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第四十章:裂け目に芽吹く

国会演説の翌日、新聞各紙の一面は、例外なく榊原の姿を大きく扱っていた。けれども、そこにあるのは政治家然とした言説でも、権力闘争の図式でもなかった。「主権貸与」「市民国家構想」「構想なき体制批判」――これまで使われなかった単語群が、社説にも特集にも解説にも、まるで不可避の語彙であるかのように繰り返されていた。


国会で発せられた言葉は、形式上はただの演説であり、法案提出に付随する議事手続きに過ぎなかった。しかし、内容は制度の外に向けて突き刺さっていた。「主権は国家の外側に根拠を求められるのか」という問いは、法技術の次元では捉えきれない。政治記者たちは困惑しながらも、「これは憲政史上最大の挑発である」と記した。


街頭では、榊原の演説の一部を引用した紙片が学生たちによって貼られ、SNS上では「#市民国家構想」というタグが一晩で数百万回使用された。「主権の貸与」という概念に、はっきりとした理論的輪郭を与えられたわけではなかった。だが、その輪郭の不確かさこそが、無数の市民の関与を促していた。


この時期、榊原本人は再び沈黙を守っていた。メディアの取材は全て拒絶。政界との接触も最小限に抑え、法案審議に関する答弁以外は、徹底して表舞台に出てこなかった。代わりに動いていたのは、周囲の市民たちだった。


元読書会メンバーたちは全国で「市民国家構想説明会」と称する自主的な集会を開き、草稿にあたる榊原の論考を分かりやすく語った。かつて公安に摘発された地方の若手活動家たちも、あらためてネット上で顔を出し、語り始めた。「市民による主権の自覚」とは何か。それは、かつての憲法読書会の場で交わされた問いかけの延長線上にあった。


官僚機構は静かに反応していた。内閣法制局や総務省の中に、「主権の定義」「市民の資格」「制度設計上の瑕疵」などを検討する非公式のプロジェクトチームが設けられていた。表向きは沈黙を装っていても、制度側も確かに揺れていたのだ。


そして、ある時期を境に、「市民国家構想」という言葉自体が、自立的な語彙として都市空間に現れるようになった。あるカフェチェーンでは店内掲示板に市民国家に関する投稿が常時共有されるようになり、大学のゼミでは市民法理学という新たな講義が立ち上がった。フリーペーパーには「市民国家構想入門」と銘打たれた特集が並び、出版社は関連書籍を続々と刊行。新聞の投書欄では「自分の生活と国家を、いま初めてつなげて考えるようになった」という言葉が相次いで投稿された。


榊原の政治的評価は真っ二つに割れていた。「扇動的な理想主義者」とする保守系識者の批判は根強く残っていたが、彼の演説後に芽生えた“市民の政治語彙”が、議会内にもゆっくりと侵入していった。与野党を問わず、若手議員の中に「制度の中から変えようとする者」と「制度の外側に言葉を置こうとする者」との分岐が生まれはじめていた。


そして、法案審議が進むなかで、ある議員がこう述べた。


「私たちは、国家の制度の中で立法をしているが、榊原氏は、制度の裂け目から国家を投げ直そうとしているのだ」


それは肯定か否定かも曖昧な発言だったが、どこかで誰かがそう述べることを、国会という制度もまた、予期していたかのようだった。



やがて、議会内においても、かつてはタブーとされてきた言葉が日常語として定着し始めていた。「主権貸与」「市民国家」「非国家的立法根拠」――それらは本来、制度の外にあるはずの言葉であった。だが、今やそれを語らずして新しい予算案や法制改革を議論することができなくなっていた。


特に影響が大きかったのは地方自治体であった。市民国家構想の理論的中核である「地域主権の相互契約制」は、各地の知事や市長、議会人たちにとって現実的な構想材料となっていた。北海道のある市では、市民有志による「ミニ市民国家憲章」が作成され、地方議会で参考資料として配布された。他の地域でも「地域型ガバナンスの再設計」を求める市民提言が相次ぎ、自治体の行政文書の中に「主権貸与型契約」という文言が初めて登場した。


中央政界では、かつての「思想犯」榊原を支持する議員連盟が静かに形成されていった。それは旧来のイデオロギー軸とは異なる、新たな分派として動き始めていた。与野党を横断して結成された「市民国家政策研究会」は、官僚出身の若手議員を中心に、制度的裏付けを整えようと模索し始める。彼らの内部資料にはこう記されていた。


「これは革命ではない。制度の内側から、制度の外側へ橋を架けるための準備である」


一方で、強固な制度保守派からの圧力も苛烈さを増していた。「市民国家構想」は、現行憲法の基本構造に反するとして、憲法学者の一部が声明を出した。特に問題視されたのは、主権の根拠が“国民”ではなく“市民”にずらされている点だった。与党内の重鎮議員は「市民という概念は国家の基礎単位ではない」と国会答弁で断じたが、それでも議場の空気は、かつてのように一方的ではなかった。


榊原はこの頃、再び国会で答弁に立った。かつてのような挑発的な語調ではなく、むしろ淡々と、論理的に制度とその限界を語った。そして最後に、こう言い添えた。


「制度が言葉の射程を拒むとき、私たちは制度の外から語らざるを得ない。だがその言葉は、制度を壊すためではなく、制度を生まれ変わらせるためにあるのです」


これが、採決前最後の登壇となった。


法案提出から約半年。ついに「主権貸与政策基本法案」が衆議院本会議に上程された。国家の主権を、選定された市民機構や市民契約団体に段階的に“貸与”し、地方と国家の間に新たな契約的自治関係を構築することを目的とした法案。賛否を分けたのはその実効性ではなく、理念そのものであった。


審議は深夜まで及び、野党第一党の一部は棄権を選び、与党内の造反者もわずかに出た。それでも、法案は、可決された。


この日、国会議事堂の周辺には、全国から集まった市民たちが集まり、静かに拍手を送っていた。熱狂でもなく、怒号でもなく、ひとつの「言葉が制度に届いた日」として、歴史に刻まれた。


榊原はその夜、国会裏手の記者会見に立ち、短く、こう述べた。


「制度の裂け目に、私たちは小さな共和国を投げ込んだ。その芽が、どう育つかは、これからです」

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