一.官僚と役者
皇帝の住まいである宸明殿を後にした元祐は、身を隠しつつ外廷の職場に足を急がせていた。
(思ったより、長引いてしまった――)
皇帝に呼ばれていたとは、間違っても口に出来ない。「これだから『恩蔭組』は」などと囁かれるのは必至だろう。
いくつもの建物をすり抜け、人並みに紛れて移動していた元祐は、やがて見えてきた礼部の一棟にほっと息を吐いた。
「姜郎中、遅いですよ」
「勇伸。すまない、助かった」
質素な身なりの青年が扉を開け、元祐を中に誘う。元祐は屋内に滑り込んだ。
元祐同様に長身だが、鍛えられた体躯を誇る青年――呉 勇伸は、元祐の直属の配下にあたる。彼はかつて、時折不自然な行動を取る上司に違和感を抱き、詰問しようとした。その鋭さと度胸を元祐に買われて、秘密組織の一員に抜擢されたのだ。地方出身の下級官吏だった彼はそれを意気に感じ、陰に陽に元祐を支えてくれている。今日も元祐の不在が目立たないよう、周囲に気を配ってくれていた。
さも、ずっと行動を共にしていたように装いながら、二人は歩き始める。
「……陛下は、何と?」
「その時まで留意する、と」
勇伸が微かに口を尖らせた。彼は元祐よりも五つ年上のはずだが、時折こうした青さも見せる。
(今はまだ、仕方がない……)
士大夫たちの不正の証拠を集めたとて、すぐに糾弾出来るほどの力は、現帝にはなかった。抜けた穴を埋める人員にも、まるであてがない。
今はまだ、誰を信用して良いのか見極め、いざと言う時に備えるので精一杯。そしてその見極めこそ、元祐が任せられた組織の役割なのだ。
二人は長い廊下を渡り切り、隅にある一室に足を踏み入れようとする。まさにその時、彼らを背後から呼び止める声があった。
「……姜郎中」
ハキハキと歯切れの良いその声の持ち主は、戸部郎中・張 孝記という。元祐と同じ、実家の名前で官職を賜った「恩蔭」の受恵者の一人だ。ただし本人はいたって優秀であり、生真面目そうな見た目通りの実直な青年である。
孝記はかつて、業務上の危機を元祐に救われたことを恩に感じ、何くれとなく手を貸してくれている。結果的に「皇帝陛下の秘密組織」の任務に大きく関わっているのだが、元祐も敢えて事情を知らせていなかった。
元祐はにこりと微笑み、彼に会釈をした。
「張郎中。先日はありがとうございました」
「まったく、あんな資料が何の役に立つのかは知らないが……。貴殿も本来、俺と同じくらい有能であるはずだ。フラフラと訳の分からないことに首を突っ込んでいないで、職務に邁進しろ」
傍らの勇伸が、こっそり肩を竦める。自信に満ち溢れているのは孝記の美点だ。
元祐は黙って微笑み、彼に頭を下げた。
渋面を浮かべて立ち去る孝記と別れ、二人は自分たちの職場に足を踏み入れた。
「……あの人には、本当のこと話さないんですか?」
並んで机に着きながら、勇伸が密かに尋ねてくる。元祐はわずかに眉尻を下げて、囁き返した。
「張殿のところのお子二人は、まだ小さいだろう? 危険な目に遭わせたくない。それに……」
(自分が皇帝陛下の隠密仕事に関わっているなんて知ったら、言動が空回りしそうなんだよなぁ……)
張 孝記もまた、腹芸には向かない男だ。
勇伸が「お優しいことで」と苦笑する。そのまま二人は定刻まで、上官に押し付けられ山積みとなった仕事と格闘していた。
(飲み過ぎた……)
元祐は襲い来る鈍い頭痛に、小さく顔を顰めた。明日が休みで本当に助かった。
終業後、上官たちに無理矢理連行された酒店からの帰り道のことだ。
日中の仕事を部下に押し付けていた上司たちは、それはそれは元気なものだった。店を追い出された後、このまま妓楼に行くという彼らを何とか振り切り、元祐はほうほうの体で帰宅の途に着いていた。ちなみに勇伸は、ちゃっかりと定刻で帰宅している。つくづく抜け目のない男だ。
暗い夜道をおぼつかない足取りで歩いていた元祐は――、ふと目を細め、静かに足を止めた。
「だーんな」
軽やかな呼び声は旧知のもの。それを聞く前に相手の正体を見抜いていた元祐は、暗がりに身を浸しながら背後を振り返った。
すぐ間近に、衣服を粋に着崩した年若い男が立っている。彼は長い髪を夜風に遊ばせ、猫のような瞳を楽しげに細めていた。
元祐は声を潜めつつ、華やかな色男に答えた。
「……酔ってるのか? 朗月」
「まあねぇ。出資者の機嫌を取ンのも、花形役者の勤めってね」
彼は当世一の人気を誇る芝居小屋の役者だ。物心つく前から芝居に親しみ、二十歳という若さで一座の看板役者に登り詰めた。中性的な美貌と圧倒的な演技力に男女問わず贔屓がつき、あちこちの宴席で忙しくしているようだ。
元祐とは幼い頃からの知り合いで、気心も知れた仲だ。朗月は気安い態度で元祐に歩み寄り、その耳元に囁いた。
「――んで? 次は誰を探れば良いわけ?」
彼もまた、元祐が選び抜いた組織の一員である。市井育ちで皇帝への忠誠心などは欠片もないが、昔の縁と「面白そうだから」という理由で元祐に協力している。その刹那主義的な一面は危うくもあるが――
「今日の宴の末席に居た、武官の一人だ」
「あー、あの、太ったオッサン? 馬乗れなさそうな」
「……言うな」
厳密には武官ではなく、枢密院で金の管理を預かる文官だ。彼の就任後、予算の流れに不透明な点が目立ち、皇帝に目をつけられている。
(……恐らく彼自身の意思ではなく、上官たちに言われるがままにやっているだけなんだろうけど)
だが、たとえ命令に従っただけであろうとも、その罪が許されるわけではない。すっと目を細める元祐をニヤリと笑って見上げ、朗月は続けた。
「んじゃ、いつも通り、何か掴んだら遊びに行くわ。今度は誰に化けてほしい?」
「……誰でも良いが、くれぐれも家人に怪しまれないようにしてくれよ。こないだみたいな、名家のご令嬢の侍女のふりは勘弁してくれ」
元祐は現在、実家を出て四合院暮らしをしているのだが、「女っ気のない三男坊に春が」と早とちりした使用人たちが大騒ぎし、大変な目に遭ったのだ。自然、元祐は苦い顔になる。
りょーかい、と軽く答え、当代一の人気俳優はヒラヒラと手を振って去って行った。
「……早く帰らないと」
一人呟いた元祐も用心深く暗がりを抜け出し、足早に自宅への道を辿り始めた。
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