三.侍女と、元孤児
帰宅後、私室で寛ぐ元祐に酌をしながら、侍女の明芳は目を瞬かせた。
「ずいぶんお疲れですね、若様」
「うん……、まあね」
元祐は曖昧に苦笑し、一息に杯を呷る。その勢いに、明芳が「程々になさってくださいまし」と眉を顰めた。だが、大量の仕事を押し付けられ、苦手なお目付け役に散々絡まれ溜まった疲れは、酒の力を借りねば癒せそうもない。元祐は空になった杯を軽く振り、溜め息をついた明芳が渋々燗を手に取った。
既に老齢の管家――家を取り仕切る使用人の長は、眠りに就いている。小さな四合院に大勢の使用人は必要ないと元祐が訴えたため、この家には管家と侍女の明芳、あとは数名の雑事担当しかいない。
元祐はちらりと明芳に目をやり、微笑んだ。
「あとは自分でやるよ。明芳ももうお休み」
「……もう、子ども扱いなさらないでください。若様のお世話をすることが、私の仕事です」
そう言いながらプッと頬を膨らませるあたりは、まだまだ幼さを感じさせる。
(確か、十八になったのだったか……)
明芳は姜家の傍流、柳家の出身で、元祐とも親戚関係にある。その彼女が二年前、侍女としてこの家にやって来た意味を、元祐も察してはいる。
けれど元祐は気付かぬふりで、のらりくらりと逃げ回っていた。
(彼女を、偽物の花嫁にするわけにはいかない……)
元祐は、姜家当主の年の離れた異母弟。好色だった先代当主が晩年、市井の女性に産ませた息子であり、九年前の母の死後、代替わりをした姜家に引き取られた――ということになっている。少なくとも現当主と元祐以外は、そのように信じている。
元祐は目を伏せ、自分の本当の生い立ちを思い浮かべていた。
姜 元祐――信の本名は、蔡 淳といった。曾祖父・祖父・父と三代続けて科挙に及第し、士大夫の名家の仲間入りをしつつあった蔡家の、長子として産まれた男だった。
淳の父は典型的な学問馬鹿で、政治にはまるで疎かった。知らずうちに政争に巻き込まれ、あっさりと宮中での名誉も立場も失い、一族は路頭に迷う羽目になった。
神経の細かった父は酒に溺れ、酔って水路に落ちて死んだ。深窓の令嬢だった母は貧しい暮らしに耐えられず、自ら命を絶った。幼かった弟妹が相次いで病死したのも、母の自死の一因だろう。いずれも、淳が十歳の頃だった。
天涯孤独となった淳は、路地裏で生まれ育った子どもたちに混じって、その日暮らしを始めた。
楊 朗月の芝居座と出逢ったのも、その頃だった。当時まだ駆け出しの一座だった彼らの手伝いをしては、小遣いをもらっていた。
路地裏に住まう浮浪児同士、助け合い、何とか生きて来た。
だが、長じるにつれ、淳は孤立した。生まれながらに苦しい生活を余儀なくされてきた孤児たちは、淳の生い立ちを理解するにつれ、彼を集団から弾くようになったのだ。国の中枢の士大夫たちは長年、都の影とも言える彼らを蔑み、排除しようとしていた。
十五になる頃、淳は路地裏のあちこちを転々としていたが、どこに行っても同じだった。父譲りの、いかにも学者然とした顔立ちも災いしたのだろう。残飯を恵んでほしいと頼んだ飯店の店主にも、「生意気な目をしやがって」と蹴り捨てられた。
いつしか淳は、都の外れに辿り着いていた。幾日もほぼ飲まず食わずで、ぼんやりと霞む目で見上げた夕空がやけに美しかったことを、今でも覚えている。
ああ、自分は死ぬのか――そう思った時だった。
『……浮浪児にしては、美しい詩を吟じるものだな』
不意に覗き込む影が夕陽を遮り、淳は咄嗟に腹を立てた。家族を亡くして以降、久しぶりに情動が沸き起こった瞬間だった。
『……俺は、士大夫になる男だ』
身を起こし、そう吠えた淳は、――そのまま意識を失い昏倒した。
飢え死にしかけていた淳がようやく意識を取り戻したのは、それから三日後。やけに豪奢な造りの、狭い小屋の中でのことだった。
わけも分からず呆然としていた淳は、傍らに座す人間に気付いて息を詰めた。
「だ、……れ」
嗄れた声で誰何する淳に、その人物は不遜に返す。
「……やっと目を覚ましたか。だが、許可する前に口を開くとは、無礼な奴だな」
高圧的な物言いに反発するように、淳が眉間に皺を寄せると、彼は「良かろう」と鷹揚に肩を竦めた。
「特別に名乗ってやる。私は、汪 黎晏――字を智晶という。そなたは?」
「れ……。ふざ、け、るな」
淳は気色ばみ、同世代と思しき男を睨んだ。「黎晏」は、この国の皇太子の尊き御名だった。軽々しく口にするだけで死罪に値する。
彼の怒りを感じ取ったのか、少年は再び盛大に肩を竦め、淳の方に身を乗り出してきた。
「……良く見ろ」
薄い身体を覆う上等の衣、その身頃に刺繍されたもの――四爪の龍にようやく気付いた時、淳の頭は音を立てて回転を止めた。
「……しそうの、りゅう」
「そうだ」
「あの、もし、や、……こう、たいし、でん……?」
「そうだ」
少年はつまらなさそうに答える。淳は衝撃のあまり呼吸を忘れ、飢えと渇きに弱った身体を動かすことも出来ずに固まった。冷や汗が額を伝う。
大亮国皇太子・汪 智晶だと名乗った少年は、ふんと鼻を鳴らし、傍らに置いていた重湯の椀を持ち上げた。そのまま、匙を不器用そうに淳の口元に突き出す。
「腹が減っているだろうが、今食事をすれば死ぬ。ひとまず重湯からだと、医師に言われているのだ。……ほら、口を開けろ」
(――待て、待て待て待て待て、待ってくれ!)
自分がなぜここ――どこなのかも分かっていないが――に居て、しかも皇太子殿下御自らに看護されているのか。
完全に恐慌に陥った淳に小さく笑い、皇太子は悪戯っぽく続けた。
「行幸の帰り道、死にかけの浮浪児に近付いてみたら、『自分は士大夫になる男だ』などと愉快な啖呵を切るものでな。……面白いから、内密に連れ帰った。傍付きの宦官と医官以外には知らせておらぬゆえ、介抱役は俺で許せ」
(許せって……無理――!)
あまりの恐れ多さに卒倒し、淳は再び意識を飛ばしたのだった。
淳が匿われていたのは、皇太子宮に数多ある、使われていない貯蔵庫の一つだった。
ただ、そんな場所では遅かれ早かれ、誰かに見付かってしまう。皇太子は自身の教育係の高氏を頼り、淳の身元を彼の部下である姜氏に預けた。
淳は八年前に没した先代の子ということになり、「信」という名を与えられ、すぐに冠礼の儀を迎えて「元祐」の字を授かった。数年は姜の本家で療養しながら教育を受けたが、出仕可能となった頃にこの四合院に移った。
(智晶殿下はあの頃から、将来自分が率いる朝廷に信用出来る配下を置きたいと、常々欲しておられた……)
その目的において、智晶に生命を救われた淳――元祐は、格好の駒だったのだろう。
もちろん、用心深い彼は元祐のことも完全には信頼していない。側近を組織の見張り役につけたのもその為だ。
(何にせよ、私は陛下に生かされている身。陛下の命をこなし――朝廷に居場所を作れるよう、精進せねば)
難易度の高い任務、特に後半部には頭を抱えつつ、元祐はぐっと盃を傾けた。
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