第四十一章:試行される共和国
法案の可決から二週間。かつては「市民国家」など空想にすぎないと切り捨てられていた構想が、今や「法の裏打ちを持つ政策」として、現実に根を下ろし始めていた。
ただし、その芽は制度の土壌にしっかりと植えられたわけではない。むしろ逆だった。制度が想定してこなかった領域、制度がこれまで排除してきた言葉の余白、すなわち“国家の盲点”のような空間にこそ、新たな共和国の輪郭が浮かび上がりつつあった。
新法に基づいて設置された「主権貸与地域モデル区域」は、最初の段階では三つの自治体に限定されていた。北海道の北端にある人口三万人の町。中国地方の沿岸部にある港湾都市。そして、関東圏にある中核市の一部区画。いずれも長年、人口減少や地方疲弊が深刻化し、中央の政策からも取り残されていた地域だった。
これらの「モデル区域」では、まず、地域内の公的意思決定の一部を「市民契約体」に移譲する仕組みが導入された。たとえば、都市計画、教育方針、社会福祉の配分など、従来は自治体議会と役所によって決定されていた領域に、住民自身が契約者として関与する形が実験的に始まったのだ。
契約体は、単なる住民投票の集合ではない。理念に基づく対話と討議の場が事前に設けられ、そこでは「利害の調整」ではなく「原理の再定義」が試みられた。いかに教育とは何かを再定義し、どのように“共に生きる”かという問いに制度的回答を与えるか――それこそが新しいガバナンスの核心だった。
榊原鷹彦はこの時期、再び沈黙に戻っていた。公式の場に姿を見せることはほとんどなく、国政からも一歩距離を置いていた。ただし、彼の影響は各所に及んでいた。モデル区域の設計に関わった若手官僚の多くは、獄中時代に榊原の論文を読み、密かに市民思想読書会に参加していた者たちである。彼らは「制度の中に、制度外の思考を持ち込む」ことを自らの使命としていた。
そうした若手官僚の一人が、ある夜、榊原のもとを訪れた。再建されたかつての拘置所の面会室で、榊原は若者の言葉を静かに聞いていた。
「先生、あのとき“共和国”と言ったのは、制度を壊すという意味ではないとわかっています。でも、本当に制度の中で、それが生きられると思いますか?」
榊原は微笑んだ。
「制度は、言葉の墓場であると同時に、言葉の揺籃にもなる。生まれ変わる制度というのは、そういう言葉の胎動からしか始まらないのです。いまはまだ、胎動です」
その夜、榊原は日記に短く記した。
「制度が呼吸するには、制度の縁に立つ人間が必要だ。“国家”とは、本来そういう存在であったはずだ」
その翌週、全国紙の一面に一つの記事が掲載された。
「市民共和国」モデル、地方議会で可決。
その内容はこうだった――ある小さな自治体が、「主権貸与法」に基づき、市民契約体に対して土地政策の一部を正式に移譲する条例を制定したというのだ。法制的な拘束力はまだ限定的だが、これは中央政府を通さず、市民集団が直接制度に触れた初の事例だった。
このニュースは、国政にも再び波紋を呼び起こす。保守派は即座に反応し、「地方の暴走」「非民主的な共同体主義」といったレッテルを貼った。一方でリベラル派の一部は、むしろこの実験に可能性を見出し、「市民による制度の再起動」と位置づけた。
メディアはどちらの立場にも与せず、「共和国のかたちを問う」と題した大型特集を組み、市民国家構想の核心にある問題――“誰が統治するのか”ではなく、“統治とは何か”をどう定義するか――という根本的な論点をあらためて世論に突きつけた。
そして、ある夜。榊原鷹彦は久しぶりにテレビ番組に出演した。硬い顔つきの報道番組で、短い時間ではあったが、司会者の問いにこう答えた。
「共和国とは制度の完成ではありません。制度の余白を開き続ける営みです。制度が閉じようとするとき、私たちはそこに風穴を開ける。“風通し”こそが、国家を呼吸させるのです」
その放送後、SNS上には「共和国の風穴」という言葉が一斉に拡散された。
人々は気づき始めていた。かつて“思想犯”とされ、獄中の孤独に耐えていた一人の思想家の言葉が、いまや制度そのものの風景を変えようとしていることに。
モデル区域における市民契約体の運営が始まってから三ヶ月が経過した。
その運営は決して順調ではなかった。理想に燃えた初期の熱気は徐々に落ち着き、具体的な行政決定の困難さが浮き彫りになってきた。
たとえば、ある区域では都市開発と自然保護の方針を巡って、契約体内部で激しい対立が起きていた。従来の議会制であれば、多数決で一方が押し切るか、官僚が「調整」と称して無難な折衷案を用意しただろう。しかし、市民契約体は“合意なき決定”を拒否する原則を掲げていた。それは理念的には美しいが、現実的には非効率と紙一重だった。
「対話が、終わらない。」
ある参加者が、疲れた表情で記者に漏らした言葉が、ネット上で象徴的に広まった。
「民主主義の後にくるものが、これなのか?」という問いが、応援していたはずの層の一部からも発せられ始めていた。
そんななか、制度の内側から異議が上がった。中央政府の内部資料として漏洩した文書には、以下のような文言が記されていた。
「市民契約体は制度的持続性に乏しく、行政サービスの実施に深刻な遅延をきたす恐れがある。必要とあらば、国政指導権に基づく暫定管理も検討されるべきである。」
これが報じられるや否や、「制度の反動」が始まったのではないかという懸念が広がった。再び“市民”が“国家”の補助単位に貶められるのではないか。そんな危機感が、各地の市民討議体を活性化させる結果にもなった。
だが、その緊張のピークは、ある事態によって決定的に破裂することとなる。
― ひとつの失敗
中国地方の港湾都市で、市民契約体が新しい労働協約モデルを採用した。従来の企業依存型の雇用から脱却し、市民主導の「協働ユニット」によって雇用を自律的に創出・再配分しようという試みだった。しかし、運用設計が甘く、補助金の分配ミスや制度外部との契約交渉の混乱が相次ぎ、一部の労働者が報酬を受け取れないまま失職状態に追い込まれた。
マスコミはこれを「市民国家の失敗」として報道し、SNSでは《理念の実験で生活が壊された》という批判が吹き荒れた。
翌日、首相官邸で緊急記者会見が開かれた。政府広報官はこう述べた。
「市民参加は歓迎されるべきであるが、生活保障は国家の責任である。モデル区域の自治実験における行き過ぎた制度実験には、一定の歯止めが必要だ。」
事実上の“監査介入宣言”だった。
制度の余白に生まれた共和国は、制度の重みで押し潰されようとしていた。
― 榊原の反応
全国がその是非を問うなか、榊原鷹彦が再び姿を現したのは、市民共和国フォーラムと呼ばれる市民有志主催の会場だった。テレビ中継は入らず、記者席も制限された。だが、その内容は翌日には全文がネットで拡散されることとなる。
壇上での榊原の言葉は、静かで、しかし明確だった。
「これは“市民国家の失敗”ではありません。国家が、市民の失敗を許容できる器をまだ持たなかったというだけです。制度がすべてを完璧に処理し、効率的に回すことを求める限り、我々は永遠に“委ねられる市民”のままでしょう。
市民国家とは、失敗を共有する国家です。過ちが制度化されることを許すのではなく、制度の中で修復可能な関係性を築くことです。いま、われわれはその第一歩を踏み出したにすぎません。」
その言葉に、拍手はまばらだった。
しかし、会場の外では、ある小さな集団が黙って、長く、立ち尽くしていた。それは、例の港湾都市の労働者たちだった。
一人の若者が記者に言った。
「生活は壊れた。でも、壊れた制度の中で壊されるのと、自分たちで選んだ言葉のもとで壊れたのとでは、意味が違うんです。俺はまだ、“あっち”の方がましだと思ってる」
― “共和国”という名の誓約
やがて、市民共和国のモデル区域では、ある新しい語が流通し始めた。
プロト・リパブリック(共和国試案)
それは、完成された制度ではなく、繰り返し失敗しながら調整され、再定義されていく「試行」としての国家像を指す言葉だった。従来の“自治”“分権”とも異なる、新しい主権像。
その語はやがて、政策文書にも、議会審議にも登場し始める。
そして、ついにある議員が国会でこう発言する。
「私たちは“共和国を試す”のではなく、“共和国として試されている”のだと、肝に銘じなければならないのです。」
それは、国家が制度ではなく関係であるという、思想的な反転の兆しだった。




