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第12話 暴食のベヒモス、砦の前に立つ

 絶望の砦へ戻ったその日の夕方から、中庭の空気は一変した。

今度の敵は兵の群れではない。巨大な一頭。幹部級の魔獣、暴食のベヒモス。


 その名が砦全体へ伝わると、騎士たちの間に走ったのは恐慌ではなく、妙に乾いた緊張だった。補給が届く前なら、それだけで心が折れていただろう。だが今は違う。腹の中に温かいものがあり、眠れている。人はそれだけで「怯える」と「備える」の違いを持てるようになる。


 健治は中庭の中央に木箱をいくつも並べ、片っ端から中身を確認していた。


「耐火薬はこっちにまとめる。壁上班と門前班で配分を分けるな。門前は即効性優先、壁上は持続時間が長い方」


「了解!」


「回復薬はいつも通り重傷者優先。ただし今回は火傷が出る。冷却布も一緒に」


「冷却布?」


「水に浸して巻くやつ。説明は後!」補給係の騎士たちが走る。


 大鍋の番、薬の番、予備武器の番、門修復の番。

昨日までぎこちなかったその流れは、今やかなり滑らかだった。


 ガレスが腕を組んだまま近づいてくる。


「ずいぶん手際がいいな」


「一回、火力の高い案件で現場燃やしかけたことがあるんで」


「何を言ってるのか半分もわからん」


「わからなくていいです。要は、火を使うやつには先に備えろってこと」


 ガレスは鼻を鳴らしたが、それ以上は聞かない。現場の人間は、説明の美しさより、段取りの速さを信用する。


 中庭の別の一角では、セレナが治癒班へ手順を共有していた。彼女の声は落ち着いていた。大賢者の名にふさわしく、冷静で、的確で、揺れがない——表向きは。

 実際には、指先が冷たかった。袖の中で拳を握って温めている。先日のトリアージ判断ミスが、まだ頭から離れない。あのとき軽傷者を優先したせいで、重傷者の一人が危うかった。今度は間違えられない。


 しかし、ベヒモスが来れば負傷者は桁が違う。全員を助けるのは無理だ。誰を先に治すか。誰を後回しにするか。その判断を、十七歳の少女が一人で背負う。


 ——いいえ、一人じゃない。

 セレナは治癒班の面々を見回した。彼女が教えた手順を、全員が復唱している。仕組みだ。あの物流屋が言っていた。一人で全部やるな。回せる人間に回せ。


「私が倒れても、手順通りに」


「倒れないでくださいよ、セレナ様」


「倒れないつもりです。でも、もしものときは」


 治癒班の年嵩としかさの兵が、黙ってうなずいた。


「火傷は深さだけ見ないで。表面が浅くても広いと危ないわ。冷やしてから、薬を塗って、必要なら治癒術」


「わかった!」


「飲み薬は吐いた人に無理に飲ませない。少し落ち着いてから」


 レオンは新しい剣を振って感触を確かめている。カイルは、いつもより少し控えめな火力で射線確認をしていた。たぶん健治に『焦って燃料を使い切るな』と何度も言われたのが効いている。


 そんな砦の準備を、アリシアは壁上から見渡していた。今日の彼女の役割はかなり重要だった。健治は木箱を閉めながら、ふと壁の上を見た。風に髪をなびかせたまま、微動だにしない横顔がある。いつからあそこに立っていたのだろう。声をかけようとして、一瞬だけ間が空いた。


「王女様」


「はい」


「千里眼、どこまで追えます」


「地上の大きな対象ならかなり正確に。ですが速く動かれると、読みがずれる可能性があります」


「今回欲しいのは、ベヒモスの進路と、頭部の位置です」


「頭部……?」


「最後に使うかもしれない」


 アリシアはそこで、健治の視線を読んだらしい。ほんの一瞬だけ目を見開いた。


「まさか」


「使えるものがあるんですよ。在庫に」


「あなた、在庫の範囲がたまに怖いです」


 倉庫一覧の中にある一つの項目を確認した。


[召喚儀式用巨大魔石 x1]


 王宮を追い出されたとき、手切れ金の革袋に紛れていた青黒い石。あのときは「名称が一致しないし、何に使うかも分からない」と思いながら仕舞ったが、まさかこんな形で役に立つとは思わなかった。


 もっとも、使うなら条件がある。動く巨大な標的の、頭上に正確に落とすこと。外せば味方が死ぬ。だからこそ、アリシアの目が必要だった。


「来るなら、夜半か明朝です」アリシアが言う。


「向こうも、出すなら兵を整えてからでしょう」


「だろうね。飢えてても、切り札を雑には切らない」


「そうあってほしいですが」語尾に、不安が混じる。


 魔族側の「整う」は、人間側のそれとは違う。飢えたままでも突っ込まなければならない事情があるなら、理屈より先に賭けに出てくる可能性は十分あった。


◆ ◆ ◆


 それは、明朝に来た。

 夜のうちは不気味なほど静かだった。砦の誰もが浅い眠りで夜明けを待ち、空が白むころ、東の地平線に最初の異変が現れた。


 土煙だ。遠い。


 しかし、ただの部隊移動じゃない。地面そのものが揺れている。見張り台の上で、若い騎士が声を裏返らせた。


「来るぞ!」


「数は!?」


「一つ、いや、でかすぎてわからん!」


 壁上へ上がった健治は、その瞬間に嫌な確信を得た。やがて地平線の向こうから現れたのは、「生き物」というより「歩く丘」だった。


 四足。


 黒褐色の皮膚は岩みたいに分厚く、背中には古傷のようなひびが走っている。頭部には二本の歪な角。口を開くたび、奥で赤い熱が脈打っていた。


 暴食のベヒモス。


 その一歩ごとに地面が鳴る。後方には魔王軍の兵が続いているが、誰の目にもわかった。主役はあれだ。あれで砦をこじ開けるつもりなのだと。


「でかすぎるだろ」レオンが壁上で呻く。


 カイルもいつもの威勢がない。


「炎も、来る」


 セレナが唇を引き結ぶ。健治はすぐに声を張った。


「耐火薬、今! 壁上第一、第二は全員飲む! 門前班も順番に回せ! 飲んだやつから合図しろ!」


「了解!」


「冷静に行け、こぼすな! 一本ずつしかない。顔で飲むなよ!」


 緊張で騎士たちが少し笑う。その笑いで手の震えが一段落ちる。悪くない。

 アリシアが高台へ上がり、両目を閉じた。王家の千里眼。彼女の周囲に、淡い銀色の光が揺らぐ。


「進路、門正面へ一直線です!」


「速度は?」


「速くはありません。ですが、止まる気がない!」


 健治はうなずき、画面を開く。


 {

  耐火薬配布:進行中

  門前班準備率:62%

  壁上班準備率:81%

  矢束:中

  魔力回復薬:低

 }


「カイル!」


「な、何!」


「最初から最大火力撃つな。目と口の中を狙え。嫌がらせでいい」


「嫌がらせって……!」


「十分だ!」


 ガレスが門前で大剣を担ぎ直す。


「団長! 門を死守じゃない! 一撃目は受け流せ! 真正面で止めるな!」


「門を捨てろと!?」


「捨てるんじゃない、折れ方を選ぶんです! 横へ流せるだけ流す! 人を真下に置くな!」


 ガレスが一瞬だけ迷い、すぐ吠えた。


「聞いたな! 左右へ散れ! 中央は開ける! 潰されるなよ!」


 騎士たちが走る。その直後、ベヒモスが咆哮した。空気が震える。


 次の瞬間、その口から真紅の炎が吐き出された。壁上をぐようなブレス。けれど、耐火薬を飲んだ騎士たちは悲鳴こそ上げても、即死はしない。熱でのけぞりながらも持ち場に残る。セレナの治癒班がすぐ後ろで動き、冷却布が飛ぶ。


 ベヒモスの最初の炎は、健治の見積もりよりわずかに広かった。西壁の端で、耐火薬を飲んでいたはずの騎士が二人、熱に押されて膝をつく。


「西壁、足りない!」

 叫びが飛んだ瞬間、健治は舌打ちした。

「見積もりが甘い」

 門前を厚くしすぎた。砦の正面突破を前提に組みすぎて、西壁側の余裕を削っていた。

「予備を西壁せいへきへ回せ! 冷却布も一緒に! 門前は半数そのまま、残りは壁上支援!」


 ミスを引きずる暇はなかった。間違えたなら、次の手で埋めるしかない。再配置が整う前に、西壁から担架が一つ下りてきた。名前は知らない。だが、さっき耐火薬を配ったとき「助かります」と短く礼を言った騎士だった。火傷で右腕の皮膚がただれ、意識は朦朧としている。セレナの治癒班が駆けつけるが、顔色は白い。


 健治は声を出さなかった。出したら、手が止まる。怖かった。


 認めたくないが、怖かった。砦の中庭で人が死にかけている。自分の判断一つで味方を殺す。前の世界では、最悪のミスでも始末書で済んだ。ここでは人が死ぬ。その重さが、画面を操作する指先にのしかかっていた。


 しかし頭の隅で、数字が冷たく回る。あの騎士に渡した耐火薬は、門前に厚く配った分を削れば確保できた。俺の判断だ。俺が西壁を薄くした。謝るのは後だ。今はまず、同じことが二人目に起きないようにする。


「効いてる!」


「完全じゃないけど十分!」


 健治が叫ぶ。


「次、来るぞ!」


 ベヒモスは炎を吐き切ると、そのまま門へ体当たりした。


 轟音。


 砦全体が揺れる。門扉がひしゃげ、鉄の蝶番が悲鳴を上げる。だが、中央に兵を置かなかったおかげで押し潰される者はいない。左右へ散っていた騎士たちが、体勢を崩したベヒモスの脚元へ槍を突き立てる。


「浅い!」


「皮が厚すぎる!」


 当然だ。あの巨体を普通の武器で止めきれるとは最初から思っていない。壁上から矢が降る。カイルの炎弾が顔面をかすめ、ベヒモスが苛立たしげに頭を振る。それでも致命傷にはほど遠い。


 壁上で、カイルは歯を食いしばっていた。効かない。「紅蓮の魔術師」の炎が、かすり傷にすらならない。外皮が厚すぎる。全力を叩き込めば少しは違うかもしれないが、それをやれば三発で魔力が枯れる。あの物流屋に「焦って燃料を使い切るな」と言われた意味が、今になって身体に染みていた。


 悔しかった。勇者として召喚されて、いちばん派手な肩書きをもらって、それで目の前の化け物一匹焼けない。レオンは斬りかかれる。セレナは治癒で人を繋ぎとめられる。俺は何だ。花火か……。


 砦に来る前、カイルは自分が一番強いと思っていた。火力なら誰にも負けない。「紅蓮の魔術師」の名前は伊達じゃない。でも火力は、相手に届かなければゼロだ。あの物流屋が「在庫は使わなきゃただの荷物だ」と言っていた。今の自分がそれだ。火力という在庫を持っているだけで、使い方を間違えている。


 ——使い方を変えろ。

 壁を焼くような全力じゃなくて、針で刺すような一点を狙え。あの男なら、たぶんそう言う。「大きく運ぶより、必要な場所に正確に届けろ」


 そのとき、足元に何かが滑り込んできた。

 魔力回復薬。空間がかすかに歪んで、壁の縁に瓶が一本現れた。健治が倉庫から直接送り込んだのだ。黙ってそれを掴み、栓を歯で引き抜いて飲んだ。苦い液体が喉を焼く。同時に、干上がりかけていた魔力が腹の底から湧き上がる。


 こいつがいなかったら、俺はもう空っぽだ。

 認めたくないが、事実だった。あの男は前線に来ない。剣も持たない。炎も撃てない。でも、あの男がいなければ、自分の炎はとっくに消えていた。


 だったら、まだ燃やせる分を無駄にするな。カイルは空の瓶を放り、両手に炎を灯した。今度は威力ではなく、精度で撃つ。目。口の中。鎧の隙間。火力じゃなく、火点で勝負する。


「硬いな……」画面越しにその動きを見る。


 巨体。分厚い外皮。高熱。そして何より、飢えている。そう、飢えているのだ。地響きの合間、ベヒモスの腹が見えた。分厚い皮膚の下が、異様に落ちている。山のような体躯なのに、腹だけがえぐれたみたいにへこんでいた。


「王女様!」


「見えています!」アリシアの声は緊張で張っていた。


「痩せています! あれも、まともに食べていない!」


 ぞっとした。あれほどの魔獣ですら、飢えたまま前線へ出されている。もう魔王軍には「温存」の余裕がない。だからこそ、一気に仕留めなければならない。


「団長! 脚を狙って倒すのは無理! 時間を稼いで!」


「言われなくてもわかってる!」


 ガレスが叫び返し、大剣でベヒモスの前脚へ斬りつける。浅い。それでも無意味ではない。魔獣の注意がそちらへ向く。その隙に左右から槍兵が突き、壁上からは油を染み込ませた矢が目元を狙う。


 健治は画面を切り替えた。指が一瞬、迷った。


 耐火薬は「砦/即応/戦闘」にある。回復薬は「砦/即応/医療」だ。両方を同時に出したいのに、名前空間の階層を一段ずつ潜らないと辿り着けない。平時なら数秒の操作が、戦場では致命的に長い。


「ケンジ、早く!」壁上からガレスの声が飛ぶ。わかってる。わかってるけど、整理の階層が深すぎる。平時に丁寧に仕分けた分類が、今は逆に足を引っ張っている。


 舌打ちして、二階層を一気に飛ばした。精密な分類を捨てて、上位カテゴリから直接引く。雑だが速い。前の会社で急ぎの出荷を捌くとき、棚番を無視してロケーション総当たりで探したのと同じだ。綺麗じゃないが、今は間に合わせが正解だった。


  予備耐火薬:残16

  回復薬:残12

  門前負傷:増加中

 }


 いくしかない。ただし、このままでは足りない。密度は異常だが、あの巨体の頭蓋を砕くには質量が足りない。


 倉庫の注釈が頭をよぎった。「高熱で体積・質量が膨張」


 カイルがいる。


「カイル!」


「何だよ、忙しいんだけど!」


「お前の炎、最大出力でどこまで出せる」


「は? ベヒモスに効かないって話だろ!」


「ベヒモスじゃない。この石に撃て」


 健治は倉庫から魔石を取り出した。青黒い石が壁の上に現れる。手のひらに収まらないほどの大きさ。見た目に反して、地面が軋むほど重い。


「石に? 何で」


「いいから全力だ。この石は熱で膨らむ。お前の炎がデカければデカいほど、こいつの質量が増える。増えた分だけ、あいつの頭が砕ける」


 カイルの目が変わった。火力が意味を持つ。ベヒモスの外皮を焼くためじゃない。この石を育てるための炎。使い方を、変える。


「やってやるよ、物流屋」


 カイルが両手を突き出した。紅蓮。その名に恥じない色の炎が石を包んだ。壁の石材が熱で白く変色するほどの温度。兵士たちが反射的に後ずさる。


 魔石が脈打つように震え、膨張を始めた。拳大が頭蓋ほどになり、頭蓋が樽ほどになり、樽が荷車ほどになる。地面にヒビが走った。魔石の青黒い表面に赤い亀裂が走り、内側から光が漏れている。


 カイルの額に脂汗が浮く。魔力が急速に減っている。だが手は止めない。


「もういい、十分だ!」


 健治が叫び、膨張した魔石を倉庫に収納し直した。荷車二台分はある。重量は計測不能。画面に表示される数字が桁を超えて点滅している。


 カイルが膝をついた。魔力を使い果たしている。


「頼んだぞ、社長」


 初めて「社長」と呼ばれた気がする。


 ただし、条件がまだある。ベヒモスが門に頭を突っ込み、動きが止まった瞬間にしか当たらない。外せば石は砦の壁を壊す。味方を巻き込む。今の質量なら、被害は元の比ではない。一発限り。やり直しはない。


 つまり、相手が「詰み」の姿勢を取るまで、こちらは待つしかない。待つ間に誰かが死ぬかもしれないのに、撃てない。それが健治の戦い方だった。


「アリシア王女。頭部座標、追えますか」


「やります!」


「動きが止まる瞬間を教えて。ほんの一拍でいい」


「無茶を言いますね!」


「今さらでしょ!」


 アリシアが両目を見開く。


 銀色の光が強く揺れた。ベヒモスが再度ブレスのために頭を上げる。その顎下へ、カイルの炎弾が入る。わずかに角度がずれる。レオンがその瞬間、前へ飛び出して顔の横を斬りつけた。


 ベヒモスが怒りで首を振る。


「今は無理!」


「ああ!」健治は即座に見送る。


 外せない。ここで焦れば終わる。そのとき、門前で一人の騎士が弾き飛ばされた。盾ごと転がり、動かない。


「負傷者!」


「セレナ!」


「はい!」


 治癒班が前へ出ようとした瞬間、ベヒモスの脚が振り上がる。そこへガレスが飛び込み、身体ごと押し退けた。鈍い衝撃音。ガレスが吹き飛ぶ。


「団長!」


「死んでない! 押し返せ!」


 咆哮に近い怒鳴り声で、ガレスはまだ立ち上がる。根性には感心するが、あれを前提にしてはいけない。健治は歯を食いしばった。足りないのは火力じゃない。決定打を当てる「間」だ。


「王女様! 目じゃなくて、頭蓋の中心! 首を振り切った次の戻りを見て!」


「待って、待って……来る!」


 アリシアの声が研ぎ澄まされる。


「今!」アリシアが叫ぶ。


 健治の指が動きかけて、止まった。


「駄目だ」


「どうして!」


「煙で地面が見えない。熱で像が揺れてる。今落とすと、門前を巻き込む」


 青白い画面の向こうで、着地点の輪郭がわずかにぶれていた。


 見えない場所へ大きく落とすには、像が甘すぎる。


「一回見送る! 次の首振りで、煙が切れたらやる!」


 ガレスが吠え、カイルの炎がもう一度ベヒモスの顔を煽る。レオンが無茶気味に前へ出て、注意を引きつけた。


 今度こそ、だ。健治は呼吸を一つ整えた。

 ベヒモスが再びブレスを吐こうと顔を上げる。レオンが囮のように正面へ走り、横からカイルの炎が目を焼く。ベヒモスが激昂して大きく首を振った。


「戻る!」


「位置!」


「門前から見てやや右、上方三メートル——今!」


 健治の指が画面を叩く。


『空間跳躍、座標固定』


 空が裂けた。


 青白い光の渦が、巨大な魔獣の頭上に開く。


 渦の底から黒い影がせり出した。光を飲み込むような密度の塊が、落ちるというより、空を押し潰しながら降ってくる。

 次の瞬間、神殿の召喚儀式に使われていた巨大魔石が、無慈悲な質量そのままに落ちた。


 直撃。


 衝突の一瞬、音が消えたように感じた。続いて、地面と空気がまとめて殴られたような爆音。砕けた魔石と頭蓋の破片が四方へ散り、衝撃で近くの兵が膝をつく。


 土煙が舞う。視界が塞がれる。


「どうだ!?」


「見えない!」


「下がるな、警戒!」


 健治が叫び、騎士たちが武器を構え直す。やがて風に押されて土煙が割れる。そこにあったのは、前脚を折り、頭部の半ばを砕かれたベヒモスの巨体だった。まだかすかに痙攣している。しかし立てない。


 次の瞬間、巨体が横倒しになって地面を揺らした。


 静寂。


「勝っ、た?」


「勝った……!」


「ベヒモスが!」


 砦のあちこちから、信じきれないような声が上がる。


 次いで歓声。叫び。泣き笑い。


 今度こそ、本当に押し返したのだと誰もが理解したのだ。


 ガレスが血の混じった息を吐きながら笑う。


「とんでもないもんを落としやがる……」


「在庫の有効活用です」


「在庫で済ませるな!」


 レオンは剣を杖みたいについて肩で息をし、カイルはその場にへたり込んだ。セレナは治癒班へ指示を飛ばしながら、それでもどこか安堵した顔をしている。アリシアは高台の上で、ほんの数秒だけ目を閉じたあと、ゆっくりと健治を見た。


「成功しました」


「あなたの目がなきゃ外してた」


「あなたが入力を誤れば同じことです」


「じゃあ半々ですね」


「ええ、半々です」


 その返しに、二人とも息をついた。


 だが健治の視線は、歓声の輪のほうへは向かなかった。倒れたベヒモスの巨体、その腹部へ向いていた。近づいてみると、ますますひどい。


 巨体のわりに、腹が落ちている。皮膚は厚いが、その下の肉付きが薄い。肋骨の輪郭すら、ところどころ浮いて見えた。暴食の名を持ちながら、その腹は空っぽだった。


「何だよ、それ」思わずこぼれる。


 食って、食って、食って暴れる怪物じゃない。喰わされるだけ喰わされて、それでも足りず、最後は飢えたまま兵器として押し出された化け物だ。ゴルダが、少し離れた場所でそれを見ていた。拘束を解かれてはいないが、砦側が見せしめ半分で戦闘の様子を見せていたのだろう。


「だから言ったろ」苦い顔で、ゴルダが呟く。


「余裕なんかない」


 健治は何も返せなかった。


 勝った。確かに勝った。砦は守ったし、兵も生きた。その事実は動かない。でも、勝てば全部が正しくなるわけじゃない。


 目の前の巨体は、そのことを嫌というほど突きつけていた。


◆ ◆ ◆


 ベヒモス討伐後の処理が一段落したころ、アリシアが中庭の端へ健治を呼んだ。周囲では負傷者の手当てが続き、騎士たちは興奮と疲労の入り混じった顔で武具を片づけている。勝利の余韻はある。けれどその底に、別の重さが沈み始めていた。


 壁の補修を手伝っていたレオンが、ふと手を止めた。ベヒモスの死骸を見つめ、自分の剣を見て、また死骸を見る。何かを飲み込もうとしている顔だった。


 セレナは治癒班の列を仕切りながら、迷いのない手つきで薬を配っていた。一ヶ月前にはできなかった動きだ。ただ、配り終えたあと、自分の手のひらを見つめて少しだけ止まった。


 慣れることと、慣れていいことは違う。顔がそう言っていた。


「向こうも、もう後がないのでしょう」アリシアが静かに言う。


「ええ」


「ベヒモスを出したという事実自体が、その証明です」


「しかも飢えたまま」


「……」アリシアは唇を結ぶ。


「ここで押し返し続ければ、いずれこちらが勝つかもしれません」


「かもね」


「ですが、それで終わるとは思えない」


「思えないですね」健治は腕を組む。


「飢えた側は、止まらない。砦を守っても、別の場所を狙う。別の村を襲う。別の補給線を焼く」


「ええ」


「だから、戦場だけ片づけても足りない」


 アリシアはうなずいた。そのうなずきに迷いは少なかった。魔族領を見てきた今、彼女の中でも結論は似た場所まで来ているのだろう。


「話をしなければ」


「ですね」


「ですが、こちらにも反発は出ます」


「向こうにも」


「ええ」


 しばらく沈黙が落ちる。遠くで、誰かが勝利の声を上げる。別の誰かが、それでもまだ油断するなと怒鳴り返す。


 健治はその音を聞きながら、ぽつりと言った。


「面倒だなあ」


「今さらですか」


「今さらですよ。俺、本来もっと小規模な物流やる予定だったんで」


「辺境の小さな拠点で、必要な分だけ働く。ですか?」


「そう、それ」


「でしたら、ずいぶん遠くまで来てしまいましたね」


「ほんとにね」


 アリシアが、小さく笑った。


「責任、感じてます」


「あなたが?」


「私も、です」アリシアは目を細める。


「あなたを巻き込んだのは、王国です」


「それ言い出したら、最初から巻き込まれてるんで」


「そうでした」


「でもまあ」


 健治はベヒモスの動かなくなった体へ視線を向けた。


「ここまで見たら、中途半端なのも気持ち悪い」


 アリシアは、その言葉を聞いて表情を和らげた。


「では」


「ええ」


「次は、魔王です」


「話が早いな」


「遅すぎるくらいです」


 その返しに、健治はようやく少し笑った。


 勝って終わりではない。ここからが本番だ。避けた先にあるのが、また石をしゃぶって眠る子どもたちなら。やるしかない。


 ベヒモスの腹は空っぽだった。

 なら、戦争もきっと、どこかが空っぽのまま回っている。


 そこへ流れを通す。それが次の仕事だった。


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