十四.艶黄色の衣装
吹き渡る風に思いがけない涼しさが混ざり始めた、晩夏の午後。藩 梨紗が自室で刺繍に勤しんでいると、血相を変えた侍女が駆け込んできた。
「――はっ、藩妃様! 大変です!」
「ドした?」
梨紗が驚いて侍女を見やると、彼女は膝に手を付きつつ汗を拭う。よほど急いで走って来たのだろう。梨紗が水差しを探し始めると、彼女は目を釣り上げてにじり寄ってきた。
「私のことは良いですから! 大変なのです、中秋節の宴に、皇后陛下が艶黄色の衣装をお召しになると……」
梨紗は思わず目を見開いて、手元に視線を落とす。今まさに彼女が刺繍を仕上げようとしているのが、艶黄の衣だった。
行事において、后妃たちは美しく装い、場に華を添える重要な役割を持つ。当然、衣装の色被りなど御法度で、事前に色や刺繍について打ち合わせをしている。この艶黄は譚皇后自ら、梨紗に指定をしたものだ。
『聞き間違えたかなぁ……』
思わず母国語で呟き、梨紗はこめかみを指で掻いた。
あの場にはこの侍女も同席していたので、可能性は低いように思うが、そんなことを考え始めても仕方がない。この危機をどう乗り切るかの方が問題だ。
((手持ちの衣装で、色の被らないものを探す……? いや、さすがに一度どこかの宴で着たものはまずい。かと言って今から仕立てる余裕も……))
母国語で目まぐるしく思考を巡らせる梨紗に、侍女はおろおろと問うた。
「ど、どうしましょう……。皇帝陛下に相談なさいますか?」
「だメだよ」
きっぱりと答え、梨紗は微笑む。
彼女の夫はただでさえ、日々様々な仕事を抱え、頭を悩ませている。配下に押し付けることを良しとせず、自らの目で見て自らの耳で聞き、自らの頭で考えることを重視する、誠実な人なのだ。
((――とはいえ、一人で解決するには荷が重い))
悩んだ末、梨紗はある決断を下した。
「元祐ドノに、相談してミよう」
侍女が驚いたように目を見開く。
異国人で、国内に後ろ盾を持たない梨紗にとって、頼れるのは公的な後見人となってくれた官僚以外に思い付かなかった。そのうちの一人、姜郎中は一見、雑用を押し付けられてばかりの人畜無害なお人好しだと思われている。だが梨紗は、彼に底知れなさと頭の回転の速さ、懐の深さを感じていた。
彼ならばあるいは、あっと驚く策を授けてくれるかも知れない。
胡乱さを隠さない侍女に、梨紗は片目をつむって笑ってみせた。
「ダイジョブ。キット、何とかなるヨ」
翌日、後宮の藩妃の客間に呼ばれた元祐は、思わず頭を抱えそうになった。
(皇后陛下……、わざとだな……)
不敬ではあるが、そう疑わざるを得ない。寵妃に恥をかかせるため、あるいは欠席を選択させるため、仕組んだのだろう。
藩妃は曇りのない眼差しで元祐を見ている。彼女付きの侍女は目の下に隈を作り、宦官はやる気なさげに視線を彷徨わせている。
元祐は溜め息を零し、考えを巡らせ始めた。
「皇后陛下が艶黄、その他の妃様方が辰砂、蕉紅、蝶粉、深緑、孔雀藍、龍胆紫……ですね?」
「ウン。下級妃の皆は、深煙で揃エルみたい」
藩妃は気丈に笑っているが、その目の奥には不安が見え隠れしている。元祐は安心させるように頷きかけ、おもむろに口を開いた。
「……青系統の染料を、急ぎ用意します。それで染めて、浅黄緑に見せましょう」
藩妃が驚いたように、目を瞬かせる。
「デキル?」
「あと五日ですか……。乾かしながら刺繍も同時並行すれば、何とか」
秋の行事に浅黄緑は季節外れかも知れないが、来年の豊作を願い、稲穂の色にしと言い抜ければ何とかなるだろう。元祐は「そうと決まれば」と早速立ち上がり、深々と頭を下げた。
宦官の耳打ちに、皇后・譚 雪婉はゆったりと唇の両端を釣り上げた。それを認めた対面のやや年嵩の女が、伺うように口を開く。
「……陛下?」
「上手くいったそうよ」
最上級品の箜篌に例えられる麗しい声を潜め、雪婉は囁いた。女――従兄の青澄の妻が、おずおずと笑みを返してくる。
伯父の敬徳の頼みを受け、雪婉はとある策を巡らせていた。間近に迫った中秋節で着る予定の衣を、急遽変更したのだ。
国の一大行事で、いち側妃が皇后と同じ色の衣を纏うなど、許されざる行いである。さすがの藩妃も、掴んだ情報に途方に暮れるはず。たとえ藩妃自身が気に留めなくとも、周囲がそれを止めるだろう。
そうなれば、短期間で新たな衣服を用意するため、藩妃は姜郎中を頼るだろうと踏んだのだ。
(姜 元祐……)
パッとしない中級官僚の名など、雪婉にはまるで興味がなかった。だが、伯父はその官僚の、宮中での不可解な行動を突き止めた。何より、彼は極秘で度々、皇帝のもとを訪れているらしい。伯父の情報網、そして手勢をもってしてもはっきりとしたことは掴めていないが、逆にそこまで徹底的に隠し通していることが不自然だった。
(……許さない)
完璧な淑女である雪婉を差し置いて、生意気にも寵を受ける目障りな側妃。その後見人がなぜ、夫にコソコソと呼ばれているのか。その事実そのものが、雪婉の矜恃を損ねた。あんな女が寵愛されているのも、もしかしたらその姜氏の力添えがあったのではないかと彼女は疑っている。何せ、姜家は名門だ。
伯父の遣いで宮中の雪婉を訪ねて来ていた従兄嫁に、雪婉は目を細めて笑う。
「伯父様に伝えて。首尾は上々、下地は整ったと」
「承知しました」
へりくだったように頭を下げる女を一段高い座から見下ろしたのち、雪婉は目線を側妃の宮のある方へ向けた。
皇帝の伽の相手は、夕餉の刻の前、皇帝が選ぶ籤によって決定される。籤といっても無作為なものではなく、皇帝の意思で相手を選出するのだ。
今宵の相手の名が記された籤は、そのまますぐに、皇后の元へと運ばれて来る。正妻である皇后以外が相手を務める場合、形式的に彼女の許可を必要とするためだった。
何度、「藩 梨紗」の名の籤を見つめ、煮えくり返る怒りを鎮めてきたことだろう。当てつけのように頻繁に届けられる籤を、燃やし尽くしてしまおうかと思うこともしばしばだった。
(許さない)
再び胸中でそう呟き、雪婉は手中に収めたそれを握り締めた。
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