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第16話 王女の書状と、魔王の沈黙

 交渉が終わったあと、アリシアは砦の一室で書状を書いていた。書状は二通。一通は宰相閣下。もう一通は、商業ギルド本部。


 宰相への書状には、「限定的な物資交換の検証」の初回結果と、魔族側から提供された地形情報の戦略的価値を記した。交易という言葉は一度も使わない。代わりに「戦時における情報収集の一環として、物資の試験的な往来を実施した」と書いた。嘘は書いていない。ただ、切り口を変えている。


 一文字ごとに、頭の中で老臣たちの顔が浮かぶ。

 宰相は慎重だが愚かではない。この書状が「既成事実を先に作って後から追認させる」手口だと見抜くだろう。だが同時に、魔族側からの地形情報に戦略的価値があることも認めざるを得ない。百年間手に入らなかった山脈の裏側の地図だ。ルーファスが持ち帰れば、軍部は色めき立つ。


 そこを狙っている。


 反対できない状況を、紙の上で先に作る。あの物流屋が叩き台を作るように、アリシアもまた王都に向けた叩き台を組んでいた。


 商業ギルドへの書状には、もう少し踏み込んだ。辺境の流通が「無登録」と見なされている件について、王家直轄の検証事業であることを明記し、ギルドの管轄外である旨を通達した。


 これで止まるとは思っていない。宰相派は名目を変えて妨害を続けるだろうし、ギルドも引き下がるとは限らない。だが、書面で一度釘を刺しておけば、次の一手に時間がかかる。官僚機構の動きは遅い。その遅さを、今は利用する。


 ペンを置いて、紙面を見下ろす。


 整った字だ。王宮の教育が染みついた筆跡で、感情の揺れは一画も見えない。でも、署名の手が止まった。


 この書状を出した瞬間、アリシアは王家の中でさらに孤立する。宰相派にとっては「敵に塩を送る王女」であり、王家にとっては「独断で動く跳ねっ返り」だ。父王が黙認してくれるうちはいいが、それもいつまで続くかわからない。


 頭の奥に、氷の針が回る感覚があった。千里眼の代償だ。今朝も使った。交易地点の周辺に伏兵がいないか確かめるために。使うたびに、翌朝の視界がほんの少し歪む。誰にも言っていない。


 言えば止められる。止められれば、見落とす。見落とせば、人が死ぬ。

 あの物流屋と同じだ、と思った。一人で抱えて、仕組みの裏側に自分を隠す。合理的に見えて、実は最も属人的なやり方。


 それでも。


 署名する。第一王女の印を押す。封をする。二通の書状を伝令に渡したとき、背中にかすかな痛みが走った。千里眼の後遺症か、ただの疲労か。どちらでもいい。今日やるべきことは、やった。


 明日は、あの男が作った叩き台を元に、もう一度魔王と向き合う。仕組みを回す側に立つなら、感情は後回しにするしかない。王女としても、一人の人間としても。


◆ ◆ ◆


 ーー同じ夜。

 山脈の向こう側で、ゼルダークは陣営の焚き火の前にいた。

 条件を記した紙片が膝の上にある。少量、高頻度、小分け交換、相互試食。人間の物流屋が並べた言葉を、何度も反芻していた。


 合理的だ。


 そう認めるのはしゃくだが、事実は事実だった。一度に大量を交換すれば裏切りのリスクが上がる。小分けにして回数を重ねれば、信頼の代わりに実績が積める。信頼がない者同士が最初に交わすべき形として、間違ってはいない。


 問題は、合理的であることと、受け入れられることは別だということだ。


 ガルドが来た。カザンから半日かけて歩いてきたらしい。焚き火の前に腰を下ろし、火を見つめている。その横顔は前より痩せていた。

 長い付き合いだ。若い頃、同じ前線で背中を預け合った。ガルドは剣で、ゼルダークは頭で、互いの足りない場所を埋めた。王になったのはゼルダークのほうだったが、ガルドはそれをねたまなかった。「あんたが被る冠は重そうだ」と笑っただけだ。


 交易のことを話した。確実な敗北と、不確実な取引。どちらを選ぶか。子供たちの口に入れるものが、他にあるか……。


 ガルドの怒りは深い。夫をあの砦の前で亡くした。孫のフィルは石をしゃぶって眠っている。その相手と取引しろと言っている。わかっている。長い沈黙のあと、ガルドは息を吐いた。白い息が夜気に溶ける。


「あんたがそう言うなら、あたしは黙ってるよ」


「反対しないのか」


「反対したって、あんたは聞かないだろ。昔からそうだ」


 ガルドは立ち上がった。腰が重そうだった。


「あたしはカザンに戻る。フィルたちに、もう少しだけ待てって言わなきゃいけない」


 その背中が闇に消えるまで、ゼルダークは焚き火を見つめていた。


◆ ◆ ◆


 翌朝、リーゼルが天幕に来た。側近文官は手元の帳面ちょうめんを開き、眼鏡の奥の目で数字を追っている。いつも通り几帳面きちょうめんだった。


「交換品の選別は完了しております。黒曜石こくようせきは二十束、月光草げっこうそうは乾燥済みの三箱、魔鉄屑まてつくずは——」


「足りるか」


「数は足ります。ただ、品質で難癖をつけられる可能性は残ります」


「人間は難癖が好きだからな」


「お互い様かと」


 ゼルダークは鼻を鳴らした。十年間補佐してきた男の、控えめな皮肉だった。


「ガルドは」


「昨夜カザンへ戻られましたので、本日の交換には不参加かと。ガルド殿の持ち場は、他の者で分担する手配を済ませております」


「気が回るな」


「十年も陛下の補佐をしておりますので」


 リーゼルが退がったあと、ゼルダークは天幕の入口から外を見た。今日、あの物流屋と王女の前に立つ。条件を受ける。


 そして「一便で世界は変わらん」と、あの男の顔に言ってやる。


 それくらいの意地は、まだ残っている。


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