二.武官と皇帝の側近
数日後、礼部郎中・姜 元祐はとある人物を探して、普段縁のない軍部の鍛錬場を歩いていた。周囲に違和感を持たれないよう、下級武官の格好をしているおかげか、見慣れない人物を咎める声はない。元祐はいかにも伝令を命じられた下っ端武官の振りをしつつ、あちこちに目線を走らせた。
(――居た)
「石殿」
いつもより気持ち高く声を張り、木陰で一人、汗を拭っている武官を呼ぶ。名を呼ばれた青年はパッと顔を上げ、次の瞬間、満面の笑みを浮かべた。
「おお、姜殿! 一体どう……」
「副長官からの言伝を預かって参りました」
遮るように元祐は言い、キビキビと武官式の礼をとった。石と呼ばれた武官は、不思議そうに瞬きをしている。だがやがて何かを飲み込んだのか、彼も鷹揚に応じた。
彼の名は、石 清岳。元祐の組織の、軍部側の諜報員である。
一本気な清岳は上官たちに煙たがられおり、数年前、あらぬ罪をでっち上げられ、危うく僻地に飛ばされかけた。その窮地を密かに救ったのが、元祐である。以来、清岳は元祐を慕い、忠実な協力者となってくれていた。
三十五歳の男盛り、背は決して高くないが、長身で体格の良い勇伸よりも更に身体が大きい。そんな彼がにこにこと破顔し、ひょろ長く弱そうな男の話を聞いている様は、見ようによっては奇妙に映ることだろう。
清岳はさも真面目な訓戒を受けているような面持ちで、元祐に頷いた。
「……分かりました。つまり私は、その会計係を探れば良いんですね?」
「はい。ですが、くれぐれも目立たないように」
「分かっていますよ」
一度上官に貶められかけて以降、豪快な彼もさすがに慎重さを学んだ。未だ軍部での立ち位置は危ういものの、上手く立ち回ってくれるだろう。
「……姜殿のためなら、生命も惜しくない。ですが、迷惑をかけぬよう気をつけます」
大作りな顔がずいっと間近に迫って微笑み、元祐は思わず顔を引き攣らせた。個人的忠義に篤過ぎる点は、……彼の難点かも知れない。
「……頼みます」
そう曖昧に答え、元祐はそそくさとその場を立ち去った。
今日は部下の呉 勇伸が休みのため、雑務は全て、元祐の元に集まってくる。元祐はいつもの倍溜まった書類を目の前に、小さく苦笑した。
亮国で官職を手に入れる経路は、主に三つ。王道は難関の科挙に及第し、士大夫として華々しく出仕する道。二つ目は下級官吏として地道に功績を積み、少しずつ位を上げる道。そして三つ目は、旧家・名家である実家の威光を借り、それなりの官職を与えてもらう道。
科挙及第者はそれ以外の者を見下すし、名家の縁者は「どこの馬の骨とも知れぬ者たちが……」と嫌味を垂れ流す。下級官吏は双方の理不尽な上官に恨みを募らせる。
彼らはそれぞれの立場で派閥を形成し、その派閥内でも日夜、露骨な足の引っ張り合いを繰り広げている。表向き、冴えない中級官僚である元祐は、同じ派閥の中でも軽視され、便利屋扱いされる存在だった。
(まあ、好都合ではあるんだけど……)
上官や同僚に仕事を押し付けられてばかりいるが、そのおかげであちこちうろちょろしていても怪しまれない。他部署の人間と話をしていても、「また何か雑用を命じられているんだろう」程度に流してもらえる。
(そうは言っても、自分に関係のない仕事ばかりを押し付けられるのはきついよなぁ……。一人だと休憩も取れない)
元祐は嘆息しながら、積み上がった書類を上から捌き始めた。
だが、いくばくも進まぬうちに、ピクリと筆先を止める。その書類を摘み上げ、彼は微かに眉根を寄せた。
(――そういえば、報告を怠っていたか)
上手く皇帝陛下にあしらってもらえれば助かったが――そういう訳にもいかないだろう。第一、皇帝を顎で使うなど、それこそ大目玉を食らう。
元祐は誰にともなく「書類を届けて参ります」と声を掛け、重い腰を上げた。
念の為、付け髭などで軽く変装をした元祐が訪れたのは、翰林学士承旨の部屋だった。「入れ」と短く声が掛かり、元祐は低頭しながら敷居をまたぐ。
「……失礼いたします」
「おお、早かったではないか。てっきり正体を見破られ、拷問でも受けておるのかと思っていた」
その男性は優雅に微笑み、棘を隠さない言葉を寄越してきた。元祐は深々と頭を下げながら、思わずぐっと息を詰める。
広い長官室で一人、元祐を待ち受けていたのは、高 修遠。現帝・智晶の元教育係であり、皇帝の相談役である翰林学士の長を務める壮年の男だ。先ほどの書類、慇懃な言い回しに彩られた照会書――に見せ掛けた呼び出し状の書き手である。
(仕方ないだろう、貴方様には敵が多いのだから……)
高家が現帝の支援者であることは周知の事実だが、現在の朝廷で宰相の職に在るのは、彼の政敵・譚氏だ。その耳目は至る所にあり、気軽に報告にも上がれない。
決して、面倒な目付け役に会いたくなかったなどという訳ではない……はずだ。
元祐はへらりと笑い、突き刺さる嫌味を受け流した。
「まさか、そのようなこと。そもそも、もし周囲に気取られることがあれば……陛下にご迷惑をかける前に、迷わず死を選びますよ」
「ほう? 野良猫にしては見上げた忠誠心だ」
これは愉快、などと嘯く修遠は代々続く士大夫の一族出身で、自身も科挙を好成績で及第した名士である。光の当たる道を歩くこの男にとっては、胡散臭い生まれの元祐も、その彼が集める人材も、まるで信用ならないのだろう。
手塩にかけて育ててきた皇太子――皇帝陛下を唯一無二と思うがゆえに、その意を受けて動くのは「公式に認められた立場の者」だけで良い。そんな考えを隠そうともしない彼を、元祐は複雑な気持ちで見つめた。
「……ご報告を、よろしいでしょうか?」
修遠がピクリと眉を跳ね上げる。元祐は内心嘆息しつつ、隠密組織の目付け役である修遠に報告を始めた。
ここ最近、智晶に命じられて不正の証拠を挙げた官僚について。また、新たに調査を命じられた、枢密院の会計係について。
元祐の話を聞き終えた修遠は、不快げに眉を顰めた。
「……陛下は、その会計係をどうするかは仰っていたか」
「いえ、まずは罪のあらましを探れとだけ」
「そうか。――歯痒いものだな」
智晶には現在、修遠以外の後ろ盾がない。先帝の嫡男でありながら、父の愛情を受けられなかったことも大きかった。長いものに巻かれる主義の先帝と、生真面目な彼とは、幼い頃から徹底的に折り合わなかったと聞く。
しばしの沈黙を経て、修遠は顔を上げて言った。
「――ご苦労であった。下がって良いぞ」
(この方に労われるなんて……明日は雪か?)
思わずそう考えてしまった元祐の思考を読み取ったのか、修遠は憤怒の眼差しで睨んでいた。
次話も明日20時更新です!




