六.暗き眼差し
「――なるほど、林簽書枢密院事が……。私の方ではそこまで辿れず、申し訳ない限りです」
角張った顔に悔しげな表情を浮かべ、石 清岳が頭を下げた。
胡蝶座を訪れた翌日、元祐は休憩中の彼と人目につかない場所で落ち合い、報告を受けていた。
(落ち込んでいる石殿には悪いが、予想通りの結果だな……)
彼には例の会計係の宮中での勤務内容を調べさせていたので、成果はないだろうと予測していた。逆にこちらが朗月経由で手に入れた情報を伝えると、彼は意外にも落ち着いた様子でそれを受け止めた。顎に手を当て、清岳は元祐をじっと見上げて言う。
「……役者殿にこれ以上深入りさせるのは、危険でしょう。続きは私めが引き受けます。会計係から林への金の流れを示す『何か』が見つかれば理想的でしょうが、まずは会計係を確実に追い詰める証拠からですかね?」
(……意外と冷静だな。てっきり、林氏本人を問い詰めようと荒ぶるかと思っていたけれど)
理性的な清岳の言葉に、元祐は思わず内心で訝しむ。その微かな表情の変化に気付いたのか、清岳は苦笑してみせた。
「――義憤に駆られて、大声を上げて暴走すると思われましたか? 奴を糾弾すべきと、声高に訴えると」
「いえ……、その、」
図星をつかれ、元祐は視線を泳がせる。清岳はついと空を見上げ、目を細めて続けた。
「『今の自分があるのは、姜殿のお陰。姜殿の為なら、どんな危険も冒す覚悟です』。……いつも申し上げている通り、これが私の本心です。いくらなんでも、恩人を無闇に危険に晒すような真似はしませんよ」
「すみません……」
眉尻を下げた情けない表情で元祐が応じると、清岳は呵呵と豪快に笑う。
「心配ご無用。せいぜい、姜殿に危険が迫れば、派手に暴れて目くらましをするぐらいに留めますから。相手を道連れに、華麗に自爆してみせますよ!」
「縁起でもないことを言わないでください。というか、やっぱり重いです……」
無駄に良い笑顔を浮かべ、「爆発は男の夢ですから」などと宣う清岳に、元祐はがくりと肩を落とした。
「……彼らの私生活の方は、勇伸に探らせています。何かあれば彼と連携を取り、なるべく早く、不正の証拠を掴んでください」
「承知しました! あいつを跡形もなく燃やし尽くす、とっておきの証拠を必ずや見つけましょう!」
興奮気味の清岳を何とか宥め、元祐は仕事に戻ることにした。とはいえ、向かった先は礼部の自分の部署ではない。外廷の隅、内廷――皇帝陛下の私的な住まいへと繋がる門の前で、元祐は上官と共に、周囲の様子を伺っていた。
「周侍郎、姜郎中」
名を呼ばれて鷹揚に応じる上司に続いて、元祐は深々と頭を下げた。相手は後宮管理に携わる、元祐よりも高位の宦官だ。上官は鼻白んだように、ぞんざいな物言いで返す。
「……まったく、長く待たされたものだな。早く案内してくれ」
元祐と上官はまず門の脇にある小部屋で、簡単な身体検査を受ける。上官は屈辱に顔を歪めていた。検査が終わるとすぐに、宦官が彼らを連れて内廷のの門を潜る。
二人は後宮に住まう、ある人物に用があった。と言っても、形式的なご機嫌伺いのようなもので、上官はまるで気乗りしない様子。彼の足を動かすのは、「後宮に足を踏み入れられる」という特権意識だけだ。相手は典型的な名門貴族であるがゆえ、仕方のないことだと元祐は割り切っていた。
案内する宦官も、実入りの少ない仕事に、いかにも面倒だと言わんばかり。元祐は表情を殺して、彼らの最後尾に続いた。
三人が足を止めたのは、西側に立つ複数の建物群の前だ。そのうちの一つに、宦官は躊躇いなく足を踏み入れた。
建物の中をしばらく歩き、彼らはこじんまりとした客間に通される。ややあって、軽やかな足音が近付いてきた。朗らかな声が、彼らに呼び掛ける。
「こん二ちは。ヨク来てくレました」
元祐は微笑を浮かべるが、上官は露骨に顔を顰める。案内の宦官も渋い顔だ。
彼女は藩妃。異国出身の中級妃で、現帝の寵妃でもある。本名は「リーシャ・ハーディ」といい、「藩 梨紗」はそれを亮国語読みに直したものだ。
藩妃は褐色の肌に緩く波打つ黒髪、はっきりとした目鼻立ちの、いかにも快活そうな美女だ。だが、楚々としたなよやかさが美とされる亮国の後宮では、明らかに異彩を放っている。
彼女には亮国での後ろ盾もなく、仕方なく、外交を職務とする礼部が後見となっていた。今日は彼女の機嫌伺いという名の、いつもの様子見である。
口をきくのも嫌といった面持ちの上官に睨まれ、元祐はおっとりと微笑んで藩妃に向き直った。
「こんにちは、藩妃様。ご機嫌ですね」
ことさらに平易な物言いを心掛けているのは、彼女が亮国語に明るくないためだ。本来嫁いでくるはずだった姉姫が昨年急逝してしまい、リーシャ姫はその代役である。
藩妃は楽しげに笑い、大きく頷いてみせた。
「はイ。皇后サマ、楽しい人デス。昨日、ご飯をいっショに食べました」
「食事を? ――大丈夫でしたか?」
「ハイ!」
一際笑顔弾ける藩妃の後ろで、侍女は明らかに顔色を悪くしている。亮の中級家庭出身の女官で、藩妃の後宮入りに伴って侍女に引き上げられた彼女に、元祐はそっと目を向けた。
侍女は頬を引き攣らせつつ、恐る恐る応じた。
「膳は皇后陛下がご用意くださったのですが……、その、藩妃様の器に……」
「亮でも、虫やカエルを食ベルとは、思いまセんでした! オイシイね!」
からりと言ってのけた藩妃に、当の本人と元祐以外が、一斉に顔を青ざめさせた。
亮国ではそうした生物も一応食材扱いではあるが、どちらかと言うと「食べるものがなく、背に腹はかえられない」場合か、「怖いもの見たさで挑戦する」場合に限られる。
(藩妃の祖国では、普通に酒の肴の珍味だもんな……)
五年あまりの路上生活で、その「背に腹はかえられない」状況を何度も経験した元祐は平然としているが、ごく普通の生活を経験してきた者には受け入れ難いに違いない。
周囲の空気には気付かず、藩妃は「皇后サマと仲良しシた、嬉しい」とホクホク顔だ。この呑気さ、裏表のなさが、日頃緊張ばかりを強いられる智晶の癒しなのだろう。微笑ましい思いで元祐も頷いた。
「ようございました。引き続き、陛下によくお仕えしてください」
「ハイ!」
元気一杯な彼女の応えに、上官はつまらなそうに鼻を鳴らしていた。
(忌々しい女ね……)
侍女に甲斐甲斐しく爪を磨かせながら、譚 雪婉は内心で吐き捨てた。
目障りな異国女の肝を冷やしてやろうとわざわざ食事に誘い、おぞましい生き物を膳に並べてやったまでは良かったのだ。まさかあの女の祖国で、あれらが普通の食材として扱われていたなんて、思いもよらなかった。
野蛮な小国の風習に興味はない。大亮国は大陸の覇者、自分はその皇后なのだ。
(陛下も陛下よ。あんな女の、どこが良いと言うの)
二つ年上の夫の冷ややかな美貌を脳裏に描き、雪婉は微かに顔を歪めた。夫婦の情など微塵もないが、自分という最上の女に興味を示さない夫には腹が立つ。
雪婉が苛々と舌を鳴らすと、侍女たちがわずかに身動ぎした。それを咎める前に、部屋の外から皇后付き首席宦官の声が響く。
「皇后陛下。宰相様がお見えです」
「伯父様?」
雪婉はパッと表情を切り替えた。頭脳明晰、容姿端麗な伯父には、幼い頃から可愛がってもらった。今もこの後宮で、伯父は誰よりも頼りになる。
「お通しして」
華やいだ声で命じ、雪婉は立ち上がった。
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