十八.真実を導く光
夜警に見咎められないよう細心の注意を払いながら、勇伸は夜の後宮を抜け出した。浄軍の仕事は大概夜半にまで及ぶため、彼らの出入りする門は夜になっても開放されている。
宮中の汚れ仕事を担う浄軍の振りをすることに、勇伸自身に抵抗はない。それでも、顔見知りの官に遭遇すれば厄介だ。はやる気持ちを抑えつつ、勇伸は見慣れた外廷の建物の陰でほっと息を吐いた。明け方までは、翰林学士承旨の高 修遠が用意してくれた空き部屋に潜んでいなくてはならない。
いち員外郎に過ぎない勇伸にとって、上司の調査指示は困難を極めるものだった。後宮の藩妃の聞き取り、皇帝陛下の動静や周辺情報調査など、権力者――例えば高氏などの助けがなくては不可能だった。だがそもそも、勇伸自身に翰林学士院への伝手がない。
初手から躓き、頭を抱えた勇伸を助けてくれたのは、名門・張家の子息である孝記だった。彼はいつも通り小言を零しながら、事情も聞かずに、実家の名を使って高承旨との面会の時間を取り付けた。同行は出来ないとのことなので、勇伸は孝記に深々と頭を下げ、その場で別れた。
怒りと焦燥に苛立つ皇帝陛下の側近は、ひどく恐ろしかった。しかし、彼は勇伸の提案と依頼に真剣に耳を傾け、最後には鷹揚に頷いてみせた。
勇伸に藩妃からの聞き取りを任せると命じた修遠は、自身は皇帝陛下関連の調査を引き受けると断言してくれた。それをありがたく頼り、勇伸は今晩、藩妃の聴取に成功したのだ。
ちなみに、賄賂に使う金銭を用立ててくれた朗月と桃鈴は、支援者である貴族や士大夫たちの情報収集に余念がない。武官の清岳も、各自が危険な目に遭わないよう、身の回りの警戒を引き受けてくれている。
皆、元祐が皇帝暗殺未遂に関わっているなど、毛ほども信じていない。勇伸は力強く感じながら、息を潜めて朝を待った。
「……これ。起きぬか」
渋い声に促され、勇伸ははっと飛び起きた。
「……あ」
彼を見下ろしているのは、腕を組み、呆れた表情を隠さない高 修遠だった。夜明けを待つうちに、つい寝入ってしまっていたらしい。勇伸はばつの悪さを覚えつつ、急いで身なりを整え、深々と頭を下げた。
真面目な翰林学士承旨は溜め息を零し、勇伸に昨夜の報告を命じる。勇伸は頷き、藩妃から聞き取った内容を手短に纏めた。
修遠が顎をさすり、低く唸る。
「やはり、どうやって毒が盛られたかが鍵か……」
「はい。――閣下は、いかがでしたか?」
勇伸が問うのは、当日の皇帝陛下の行動についてだ。大国の主の動静となれば国家機密に等しく、勇伸のような下級官吏がおいそれと知って良い内容ではない。修遠は微かに顔を顰めた。
いくら元祐の指示を受けているとは言え、彼が躊躇するのは当然だ。勇伸はじっと無言で、雲の上の存在である高官を見つめていた。
「……特に、変わった一日ではなかったそうだ。朝議に謁見、空いた時間は公主様方をお訪ねになったり、奏上書にお目通しをされたり。夕餉はお一人でお召しになり、夜遅くに藩妃を訪われた」
「お食事の最中に、体調を崩されたようなことは?」
ギロリと修遠が勇伸を睨む。だが、やがて彼は小さく首を振ってみせた。
勇伸は内心で落胆しつつ、言葉を続ける。
「周囲の人員はいかがでしたか? 様子のおかしかった者など……」
「いないと言われた。真実は分からん。――だがな、一名、私の知らぬ側仕えが増えていたぞ。茶汲み女官だ」
勇伸は目を瞬かせた。さすがは長年の皇帝陛下の側近、側仕えのこともよく見ている。
そして、茶の文化の盛んな亮において、茶汲み女官はただの雑事担当ではない。高度な専門知識と技術を持ち、皇帝や皇族、妃嬪らに仕える高級女官である。
勇伸は急き込むように尋ねた。
「女官の名は?」
「葉と呼ばれていた。名までは不明だ」
その返答に、勇伸はじっと考え込む。思わず、思考が声に漏れた。
「……譚宰相の息子、青澄。確か、彼の部下に、葉姓の者がいました。先日の林氏の件で張り込みをしていた際、その名を耳にしています」
勇伸の言葉に修遠も息を飲み、身を乗り出す。
「では、その者が」
微かに頬を紅潮させた修遠だったが、勇伸は静かに首を振った。
「……今は何とも。茶の毒味を行った者は、無事だったのですから」
「それはそうだが……」
悔しげに呟く修遠に、勇伸は空気を変えるように強いて力強く応じた。
「早速、ここまでで集まった情報を姜郎中に伝えてきます。あの方ならここから、真実を導き出してくださるはず」
確信に満ちた勇伸の言葉に、修遠は面白くなさそうに鼻を鳴らす。そのまま彼はしばらく何とも言えない表情で逡巡していたが、最後には折れるように頷いた。
七日ほど会わなかった間に、上官の様子は更に酷いものになっていた。
勇伸は絶句し、檻の中で半身を起こし、土壁にもたれる元祐を見つめた。片目が腫れ上がって完全に塞がり、顔も元の肌色が分からなくなるほど痣でどす黒く染まっている。小さな手燭の炎に浮かんだ手指は枯れ木のようで、先端にあるべき爪がいくつか剥がれて赤く膿んでいた。
全身を震わせる勇伸に、元祐は微かに笑って報告を指示する。か細い声音は静かな夜風にすらかき消されそうで、勇伸はぐっと奥歯を噛み締めた。
「まず、藩妃様のご証言ですが――」
押し殺した声で、勇伸は彼らが集めた情報を共有する。元祐は朦朧とした表情で耳を傾けていたが、やがて勇伸の話が終わると、のろのろと顔を上げた。
「……茶汲み女官。茶、酒、夜伽、藩妃……」
「姜郎中?」
譫言のように呟く元祐を案じ、勇伸が思わず檻の隙間から覗き込むが、元祐は一人宙を見据えたまま思考に没頭している。声にも生気が戻り、塞がれていない片目が爛々と輝き出した。
「……そうか、だから。あの方なら……」
「! 真犯人が、手口が分かったんですか!?」
わずかな情報と思考時間で何かに辿り着いた上司に、勇伸は驚愕の声を上げる。元祐は顔をもたげ、真っ直ぐに副審の部下を見つめて言った。
「勇伸。陛下の宸明殿や、後宮は、事件のあとどうなった?」
「え、あ、……最初に意識を失われる直前に陛下が命じられたため、今も封鎖されています」
「ならば、あの夜陛下が召し上がったものも、そのまま?」
「そのはずかと……」
気圧される勇伸に構わず、元祐はその答えに何度も頷く。そのまま彼は、満足に動かない身体を引きずるようにして檻の際に寄り、勇伸を手招きした。
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