形式主義の裏
形式主義。
表面とか外見とか。
客観的指標が重要なのは現代社会の混沌を見えなくする道具でもあるのか。
選挙も同じ。
結果は選挙が始まる前から既に決まっているが事実。
だからこそある意味形式な祭りゴトが重要である。
組織票なんて大多数の無投票に比べたら大したことはない。
ただ、実質的な票は政治的無関心の大多数の無投票によって重みを増す。
よく「為政者(偉い人)は国民に利口になってもらっては困る」という言説があるが、
確かにその通りだろう。
選挙に既成投票者より多い無党派層が全員投票に行かれたら、選挙は祭りゴトではなくなる。
実質的な選挙など実現されては困るのである。
選挙権という歴史上、過去の血と涙の結晶の価値が下がっている現代においては、
ある意味、今の現状は民主主義の放棄への警鐘を鳴らしてくれているのかもしれない。
歴史に学ぶとあれほどまでに言っていたのに、結局学ばない。日本だけではなく、世界もその点大差なかったということを自然は暴露してくれる。
今こそ、教育というものの存在の愛おしさに気づくのかもしれない。
形式の裏を見る力を身につけるようにするには、自分が受けてきた教育というものが形式の押しつけであるという批判的懐疑的思考が必要であるが、そんなものを身につけられるのはバリバリの帰国子女とか徹底的な形式を受け入れて頑張ってきて後々モテないことに絶望した童くらいなものだろう。
学生時代や若者世代は、基本的に形式を嫌う。形式を外れることがかっこいいという風潮がある。そして、形式はダサい。形式が外れることがモテることにつながる。
しかし、悲しいかな。大人になるつれ、これが逆転する。
年を取るほど、形式が好まれるようになるのである。しかし、この形式の逆転現象を受け入れられない者たちは、人間不信または女性(男性)不信に陥る。
面白いことに、形式を重視した者の中にも、若いうちから恩恵に預かる者もいる。
そういう者は、形式社会の利点を上手く操り、形式からはずれているように見せるという「メリハリ」というセンスを家庭等で身につけている勝者なのである。この形式の操縦は、余裕から生まれる。金銭面とか家庭環境とか、社会的仮想レールに乗っている(エスカレーターともいう)者の強みである。
ただ、残念ながらそれでは形式の裏を見る力は養われない。形式の裏を見る力を身につけるには、形式からあえてはずれて、自分を客観視しながら点と点とを線に結び付ける試行錯誤の経験が必須だからである。
しかしこれにはリスクが伴う。
なぜなら日本のような形式肩書社会においては落伍者とのレッテルを即座に貼られるからである。
構成要件に該当する行為もなく、不法行為もなく、債務不履行もなくても表に見える部分だけで判断されてしまう。
もちろん、大多数の見る者にその点と点を見る想像力はないし、そのような形式主義者程、むしろ、表に出ない裏の形式では恐ろしいまでの赤点であったりする。
表で美人やイケメンは裏では不細工である可能性があるという真実を昔の人は直感で気づいていたということもあるらしい(スキャンダルリスクが高い)が、まぎれもなく、現代は恐ろしく形式がエベレスト並みに尊重されている。
そして、年を取るほどに形式を重視する世代が多ければ、選挙に関心ある世代、つまりはシニア世代であればやはり選挙は形式で終わる。
ではどうすればいいのか。
形式(世間体)というものの重要性を認識しながら、あえて形式からハズレルという積極的な社会的分離というものがあるということを日本の教育に浸透した時、実質的な選挙の道を開き、全ての社会問題をより良い方に向かう羅針盤になるのかもしれない。
なんにせよ現代は、選挙においては形式を重視することが必要であることは言うまでもない。
つまるところ、一太郎に勝機はない…そう結婚と同様、選挙は形式なのだ。つまり勝ち(価値)は表面>内面なのである。
それがわかるだけでも出る意味がある。
なぜなら、真実というもの知ることこそが一太郎の生きる目的だからである。
弱い立場ほど、真実が見えてくる。それは人も社会も…見えないものには見えない。
形式だけのものには見えない世界がそこにある。
と、一太郎は、受付の順番を待つ間、区役所の会議室に掲示されている選挙広報モデル「八密」のポスターを360度色々な角度から見ながら妄想力とあれを膨らませた。
ポスター「あなたと私の未来のために、密で一票!」
<次号>
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