二十.茶と酒(後編)
「何を……」
嘲笑うように呟いた皇后であったが、その声は誤魔化しようのないほどに震えている。
今にも倒れそうなほど、細かく震える上官の身体を支えながら、呉 勇伸は目の前で繰り広げられる攻防にじっと見入っていた。
彼の上官――姜 元祐は、掠れた痛々しい声で語る。
「皇帝陛下は、傍付き宦官の丁公公に命じられ、市井で流行りの茶を数多買い揃えられたのです。秘密裏にというご様子でもなかったので、貴女方も、陛下がどのような茶を飲まれていたのか、情報を得ることは容易かったでしょう。――その中に、蓬を用いた薬草茶もあった」
そう。
市井では、蓬は身近な食材だった。高級茶にはとても手の届かない庶民が、せめてその文化を味わいたいと、手に入りやすい野草を茶に煎じたのが始まりだという。勇伸の故郷でも、ドクダミやたんぽぽを用いた茶などが、よく食卓に上がったものだ。
だが、野草は危険だということもまた、この流行の中で知られることとなった。姿形の似た、まったく別の効能を持つ――それどころか人体には毒となり得る野草は数多あるのだ。
その野草は、亮国古来の存在ではない。交易が盛んな世で、遥か西方の国からやって来た商人たちによって偶然、この国に持ち込まれたと言われている。
蓬と匂いや味の良く似たその植物は、しかし、決定的に違う性質を持っている。
すなわち、酒とともに摂取すると、神経毒を摂取したのと同じような症状を心身にもたらすというもの。
その危険性から現在、亮国内での栽培は固く禁じられている。だが、その植物の群生が最初に確認された地域では、今だ存在が疑われている。そしてそこは、譚宰相の息子・青澄の妻――皇后の従兄嫁の生家である貴族の治める土地だった。
皇帝陛下の暗殺未遂事件の直前、皇后の従兄嫁が彼女を尋ねて来たことは記録に残っている。その際、皇后への献上品として、その地域の名産の茶を持参していたことも。
あの日、皇帝陛下は茶汲み女官の葉氏が準備したこの茶を口にし、その後、藩妃の宮で酒を召された。それぞれ毒味を行ったのは別の人間であったため、茶に仕込まれた毒草の効果に誰も気付かなかったのだ。
藩妃の宮で皇帝陛下が酒を飲まれたのは、不幸な偶然だった。
回想に耽る勇伸の横で、上官は不意に真顔に戻って言った。
「夜伽のお相手を事前に知ることが出来るのは、皇后陛下、貴女様だけです。ずっと、機会を窺っていらしたのでしょう? そしてあの晩、藩妃が陛下に侍ることを知った貴女様は、夕餉の場でこの茶を、そして夜伽の場では酒を用意させた。陛下がお倒れになった後、酒に毒を盛るよう宦官の一人に命じたのですね」
「……知らぬ。全て、藩妃が企んだのだろう」
青白い顔で否定する皇后に、元祐は淡々と告げる。
「皇后陛下。――皇帝陛下、我が至高の主君は、私的な場で酒はほとんど飲まれないのですよ。酒のもたらす高揚感や前後不覚を不快に思われ、わざわざ好んで召されることは、余程のことがない限りはない。それは陛下の長年のご側近、高承旨や丁公公、そして藩妃様や私のみが知る事実」
彼女も当然、その事実を知らなかったのだろう。皇后は目を剥き、震える声で叫んだ。
「出鱈目を申すな……!」
「彤史たちも、酒に関する情報は秘匿するよう厳命されていました。心を開いていない方にはあまり、弱味を見せたがらない方ですから」
皇后の顔が悔しげに歪むのを、勇伸は何とも言えない表情で見ていた。それは思いがけない綻びに動揺しているためなのか、「貴女は夫に心を開かれていなかった」と断言されたためなのか。
国の母を容赦なく断罪する上官は、最後通牒のように突き付けた。
「陛下が酒を飲まれる可能性は低いとご存知の藩妃様が、このような策を考え付くとも思えない。あの晩は疲れたご様子の陛下を案じ、滅多にお勧めしない酒を初めて、陛下に差し出された。獄に囚われ、厳しい取り調べを受けてもなお、藩妃様は酒のことを黙っておられた。……証人もいます。これ以上の言い逃れは不可能です」
元祐がふっと背後を振り返る。皇城司に取り囲まれて姿を見せたのは、窶れ、背を丸めて歩く青年、譚 青澄だった。
驚愕の眼差しで従兄を見つめる皇后には構わず、青澄は暗い表情を俯けたまま呟いた。
「……父の命を受け、私は、部下の葉郎中の娘を、女官として宮中に送り込んだ。また、妻に命じて、その毒草茶を用意させた。父は、田氏の事件での暗躍を疑っていた姜郎中を罰することが出来れば、それで良かった。藩妃を巻き込んだのは、従妹の希望によるものだ」
「従兄様!」
咄嗟に声を荒らげる皇后に一度も目を向けることなく、譚 青澄は皇城司に促されてその場を去って行く。全身を震わせる皇后に、残りの皇城司が歩み寄った。
「皇后陛下。お話はあちらで。……どうしても嫌だと仰るのでしたら、さあ、我らの目の前で葉氏が煎れたこの茶を、今すぐお召しください」
有無を言わせぬその迫力に、皇后はついに項垂れた。
人気のなくなった皇后の私室で、元祐は激しい目眩を感じ、身体をふらつかせた。勇伸が慌てて受け止めてくれたおかげで、頭から床に突っ込むことは避けられたものの、視界が回り、身を起こしていることも困難だった。落ちかける瞼を必死でこじ開け、元祐は傍らの勇伸に命じた。
「高、承旨に、伝言を。毒の仕組みは……、くれぐれも、内密に。と、くに、藩妃様、には……」
あの夜、藩妃が酒を勧めたのは、あくまで善意からのことだった。純粋な彼女は、自分の行動が夫の身を危機に陥らせたと知れば、深く傷付くだろう。それは智晶も望まないはずだ。
霞む視界の向こうで、勇伸が顔を顰めて囁いた。
「まったく……、あんたって人は……!」
けれど、続きを聞くこともなく、元祐の意識は完全に闇に沈んで行った。
次話も明日20時更新です!




