直前だった。


 護衛騎士のひとりが、列を外れた。若い男だった。砦の防衛戦からずっと前線にいた騎士で、名はヴァルツ。ガレスの部下であり、ベヒモス戦では左腕に深い裂傷を負いながらも壁上に立ち続けた男だ。


 ヴァルツは自分の前に並んだ食糧の袋を見下ろし、それから魔族側の兵たちを見た。その目が、暗かった。


「……ガレス隊長」低い声だった。


 ガレスが振り返る。


「どうした」


「申し訳ありません。自分は——この荷を渡せません」


 空気が変わった。


 周囲の騎士たちが視線を集める。魔族側の兵もこちらを警戒する。ガレスは表情を変えず、ヴァルツの前に歩み寄った。


「理由を言え」


「トールです」ヴァルツの声が、わずかに震えた。


「トールは、壁で、自分の隣にいました。矢避けが間に合わなかった。魔族の矢が喉を貫いて、自分の目の前で——」


 言葉が途切れる。


「その矢を射ったのは、向こう側の兵です。あの中に、同じ部隊の奴がいるかもしれない」


 ヴァルツの手が、剣の柄を握っていた。抜こうとしているのではない。ただ、他にすがるものがなかっただけだ。


「仲間を殺した相手に、飯を食わせる。自分は……それが、できません」


 ヴァルツの足が動いた。目の前に積まれた食糧の袋を、蹴り飛ばした。麦粉の袋が裂け、白い粉が広場の土の上に散った。干し肉の包みが転がり、塩漬けの根菜が石畳にぶつかって割れた。


 広場が凍った。


 魔族側の立会人が、一歩退いた。顔が硬い。


「やはり、人間は信用できない」


 低い声で呟き、魔族側の兵がきびすを返しかけた。健治の胃が縮んだ。終わる。ここで引き返されたら、交易は二度と成立しない。信頼は一便では積み上がらないが、一瞬で崩れる。


 アリシアが一歩前に出かけた。ガレスも動こうとした。その二人より先に、声が飛んだ。


「待てよ」


 カイルだった。護衛の列から外れて、カイルが広場の中央に歩み出た。散乱した麦粉の上に立ち、まず魔族側の立会人を見て、それからヴァルツを見た。


「俺だって許してねえよ」


 カイルの声は怒りで震えていた。けれど、それはヴァルツへの怒りではなかった。


「壁の上で何人死んだと思ってる。俺の炎が届かなくて死んだ奴だっている。魔族を許したわけじゃない」


 ヴァルツが、カイルを見た。


「でもな」


 カイルは魔族側を指した。その先にいるであろう、集落の方を。


「あっちの石の上で寝てるガキを見ただろ。石しゃぶって腹ごまかしてるガキだ。あれを見て、飯くらい食わせてやれよって……思わなかったか」


 ヴァルツの顔が歪んだ。


「俺はムカつくよ。今でもムカつく。でも、ムカつくのと、ガキを飢えさせていいかは別の話だろ」


 健治は息を止めていた。


 あの砦で「ムカつく」と吐き捨てた少年が、今、同じ「ムカつく」を別の形で使っている。怒りの方向が、変わっていた。


 魔族側の立会人が、足を止めた。振り返って、カイルを見ている。カイルはそちらにも向き直った。


「あんたらも信用してない。正直、顔も見たくない。でも、信用してなくても飯は渡せる。信用は後から積めばいい——って、あの物流屋が言ってた」


 健治は思わず目を伏せた。自分の言葉が、自分より若い人間の口から、自分より真っ直ぐに出ていく。それが眩しくて、少しだけ苦かった。



 沈黙が長く落ちた。



 魔族側の立会人は、何も言わなかった。だが、足を戻した。元の位置へ、静かに戻った。ガレスがヴァルツの前に歩み寄った。上官としてではなく、同じ壁に立った兵士として。


「トールの話をしていいか」


「はい」


「トールは、砦に食糧が届いたとき、真っ先に傷病者の分を確保した男だ。自分は後でいいと言って。覚えてるか」


「覚えてます」


「あいつは「食えない奴を先にしろ」って言える人間だった。相手が誰かじゃなく、状態がどうかで判断していた」


「お前がそれをできないのは、わかる。トールの顔が浮かぶんだろう。当たり前だ。俺だって浮かぶ」


 ガレスの声は低かったが、広場の端まで届いていた。


「だが、トールならどうしただろうな」


 ヴァルツの顔が歪む。


「向こう側にも、飢えた子どもがいる。石をしゃぶって眠ってる子どもだ。トールがそれを見たら——「先にしろ」って言うんじゃないか」


「……それは」


「それは卑怯です、と言いたいのはわかる」


 ガレスが静かに続ける。


「でもな、ヴァルツ。お前が今この荷を渡さないことで、向こうの子どもが一人、今夜も石を噛んで寝る。その事実は変わらん」


「……」


「お前の怒りを否定する気はない。ただ、怒りの向きと、荷の向きは、別にしてくれ」


 長い沈黙が落ちた。


 ヴァルツの手が、剣の柄から離れた。代わりに、食糧の袋を掴んだ。


「自分で、運びます」


 その声はまだ震えていたが、足は前に出ていた。ガレスはうなずいた。それ以上は何も言わなかった。アリシアがそっと息をついたのが、健治にはわかった。健治自身も、胸の中で何かが詰まるような感覚があった。


 仕組みだけでは、ここは超えられない。


 あれは仕組みの外の話だ。


 人が人を説得する。論理ではなく、死んだ仲間の名前で。自分には出来ないことが、また一つ増えた。


 しかし不思議と、それは苦しくない。

 出来ないことを出来る人間が、すぐ隣にいる。

 それが「分担」の本当の意味なのだと、あの日の痛みがようやく教えてくれていた。


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