七.疑惑の官僚
それは、ふとした偶然だった。
「…最近あいつ、調子に乗ってねぇか?」
「なぁんか、やたら羽振りが良いよなぁ。闘蟋で負けまくって、首が回らないとか言ってたくせに」
花街にほど近い、とある酒店でのことである。元祐は今日も、上官行きつけのその店に連れ込まれ、仕方なく盃を傾けていた。
すると、少し離れた卓で同じように管を巻いている面々が、酒に焼けた声で噂話を始めた。元祐は密かに、彼らの会話に耳をそばだてる。
(確かあれは、工部郎中の羅氏か。一緒に飲んでいるのは同僚だろう。……ということは、『あいつ』も工部の人間?)
表向きは同卓の上官たちの与太話に相槌を打ちつつ、元祐は推測を巡らせた。賑やかな店内で、まさか自分たちの話を聞いている者がいるとは思っていないのか、羅氏は鼻息も荒く続ける。
「そうなんだよ! あいつ、『紅梅楼』の華蓮を敵娼にしてるらしいぜ!」
「げぇ!? 『紅梅楼』なんて、揚代だけで俺らの給料一月分飛んじまう大店じゃねぇか」
「そこの看板女郎を指名なんざ、羽振りが良いどころじゃねぇよな……。羨ましい……」
(うん、怪しいね。――調べてみるか)
彼らの会話を記憶に書き留めつつ、元祐は内心苦笑した。汚職を働く者が皆、その何某のように分かりやすい行動に走ってくれれば楽なのにと。
元祐が率いる皇帝直下の秘密組織はまだまだ小さく、人員に余裕もない。怪しい人間については能動的に情報を集めよと指示されているものの、智晶が自身で疑いを持った人間を探るのに精一杯なのが現状だ。
この何某も、ただの小悪党かも知れない。けれど、大恩ある智晶の治世を汚す者は、元祐にはやはり許し難い。
元祐は頭の中で算段を弾き始めた。
(まずはこの『何某』の特定……。それから、高級妓楼に通い詰められる財源の調査と、その財源に群がる虫が他にいないかの確認。私一人でいけるかな?)
「……おい、姜郎中! 聞いてるのかぁ!?」
「はい、聞いておりますよ」
すっかり酔って絡んでくる上官たちに笑顔を返し、元祐はそっと片目を眇めた。
「……お前、なんか白粉臭い」
大亮国八代皇帝・智晶が双眸に澱んだ光を浮かべ、鼻をひくつかせた。元祐はしばし瞬きを繰り返し、慌てて自分の袖に鼻先を寄せた。
件の工部官僚の汚職調査に取り掛かり、十日ほどが経過していた。本日は拝謁殿ではなく私室の方に呼び出された元祐は、席に着くなり顔を顰めた皇帝に、思わず息を詰めた。
(ちゃんと湯も浴びてるし、そもそも着替えてるのに、何故……!?)
恐るべき嗅覚だ。ちなみに元祐は昨晩、上官たちに巻き込まれた形を装って、高級妓楼・紅梅楼に足を運んだ。調査対象の官僚――工部の馬郎中が、女郎遊びに夢中になってしまったため、仕方なくのことだった。
部屋を出ようとしていた皇帝付き首席宦官・丁 忠延が、ハッと息を飲んでこちらを振り返る。彼が何を誤解しているのか、そして智晶と元祐に向けた瞳が何を見出そうとしているのか、想像するだに恐ろしい。
慌てて首を振り、元祐はわたわたと智晶に向かって言い募った。
「怪しい動きを見せる官僚がおります。その調査のため、仕方なく……」
「ふぅん」
(な、何なんですか陛下、『ふぅん』って――!)
忠延がキラキラとした目でこちらを見ている。必死の身振りで彼を追い出し、元祐は智晶に向き直って咳払いをした。
「……確証を得てから、報告するつもりでした。工部郎中・馬氏。このところ、身の丈を超えた贅沢を繰り返しており、高級妓楼の看板女郎を敵娼に指名しています。その資金の出処は不明、調査中です」
「工部ねぇ……」
智晶がつまらなそうな表情を浮かべたのには、理由がある。そんなことより、彼の宿敵である譚宰相に繋がりそうな、林簽書枢密院事の不正疑惑を優先しろと言いたいのだろう。
譚氏は、戸部尚書から三司使を経て、宰相の位に辿り着いた男だ。また、縁戚には林氏のように枢密院や兵部に所属する者が多く、つまり工部は譚氏の勢力の範囲外と言える。馬氏の線をつついたとて、譚宰相に繋がる可能性は低いだろう。
元祐も同感ではあったが、捨て置くことも出来ない。いずれ智晶が力をつけ譚氏を退けた後に、別の一派に台頭されても困るのだ。
「不穏の芽は、早めに摘んでおくに限ります。ただ、本筋ではないので、人手を割くことは出来ないでしょう。この件は引き続き、私の方で対応します」
「……そんな案件なら尚更、組織の長が取り組むべきとも思えないが? 便利な部下がいるだろう」
ブスっとした面持ちで、智晶が吐き捨てるように言う。元祐は苦笑し、無言を貫いた。
勇伸にはなるべく、譚氏を刺すための証拠集めに関わらせてやりたかった。彼は真面目で有能で、出世欲もある。それを阻むのは、生まれ育ちだけなのだ。手柄をあげればそれだけ、将来の栄達に近づくはずだ。
そんな元祐の胸の内を、智晶も察しているのだろう。彼は大きく舌打ちをして、元祐の胸倉を乱暴に掴み上げた。
智晶の愛用の茶杯が床に落ち、音を立てて割れる。
「――部下を可愛がるのは結構だがな。お前は、誰のために動いている?」
「もちろん、陛下の御為です」
「……分かっているなら!」
真っ直ぐに言い切る元祐にぐっと顔を寄せ、智晶は氷のように冷たい声で凄んだ。
「分かっているのなら、くだらない情を挟むな。俺がお前を姜家に引き取らせた意味、気付いていないとは言わせんぞ」
怒りに満ちた――けれどどこか必死な智晶の眼差し。
皇后の長子として生まれながら後ろ盾を全て失くし、周囲は敵ばかりで、彼らは私腹を肥やすために智晶を裏切って平然としている。建国当初のあるべき姿、理想を貫こうとする若き皇帝は、いつも孤独だった。
姜家は古い名家だが、皇族とは長年距離を置いてきた。家格に相応しい職と名誉さえ手に入れば無理はせず、不正に走ることもない一族だ。蔡家のような新興の一族とも違い、簡単に足をすくわれる恐れもない。
元祐は小さく微笑み、頷いてみせた。
「……私は、陛下の為に生きております」
「なんなんだ、その返事は」
智晶は一瞬息を飲んだのちに顔を顰め、元祐から目線を逸らした。
次話も明日20時更新です!




