十六.暗夜の灯火
割れるような頭痛につかの間の気絶から呼び戻され、元祐はのろのろと目を開けた。
湿った、暗い牢屋の中だ。頬に当たる麦藁は腐ってぬめり、周囲のあちこちから血臭や鼻を突く排泄物の臭いが漂ってくる。元祐の身長では、手足を縮めねば横たわることが出来ないほど、狭い牢だった。
外廷の端、重罪人を囚える獄に入れられたのは、何日前のことだっただろうか。昼夜を問わず続く尋問に、元祐の記憶は曖昧になっていた。
彼に掛けられた嫌疑は、皇帝暗殺未遂事件への関与。具体的には、主犯の藩妃に毒物を融通した罪だった。
もちろん、身に覚えなどまったくない。それは藩妃も同様だろう。元祐は身の潔白を訴え続けているが、宮中の元祐の職場から酒に混入されたものと同種の毒が見つかったとあって、聞き入れられるはずもなかった。先日、衣装の件で藩妃に相談を受けた際、その毒を渡したのだろうと決め付けられている。
(陛下は、ご無事だろうか……)
取り調べを行う官から、命に別状はなかったことは聞かされていた。だが、何が真実なのか、今の元祐に確かめる手立てはない。
最後に会った日の、途方に暮れたような主君の顔が脳裏に浮かび、元祐の胸は締め付けられた。本当は、今すぐ駆け出して無事を確認したい。何を置いても彼を守るべき自分が、何をやっているのか。
寝返りを打とうとし、元祐は全身を走る激痛に息を詰めた。取り調べという名の拷問は、まだまだ序盤である。殴る蹴る、杖で打たれるのは当たり前。溺死直前まで水桶に顔を押し込められ、気を失うまで逆さ吊りにされるところまでは経験済だ。このまま否認を続ければ、焼き鏝や爪剥ぎ、手指の切り落としに移行するはずだ。
微かに苦笑し、慎重に身体を動かして仰向けになった。僅かな換気口のみが開かれた牢獄は、押し潰されそうな漆黒の闇に覆われている。
しばらくぼんやりと宙を眺めていた元祐は、不意に視界の外でちらつく光に気付いた。尋問の再開かと身構えたところで、懐かしい声に名を呼ばれる。
「姜郎中……っ」
目線を動かした先に居たのは、表裏二つの組織で彼を支える部下、呉 勇伸だった。手にした蝋燭は震え、その中に浮かぶ顔は苦渋に歪んでいる。
(無事だったか――)
立場の弱さや、元祐との近しさから、彼もまた疑われているのではないかと危惧していたが、杞憂だったようだ。安堵に元祐が息を吐くと、勇伸は空いた左手で格子を掴み、こちらを覗き込んでくる。
「ひどい……、こんな」
呻くように呟いた勇伸に、元祐は力なく笑いかけた。
「どこも、欠けてない、から……、まだ、だい、じょうぶ」
ひび割れた声に、勇伸がくしゃりと顔を顰めた。彼は何かを振り払うように首を振り、冷静を装って口を開く。
「郎中との面会は厳禁とされています。牢番への賄賂は、朗月と桃鈴が用立てくれました。――手短に報告を」
「たの、む」
この牢には元祐以外誰も居ないことは、お互い確認済だろう。それでも勇伸は、声を潜め、端的に話を纏めた。
「陛下はご無事です。数日寝込まれていましたが、今朝から朝議にもお出になられています。――毒が仕掛けられたのは、夜伽の際にお召しになった酒です。ただし、毒味の際には検出されませんでした。その酒に混入していた毒と、藩妃の宮、郎中の執務机から見付かった毒は、同種のものです」
「そう、か……」
(勇伸が言うなら、本当に陛下はご無事なのだ。良かった…)
何よりの吉報に、元祐の全身から力が抜ける。病み上がりで早くも朝議に出るなど、主君の無謀には肝が縮む思いだが、この知らせだけで、今後厳しさを増す拷問にも耐えられる気がした。
けれど、腑抜けてはいられない。彼が屈すれば、藩妃も危機に陥る。譚宰相がどこまで踏み込んでくるのかは分からないが、勇伸や孝記たちにも危険が及ぶ可能性もあるのだ。
悲鳴を上げ、眠らせてくれと訴える身体に鞭打ち、元祐はそろそろと身を起こした。
「ゆ、しん。調べてくれ。――陛下の病状は、我々の居所、から見付かった毒と、一致していたのか。その毒、は、どんな種類で、どれほど、減っていたか。……賂に、まだ余裕があれば、藩妃の、話も。それから、」
「恐れながら、陛下の、その日の行動」
制するように勇伸が続けた言葉に、元祐は薄く微笑んだ。殴られ続け、口も目もパンパンに腫れ上がっていたため、その表情はなんともぎこちないものだっただろう。けれど、勇伸は安堵したように顔の強ばりをわずかに解き、力強く続けた。
「分かりました。……藩妃様のお話もとなれば、恐らくここに来られるのは、あと一度か二度が限度でしょう。他に調べるべきことはありますか?」
元祐は途切れそうになる意識を必死で繋ぎ止めつつ、思考を巡らせる。
もし、これが譚氏の仕組んだ罠だとすれば、智晶の周囲に手の者を忍ばせていたはずだ。智晶は慎重で、勘も鋭い。分かりやすい場所には、譚氏も侵入させることは難しかっただろう。
「陛下の、お傍で、人員の変更が、なかったか。――陛下も、意識されないよう、な、下級女官も含め、て」
真っ直ぐに勇伸を見上げ、元祐は命じた。
毒味の際には無害だった酒、それに藩妃以外の誰が毒を盛れたのか。今はまだ、方法が分からない。あるいは、本当に藩妃が――などと疑う気持ちも沸き起こったが、すべては勇伸の報告を聞いてからだ。
それに、知りたいことは、守りたいのは、何より。
「――陛下を、頼む」
員外郎である勇伸に、直接智晶を守護することはできないと分かっている。これは気持ちの、心意気の問題だ。
勇伸は何度か目を瞬かせ、やがて小さく笑って頷いた。
牢獄を去っていく、勇伸の力強い足音が遠くなる。元祐はずるずるとその場にくずおれ、意識を手放した。
次話も明日20時更新です!




