迷宮五十階層
ジャンヌは迷宮都市キルデアを拠点に活動している探求者だ。職業は剣士。
探索者のランクで言えばかなりの上位に位置していて、ソロで迷宮に潜るその実力は一目置かれている。
そんな彼女、本日は迷宮で、一つの挑戦をしてみようと考えていた。
「ふっふっふ……運気上昇の効果が付与されている今、最下層に挑戦してみるのも一興だろう」
今まで、五十階層に挑戦したことは一度もなかった。
五十階層はそれまでの迷宮とは異なる次元。さすがに一人で潜るのは危険だと判断していたためだ。
だが、今は違う。
今のジャンヌは体力増強、魔力上昇の魔法が付与された食料を持ち、その身に運気上昇の魔法を帯びている。
これならば、わずかばかりの実力の差など埋められるに違いない。
装備を整えたジャンヌは、長い黒髪を翻し、迷宮の最下層へと足を踏み入れる。
途端、肌に突き刺すピリリとした殺気。
間違いなくこの場には、強敵が潜んでいるーーそれも数えきれないほど。
まるでピンと張り巡らされた綱の上を渡るかのような緊張感に、数々の修羅場を一人でくぐり抜けてきたジャンヌも冷や汗が頬を伝うのを感じた。
この階段付近の安全地帯から一歩出てしまえば、そこは修羅の場所。数多の殺気がジャンヌの到来を察知し、獲物がわざわざ殺されにきたと歓喜に震えるだろう。
そう。
ジャンヌは愚かではない。故に、安全地帯から出る前に、気がついていた。
自分の実力では、まだ五十階層に挑戦するには早いということを。
「…………」
ごくりと唾を飲み込む。
今ならまだ引き返せる。
誰にも見られていないし、臆病者という誹りを受けることもない。
いや、そんな体裁を気にしている場合ではない。引き返さなければ死ぬ、そういう状況なのだ今は。
(こんなところで命を賭ける必要はない。引き返そう)
結論を出したところで階段に足をかけた刹那、凄まじい咆哮と爆音とが耳に届き、さほどの間を置かずに熱風がジャンヌの肌をチリチリと焦がした。
安全地帯にいるというのにこの熱の密度。
「っ!」
思わず振り返ると、多数の人間の足音がし、こちらに騎士の一団が向かってきているのが見えた。
騎士の面々が迷宮に潜ることは普通だが、あそこまで慌てふためいているところを見るのは珍しい。探求者と違い統率の取れた集団で安定した戦いを繰り広げることの多い彼らは、どんな強敵相手にも怯まないというのに。
しかしそんなジャンヌの疑念は、角を曲がって姿を表した魔物たちの姿を見た途端に消し飛んだ。
「火竜の群れ……!」
火竜は竜種のなかでもとりわけ強力だ。口から吐き出される高密度の炎のブレスは狭い迷宮内にあっという間に広がり、逃げ場を塞いで全てを燃やし尽くす。
熟練の探求者でも、騎士団の精鋭部隊でも、気を引き締めて戦いに挑まなければならない相手である。
それが、目視できるだけで五頭。
背後にはそれ以上の数が控えている可能性もある。
火竜から逃れようと安全地帯目がけて突進してくる騎士たちのために場所を開けてやる。
先頭の火竜が口を開いた。口内に渦巻く赤いエネルギーの塊を確認したジャンヌは、自然、体が動いていた。
逃げるためにではない。
騎士たちを助けるためにだ。
安全地帯を飛び出したジャンヌは、剣を抜き放ち、魔力の全てを込める。
ソロ活動しているジャンヌは、世にも珍しい剣と魔力の両方を操る魔法剣士だ。
冷気を込めた魔法を剣に宿し、前線、いや騎士たちの殿へと躍り出る。
「ーーはぁっ!!」
気合を込めた一声と共に、魔力を全展開し、火竜の群れに向かって剣を振り下ろした。
迷宮中を瞬時に凍らせるほどの冷気を込めた一撃が、火竜のブレスを切り裂き、竜の本体へと届く。
一瞬の隙が生じ、そこに退路を見出した。
ジャンヌはばさりと外套を翻し、殿を努めていた騎士の男と並走し、一目散に安全地帯に向かって駆けてゆく。
転移魔法陣に乗り、地上へ。
迷宮一階層、惰弱な魔物しか現れないエリアへとどうにかたどり着いたところで、ようやく緊張の糸が切れるのを感じる。
「ふぅ……どうやら、無事に生きて帰れたようだ」
「ありがとう。礼を言う」
「ん? いやいや。あんなピンチの騎士様たちを見捨てたら、後味が悪いからね」
そう言って共に生還を果たした騎士の顔を見て、本日二度目の息が止まりそうになる。
金色の短髪、青い瞳。
この色合いは間違いなく、ランバルド家のもの。
そして年齢からして、ランバルド家の次男ヴィクター様だろう。
「……こりゃ驚いた。噂に名高いランバルド公爵家のヴィクター様じゃないか」
「迷宮管理に勤しむ一介の騎士だよ」
苦笑いを浮かべるその顔は、思ったよりも親しみがあった。ジャンヌより年下であるせいかもしれない。
「君が助力してくれなければ、安全地帯目前にして全滅もあり得た。いいところにいてくれたよ。迷宮五十階層は今、火竜の巣窟でね」
「火竜の? この前土竜が沸いて出たばかりだっていうのに?」
敬語が苦手なジャンヌは不躾な口調のままだが、ヴィクターは嫌そうな素振りは見せない。遠目にしか見たことのない存在だったが、意外に気のいい人物なのかもしれないとジャンヌは思った。
「確かに五十階層というと強力な魔物が跋扈しているけど、こんな短い期間に連続で竜が大量発生するもんなのかい?」
「まあ、ちょっと間隔は短いが、そういうこともあるだろう。原因は調査しないとわからないが……いずれにせよ、はっきりするまで最下層は一定ラインの実力の持ち主以外は立ち入り禁止にする予定だ」
「それがいいね」
あの邂逅はジャンヌにとっても幸いだった。もしも奥深くまで立ち入ってから火竜の群れに出会っていたら、即死だっただろう。
先ほどの一撃は火竜のブレスを切り裂いたが、ありったけの魔力を注ぎ込んだのでもはや初級魔法一つ打てない。実を言えば立っているだけで精一杯だ。
「あのケーキの効果が早速出たというわけか……」
「ケーキ?」
「最近キルデアで、魔法が付与された菓子が出回っているだろう? 運気アップの魔法が付与されたケーキを食べてから迷宮に潜ったんだ。おかげで騎士様たちに会って、火竜の群れに一人で突っ込んでいかなくて済んだ」
ここまで言ってから、ジャンヌは「しまった」と口を押さえた。
件の店の主人はランバルド家の長男で、色々と残念な感じの噂ばかりの人物で、つまりは今ここにいるヴィクターの兄。
片や迷宮都市のはしっこでひっそりとカフェを経営し、片や騎士団の精鋭を率いて迷宮に潜る人物。
都市中の住民が皆、兄弟の出来の違いを話している。おそらく兄弟仲も悪いだろう。話題に出したら気を悪くするかもしれない……とジャンヌが密かに冷や汗を垂らしていると、ヴィクターが何でもない顔で会話に応じてくる。
「あぁ……何でも『千のスプーン』に大量に菓子を納品しているらしいな。迷宮探索の効率と生存率が上がると評判になっている。……そうか。それがあればあるいは……」
ヴィクターは顎に指を当て、少し考え込んだ後、ジャンヌに向かって言った。
「有益な情報、感謝する」
「お役に立てたようなら、何よりだよ」
ヴィクターの機嫌を損ねなかったことに密かに安堵しつつ、ジャンヌはそう言った。




