第四十二章:制度の臨界から言葉の殻を破るまで
その年の晩秋、霞ヶ関上層部で一枚の極秘レポートが回覧された。タイトルは、
「自治型区域の法的無効性と国家統治責任の所在について」。
文書の主筆は、内閣法制局の第二部長で、かつて憲法改正論争の際に「空白地帯における主権の優越性」を提唱した人物だった。文書は静かな口調で、だが露骨にこう述べていた。
「国家とは、主権に基づく強制力を保留することで成立する。
したがって、国家の法体系を一時的にでも留保する区域が制度的に成立するのであれば、それはもはや国家の内部における“自治”ではなく、
法の外部における“準離反”と呼ばれるべきである。」
このレポートはただちに与党政調会の憲法部会に転載され、次の通常国会で「準離反的自治体制の見直しを求める決議案」が審議にかけられることになった。
それは明確な制度的逆流だった。
同時に、複数の地方自治体が独自の判断で“モデル区域からの脱退”を宣言。理由は「行政の中立性を保つため」「市民契約体への業務負担が過大であるため」などだったが、背後には明らかに霞ヶ関からの圧力が存在していた。
メディアは再び、「市民国家の終わりか?」という見出しを躍らせた。
変化は目に見える形で現れた。
自治型区域内で以前まで頻繁に掲示されていた「市民国家構想」のポスターが、自治体職員の手によって一枚ずつ剥がされていった。学校の授業から“市民契約”の概念が姿を消し、公民の教科書には「制度上の不安定さにより見直しが検討されている試行事例」と書き換えられた。
まるで、構想そのものが「存在しなかった」かのように、言葉が制度から消されていった。
かつて未来政策読書会の世話人だった地方教員・田嶋仁美は、こうSNSに書いた。
「制度の中で発した言葉が制度によって消される。
私たちは、制度の奥底にある“沈黙の指令文”を見落としていたのかもしれない。」
同様に、内部から離脱する者たちもいた。
市民契約体の初期設計を手掛けた若手官僚の一人が、退職会見でこう語った。
「私は、自分の書いた制度に失望しています。
正確には、制度が人間を拒絶する瞬間を目の当たりにしてしまったからです。」
だがその一方で、沈黙の中に灯りをともす動きも、確実にあった。
その冬、北海道の北端に位置する旧炭鉱町・幌浜で、一風変わった市民協議体が立ち上がった。
名称は 「再規定フォーラム」。
当初は、制度疲弊と過疎化が進む町の住民たちによる、自発的な対話の場にすぎなかった。だがやがて、そこに“構想の残響”を求めて全国各地から若者が集まり始めた。
集まってきたのは、元市民契約体の学生職員、脱退した自治体の元広報担当、さらにかつて公安にマークされていた元思想犯グループのメンバーなどだった。
幌浜フォーラムの議事録には、こんな文言がある。
「制度は臨界に達した。
だが、制度が臨界を迎えるということは、その内側ではもはや変化が起こり得ないということだ。
ならば、我々は構想を制度から解放し、関係から再構成しよう。」
この「制度の外部からの構想再構成」という考え方は、すぐに反響を呼んだ。
それはかつて榊原鷹彦が主張した「制度の裂け目に構想を投げ込む」という思想の、ある意味での延長線上に位置していたが、より水平的で、より分散的だった。
つまり、“一人の思想家の言葉に依拠しない再構想”だった。
この動きに対し、榊原自身は明確な発言を避けていた。だが、ある関係者によれば、彼はその議事録を読みながら静かに微笑み、「ついに、言葉が制度を離れた」と呟いたという。
春が来るころには、全国の幾つかの地方都市で、幌浜と連携した「構想的対話空間」が生まれ始めた。そこでは行政とは異なる枠組みで生活協約が結ばれ、小規模な信用制度や文化教育の再配分が試みられた。
それは制度というより、関係の束だった。
そしてこの運動は、新たな呼称を得る。
《ミクロ・リパブリック》
もはや市民国家と名乗ることもなく、共和国を理想とはせず、「試行すること」それ自体を共同体と見なす、新しい実践。
それは国家ではなかったが、国家を問い続ける力そのものだった。
かつての読書会メンバーの一人、橘綾子はこう記す。
「制度が限界を迎えるとき、私たちは“構想”を諦めるのではなく、それを制度から引き離して、他者と共有可能な《問い》へと変換していく。
その営み自体が、もはや国家なのだと、私は思う。」
それは春の終わり、東京・虎ノ門にある公安庁第二分析局の会議室で、ほとんど予告なく始まった。
壁一面のスクリーンに、次々と映し出される幌浜市・市民対話フォーラムの議事録、ローカルネットワーク上で交わされた分散型信用制度の設計案、地方自治体から独立して運営されている教育コモンズの一覧。
会議のタイトルは簡潔だった。
「非国家的活動体の急速増殖に対する早期警戒」
その日、公安庁内部の「潜在的体制攪乱要素モニタリング小委員会」がひそかに再設置された。かつて榊原鷹彦が「思想犯」として分類されるきっかけとなった組織だ。
だが今回は、個人ではなく、構想そのものが対象とされた。
すなわち、「制度の外部において構想を共同体化する行為」は、“新しいタイプの破壊活動”と見なされたのである。
この文言は、同年の安全保障基本指針(国家安全保障戦略の年次更新版)にも明記された。
「国家の制度的整合性を根本から揺るがす恐れのある“外部的構想体”については、
その規模や目的にかかわらず、厳重な観察・記録・介入を行う体制を整える。」
これ以降、「ミクロ・リパブリック」と呼ばれた各地の小さな自治実験が、突如として監視対象に置かれていく。
一つ一つは取るに足らない対話空間にすぎなかった。
だがそれらが理念によって緩やかに結びつき、制度を回避しながら継続していることが、「制度の権威」にとっては脅威だった。
六月、宮崎県の過疎山間部に位置する旧集落「坂神谷」で、ミクロ・リパブリック的実践を行っていたグループが「無届け教育活動・通貨的模倣行為」の疑いで摘発された。
摘発は、未明の一斉検挙という形で行われた。電力の自給自足、相互扶助的な信用スコア、独自のカリキュラムによる学校教育――
それらは形式的には違法ではなかった。だが、**「国家制度を継続的に模倣・逸脱する目的があった」**とする曖昧な理由で、住民十数名が拘束された。
報道は当初、事件を「テクノ農村共同体の極端な内閉化」として扱った。だが徐々に、「これは思想摘発の再来ではないか」との声が上がり始める。
ある週刊誌は見出しに、こう記した。
「模倣と構想の違いは、誰が決めるのか?」
―制度が言語を定義するとき、思想は弾圧される。
さらに衝撃的だったのは、摘発後に漏洩された公安の内部文書だった。
その中で、坂神谷の思想的背景に「榊原系統の構想的文脈」があるとされ、
榊原鷹彦の著作が“思想的再生産のコア”として監視対象に含まれていることが明かされた。
榊原の弁護団は、ただちに声明を発表する。
「本件摘発の本質は、“制度外部における再構想”という思想それ自体に対する弾圧であり、
国家権力がいま一度、“思想犯”という概念を呼び戻そうとしていることに警鐘を鳴らすものである。」
声明は国内外の知識人の間で共有され、複数の国際人権団体が調査団の派遣を表明した。
一方、国会では新たな法案が提出されていた。
「思想的模倣体対策法案」
その内容は、かつての治安維持法とは異なり、直接的な言論の制限ではなかった。
代わりに、「国家制度に準拠しない運営形態」に対して行政指導・資金停止・税制優遇措置の打ち切りなどを通じて、構想的活動を“経済的に干す”ものだった。
この法案が持つ意味について、ある国会議員はこう語った。
「現代の弾圧は、殴るのではなく、資源を断つ。
言論を禁止するのではなく、発せられる前に“無効化”するのだ。」
榊原は、この動きに対し沈黙を守り続けた。
彼の名を冠した構想が、国家によって二度目の摘発対象とされつつある今、
彼自身の言葉は――あまりに重く、もはや制度の内側では語れないものになっていた。
だが、彼の周囲には徐々に、かつての仲間たちが再び集まりつつあった。
橘綾子は「制度言語から逃れるための、新しい語彙表現」を草案化し、
海藤仁は、坂神谷事件を国際メディアに発信するための秘密回線を整備していた。
さらに、公安庁内の一部職員からは、密かにミクロ・リパブリック側へと情報が流れ始めていた。
制度は再び構想を追い詰めた。
だが、構想は今や、制度の内外を往還する**「運動」としての言葉」**へと変質していた。
それは捕まえることも、押し込めることもできない。
もはや、それ自体が制度への応答であり、批判であり、存在証明であった。




