四.皇后と宰相
まだ夜明けには程遠い時刻。大亮国皇帝・汪 智晶は寝台から抜け出し、音を立てぬようひっそりと身支度を始めた。
だが、それは無意味だったようだ。くぐもった冷ややかな声が、彼の背中に突き刺さる。
「……皇后の閨を訪ねておきながら、朝餉も取らずに出て行かれるおつもりですか」
蛇のように絡みつくその嫌味に、智晶は密かに溜め息を零した。
「政務が立て込んでいる。朝議に備えねばならない」
「政務など……。伯父上にお任せになればよろしいのに」
嘲りを含んだ正妻の言葉を振り切るように、智晶は何も答えず歩き出した。
皇后・譚 雪婉は、父の代から宰相を務める譚 敬徳の姪にあたる。彼女が皇太子妃であった時分から夫婦仲は冷めきっていたが、智晶の即位時にそのまま皇后の座に収まった。宰相・譚氏の強い推挙があったことは、言うまでもない。
即位から四年経ち、側妻との間に公主は何人か産まれたものの、いまだ後継たる皇子は一人もいない。皆途中で流れるか、産まれてすぐに息絶えるかだ。
(鬼女めが……)
皇后の仕業だという、明確な証拠はない。だが、皇帝を軽んじる割に、彼が他の妃のもとを訪れる度に瞋恚を燃やす彼女に、疑いの目を向けるなという方が難しい。
六年前に逝去した前皇后――智晶の母の死因とて、今もまだはっきりとしたことが分からないのだ。前後して不正を暴かれた母の一族も、果たして本当にそんな罪を犯していたものか。
ろくな後ろ盾を持たない皇帝の朝廷で、譚氏は絶大な力を奮っている。後宮はその姪の天下だ。
智晶は微かに姿を見せ始めた明けの明星を、暗い眼差しで睨みつけた。
乱暴な手つきで湯呑みを取る主君は明らかに不機嫌で、元祐は伺うようにそっと尋ねた。
「――陛下。何かございましたか?」
「何もない」
ピシャリと言い返すその顔は、どう読んでも「何もない」というようには見えなかったが、元祐は深追いせず、へらりと笑って有耶無耶に済ませた。元より、宸襟を読み解こうなど一家臣には過ぎた行為だ。
現在命じられている枢密院の会計係と並行して、新たな人物を探れと指示があるのか――そう意気込んで呼び出しに応じた元祐だったが、今日はどうやら茶に付き合わされるだけのようだ。智晶はやけになったように、酒でも飲み干すような仕草で茶杯を呷っている。彼の至高の主は酒が苦手だ。
元祐は黙って主に付き合い、ゆっくりと茶を啜る。皇室に捧げられる茶は絶品で、香りすら馥郁として芳醇だ。
「……言っておくがこれは、忠延の配下に命じて市中で買わせた普通の茶だぞ。民の生活を知るのも、皇帝にとって大切な仕事だからな」
「……」
涼しい顔で言ってのける智晶に、元祐は頬を引き攣らせた。
ニヤリと片頬を歪めた智晶が、不意に元祐の手元に目線を落とす。ちなみにここは宸明殿のいつもの一室で、いつも通り、側近の宦官すらも外に出されている。数段高い玉座に着く皇帝に茶を供するのも、元祐の役割だった。
智晶はぽつりと呟くように言った。
「……お前は、父を陥れた者に復讐をしたいと願うか」
唐突な話題転換に、元祐はぱちぱちと目を瞬かせた。
「復讐……、ですか」
確かに彼の父は、上司たちの政争に巻き込まれ、とばっちりであっさりと全てを失った。儒の教えに従うのであれば、子は父の仇を取らねばならない。
だが――
「……以前も申しました。私は『姜 信』だと。私は陛下に生かされ、陛下のために生きております」
身分を偽って生きていること、親しい者を欺いていることを、気に病まぬ日はない。それでも、彼の主君は「姜 信として生きよ」と命じた。生きる意味を、生きていく場所を与えてくれたのだ。
ならばその命に応えることが、元祐の人生の道標となる。
「……ふん」
とびきり顔を顰めて鼻を鳴らし、智晶は再び湯呑みを傾ける。その勢いある飲みっぷりに、元祐は微かに眉を曇らせて言った。
「陛下。あまり飲み過ぎては、お腹を壊しますよ」
「……お前は俺の母親か」
辟易とする主君に微笑み、元祐もまた杯を手に取った。
元祐の残していった茶を啜りながら、皇帝・智晶は山と積まれた決裁書類に目を通していた。日は暮れかかっているが、不思議と疲れはない。つかの間の心落ち着く時間は、智晶の張り詰めた神経をいつも和らげてくれる。
(銘茶と信じて茶を味わっていたあの顔……。傑作だったな)
ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべたところで、彼はふと真顔にかえる。次の瞬間、入室可否を伺う澄んだ声が響き、智晶は重々しく口を開いた。
「……入れ」
「失礼いたします」
入ってきたのは、中性的な美貌を嫌悪に強ばらせた忠延だった。いつも柔和な首席宦官がこんな表情を向ける相手は、二人しかいない。口を開きかけた彼を制し、軽く顎をしゃくると、忠延は部屋の外で待っていた人物を中へ誘った。
智晶は淡々とした声で告げる。
「面を上げよ。――何用か、宰相」
恭しく顔を上げ、その男は優美な微笑を浮かべた。
譚 敬徳。確か、年齢は五十六だったか。建国当初から科挙及第者を出し続ける名家の当主で、朝廷内で絶大な権力を誇る。その力は今や後宮にも及び、末の弟の娘――自身は女児に恵まれなかったため――を皇太子正妃に据えたのも彼だ。彼自身の義妹も確か、祖父帝の後宮で上級妃となっていた。
若い頃はさぞや異性の視線を集めたのだろう、姪の雪婉によく似た冷艶な面差しを笑みの形に保ったまま、譚宰相はゆったりと切り出した。
「陛下におかれましては、ますますご健勝のご様子。……姪を可愛がっていただいているようで、不肖の伯父としても恐悦至極にございます」
(皇后か……。告げ口しやがったな)
今朝、夜明けも待たずに彼女の閨を去ったことへの嫌味と牽制だろう。正妻の宮では、朝まで共に過ごすことが礼儀だ。政務にかこつけて早々に逃げ出そうとしたことは、雪婉にもとっくに気付かれている。
「ただ……。叶うことなれば、早くこの老いぼれの腕に、姪孫を抱かせていただきたいものですな。あれは昔から風邪ひとつひかぬ、強い娘でした。きっと玉のような、健康な皇子を産むことでしょう」
それはつまり、「お前は余計なことを考えず、自分の姪と子作りに励んでいろ」という忠告だろう。あまりに露骨な言い草に、傍らの忠延が気色ばむ。それを抑えながら、智晶は冷たく笑って返した。
「……そうだな。皇后は国の母。全ての子を慈しみ、優しく抱き上げてほしいものだ」
(これ以上は許さん。次に何かあれば――潰す)
智晶の内心を感じ取ったのか、譚宰相は目を細めて頷くばかりだった。
「――忠延。今宵の伽の籤、皇后の札を外しておけ」
いまだ憤懣やるかたないという面持ちの首席宦官に命じ、智晶は椅子に背中を預けた。知らず、溜め息が零れる。
労りの眼差しを向けてくる忠延に、智晶は「それから……」と続け、そこで目を瞬かせた。
(二日連続で『元祐を呼べ』などと命じたら、この想像力逞しい配下に、何を誤解されるやら……)
智晶の内心も知らず、忠延は「陛下?」と首を傾げている。小さく笑い、智晶はただ無言で首を振った。
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