五.芝居小屋
いよいよ手に負えないほどに溜まった上官の仕事を必死に片付けながら、呉 勇伸がぼやいた。
「よくもまあ、こんだけ隠し持ってたもんですねぇ……」
「せめてもう少し早く押し付けてくれれば、血の気を引かせずに済んだんだけどね」
姜 元祐も苦笑で応じつつ、数字の辻褄の合わない箇所を探した。「ああ、ここも」と目印を置き、ざっと計算を走らせる。
恩蔭の官ばかりのこの部署で、まともに仕事をする方が馬鹿なのだろう。だが、例え仮初に与えられた立場と身分であっても、元祐は手を抜きたくなかった。栄達を願う勇伸も根が真面目なので、上官たちに良いように使われていると分かっていても、適当な仕事が出来ない。
(とはいえ、いい加減区切りを付けなければ……)
「急ごう、勇伸。そろそろ大門が閉まってしまうよ」
そうしてなんとか目処をつけ、二人は慌ただしく帰り支度を始めた。
夕闇に沈む外廷を後にしつつ、元祐はふと背後を振り返った。目線の先には宸明殿――皇帝の住まいがある。
「陛下……。先日はあまり、『自分など……』と仰らなかったんだよなぁ。お疲れなんだろうか」
「あんたも大概失礼な人ですよね」
勇伸が半眼で突っ込みをいれる。周囲に人目も耳目もないことは、互いに確認済みだ。
智晶の表向きの怜悧な若き皇帝の姿とは裏腹な、世話の焼ける酔っ払っいのような気質のことは、勇伸もよく知っていた。
彼は昨年に一度、拝謁の栄誉を賜っている。孝記とは違い、直々に会わせた方がやる気も能力も発揮出来るだろうと、元祐が智晶に頼んだのだ。まさかそこでいつもの鬱屈状態を出されるとは、さすがに予想していなかったのだが。
目論見は当たり、勇伸はそれまで以上に熱心に職務にあたってくれている。ならば、それで良しとするしかなかった。
勇伸が顔を覗かせ始めた月を見上げ、ぽつりと呟いた。
「これだけ面従腹背の輩だらけでは、陛下もお疲れになりますよ。俺たちが掴んだ奴らだけでも、何人になるか……」
「それでもまだ、序の口だ」
元祐も憂鬱な顔で呟く。建国当初の、「血筋ではなく、能ある者が国を率いる」という崇高な理想を解する者が、今の朝廷にどれだけいるのだろうか。
切り替えるように大きく息を吐き、元祐は勇伸に尋ねた。
「勇伸、明日の夜は空いている? 『胡蝶座』に行こうと思うんだけど」
「郎中持ちなら、喜んで」
胡蝶座は、楊 朗月の属する芝居座の勾欄の名だ。報告を受けがてら、気分転換をしないかという元祐の誘いに、勇伸が頬を緩ませた。
元祐が皇帝の意を受けて動いていることも、組織に属する人員も、勇伸にはほとんど全てを明かしている。たった一つ、元祐の真の生まれ以外は。
「……特等席を用意するよ」
彼を名家の気楽な三男坊と信じている勇伸の為に、元祐は穏やかに微笑んだ。
胡蝶座は、他の多くの芝居小屋と同じく、全体を見見渡しやすい一階の中央や、二階の最前列が富裕層向けに売り出している。その二階席の一角に腰を落ち着け、勇伸はそわそわと、元祐は悠然と舞台を見下ろしていた。
今宵の演目は、一番人気の『白翁救母』。白翁と呼ばれた僧が、地獄に落ちた母を救おうと悪戦苦闘する物語である。
胡蝶座では母が苦痛に喘ぐ前半部分を端折り、後半の救済部を喜劇風に仕立てている。親しみやすさを重視してのものだろう。
「――始まるね」
わっと歓声が沸き、幕が上がる。主役の白翁を演じるのはもちろん、人気役者の朗月だ。物言いたげな顔をする勇伸を制し、元祐はしばらく楽しげに舞台に見入っていた。
その日最初の見せ場を迎え、観客たちが朗月に黄色い歓声を送っている。老若男女、様々な声が飛び交う中、不意に元祐たちの席の端に人影が滑り込んできた。咄嗟に警戒する勇伸をよそに、元祐はおっとりと微笑む。
「やあ、桃鈴。今日は出ないのかい?」
「……この顔じゃ無理だって、朗月に笑われたのよ」
不貞腐れたように応じたのは、愛らしい少女だった。ただし、ぷっくりと腫れた左頬に、引っかき傷のようなものを幾つもこさえている。
彼女は郭 桃鈴。胡蝶座の役者の一人で、朗月と同じく、元祐の組織の一員でもある。憎々しげに舞台を見下ろすその様から察するに、また朗月を巡って同輩たちと喧嘩でもしたのだろう。十六歳の少女は、見目麗しい看板役者に夢中だ。
桃鈴は目線を舞台に向けたまま、懐から粗末な紙を取り出して言った。
「はい、これ。『あたし』が『朗月に頼まれて』まとめた資料よ」
勝ち誇った少女の言葉に、元祐は苦笑する。
朗月に憧れる彼女は、執念で彼の隠密行動を探り当てた。共に過ごす時間を増やし、読み書きの出来ない朗月の役に立つ。それだけのために、桃鈴は危険な橋の上に自ら足を踏み出した。
元祐は桃鈴の寄越した報告書にざっと目を通し、隣の勇伸に手渡した。
「……よくやってくれた。次の指示があるまで、待機していてくれ」
そう元祐が声を掛けると、桃鈴は音もなく姿を消す。
元祐は再び溜め息を吐き、舞台の上の朗月に目線を戻した。
大歓声の中幕を降ろした胡蝶座を後にしながら、勇伸が小声で囁いた。
「……大物に繋がっちまいましたねぇ」
朗月に調査を命じていた、枢密院の会計係のことだ。数代前に製法が確立され、武器として使われるようになった火薬の精製において、彼は硫黄の質を誤魔化して仕入れを行っている。差額は懐に収めているようだが、その大部分はどこかに流れている形跡があった。
朗月は、件の会計係とこっそりと面会して上納金を預かっていた、彼の上官を追った。その上官はまた別の上官に金を渡しており、最終的には、簽書枢密院事・林 将威にまで辿り着いた。
(簽書枢密院事……、軍事政策決定にも関わる、枢密院の幹部。譚宰相の遠縁、林家の入り婿。大手柄だ、朗月)
桃鈴から渡された報告書を入れた懐を握り締め、元祐は小さく息を吐く。その名を目にした瞬間、これ以上朗月たちには深入りさせないと決めていた。市井に暮らす普通の民である彼らには、身を守る術がない。
「……石殿の報告も、明日聞こう。官僚同士の繋がりの調査は、張殿に頼むかな」
「大丈夫ですか?」
勇伸が顔を顰めている。かつて石 清岳を左遷させようとしたのが、当時、枢密院の実務責任者だった林氏なのだ。清岳は一本気な軍人で、枢密院の理不尽な決定にも真っ向から反抗していた。林氏にはそれが疎ましかったのだろう。
その林簽書が関わっていると知れば、頭に血の上った清岳が暴走するかも知れない。勇伸の零した不安は、元祐も抱いているものだ。
「――断言は出来ないね。でも、仕方ない」
いざとなれば――その言葉は心の中に仕舞い、元祐は勇伸に微笑みかけた。
「……遅くなってしまった。何か食べて帰ろうか?」
勇伸は肩を竦め、苦笑を返した。
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