十三.開く罠口
「姜郎中」
硬い声音に名を呼ばれ、元祐はふと立ち止まった。
視線の先に物言いたげな表情の張 孝記を見付け、元祐はそっと隣に目配せを送った。資料を抱えて隣を歩いていた部下の勇伸が、孝記に目礼して先を行く。
「張殿。……いかがされました?」
柔らかく尋ねた元祐を促し、孝記は人気のない木陰に彼を誘った。耳目のないことを確認し、彼は浮かない顔でポツリと呟く。
「夏の初めに、貴殿が収入面の調査を依頼してきた官僚たち。……此度の陛下のご聖断で、摘発されていたな」
元祐は無言で彼を見つめた。
孝記には、智晶の組織のことも、元祐の立場も伝えていない。深入りさせることを躊躇い、けれど一方的に、その厚意を利用してきたのだ。
(これまでは、情報を集めるだけだと言い訳をしてきた。だが、こうなってしまっては……)
神妙な面持ちで元祐が口を開きかけると、孝記は慌てたように右手を掲げた。
「何か事情があるのだろうとは、初めから察している。貴殿が私のためを思って、何も言わないのであろうことも。ならば、それで良い」
「張殿……」
驚いて目を瞠る元祐に、孝記はぎこちなく笑った。
「言いたかったのはただ、危ない真似はするなということだ。私に出来ることがあれば、いつでも声を掛けてくれればいい」
それはあまりに懐の深い言葉で、元祐は言葉を失ってしまった。
かつて元祐は、自分が関わった宴の歳出に関する資料に違和感を覚え、処理担当だった孝記に声を掛けた。彼の仕事ぶりから、それが意図的な不正ではなく、純粋に計算を間違えてのことだと確信したためだ。けれどそんな些細なことを恩に着て、孝記はことあるごとに元祐を助けてくれている。
黙り込んでしまった元祐に、孝記は微かに頬を赤らめて言い募った。
「べ、別に、貴殿を案じている訳ではないぞ! つまりだな……、そうだ、面倒に巻き込んでくれるなと言いたいのだ。そして恩は返さねばならない。そうだろう!?」
(分かりやすいなあ……)
こちらが何も言っていないのに、次々に言葉を連ねる友人――そう呼べば彼には怒られるだろうが――に、元祐は思わず笑ってしまう。「何を笑っている!?」といきり立つ孝記を押さえ、元祐は深々と頭を下げた。
「ありがとう、張殿。何かあればまた、力を貸してください」
「……ふん」
孝記はそっぽを向き、小さく鼻を鳴らした。
礼部の執務室に戻った元祐は、何気ない様子で自分の席に着いた。隣の席で書類に目を通していた勇伸が、目線だけを元祐に向ける。
「……何か問題でも?」
「大丈夫」
元祐は微笑して答え、勇伸が置いたのだろう書類の山の頂上に指先を伸ばした。
彼らの所属する礼部司は、宮廷儀礼や教育に関与する、いわゆる花形部署のひとつだ。また、本来であれば各司の郎中は原則一名である。ただし、ここ数代で官位がばら撒かれた経緯もあり、今では各司に二、三名いることも珍しくなくなった。元祐は恩蔭により官職を得たため、他の二人の格下、ただの雑用係と認識されている。
配下も員外郎の勇伸以外には、主事や令史が数名のみ。華やかな儀礼は全て他の二人の管轄で、小さな宴や忘れられた儀式以外には、ひたすら書類を整理する日々。
似たような状況で腐る者も多い中、元祐は熱心に書類の山を確認し始めた。
(……あれ)
ふと元祐は筆を止め、その書類に見入る。
元祐たちが担当するのは、三日後に行われる「秋社」の一部だ。
秋社とは、土地神に秋の収穫を感謝する、重要な儀礼である。官民共に秋の収穫を神に感謝し、宮中では祭壇を前に厳かな儀式を行う。その後、皇帝陛下の名のもとに、儀式に参加した官を招いた小規模な宴が催されるのが、ここ数代の習わしだった。元祐たちは、その小宴の準備を担当している……のだが。
確認のため回ってきた書類に記された、供される予定の飲食物の量が、当初より多くなっている気がする。
(何かの間違いか?)
元祐は手元に残してあった反故紙の束を漁る。指示された宴の規模から、計算をしたのは元祐だった。上官にも、この試算に基づいた結果で申請をしたはずだ。
しばらく二つの書類を見比べた後、元祐はそっと反故紙を懐にしまった。気付いた勇伸が、訝しむように目線を向ける。元祐は肩を竦めつつ、ごく小さな声で囁いた。
「少し気になる内容があった。対策を相談してくる。……並行して、誰の仕業か調査を」
勇伸もすっかり心得た様子で、目を合わせないまま頷き返す。
「分かりました。調査は誰に?」
「君に任せるよ、勇伸」
ごく自然にそう答えた元祐に、勇伸は隠しきれない喜びを滲ませて答えた。
「……お任せください」
(勇伸ではない。数字は何度も確認して、私が清書して上官に提出した。……ならば、上官が?)
元祐は目を細め、賑やかな職場を見渡す。実りの季節を間近に控えた今から年始まで、宮中儀礼が目白押しだ。普段は出仕時間すら誤魔化す上官たちも、さすがに皆、自席で慌ただしそうにしている。
この中の誰かが、不正を働こうとしているのかも知れない。
疑いの目で、元祐はそっとそんな彼らを見つめた。
「――確認の動きがあったのは、礼部のみか?」
緊張の面差しで報告をしに来た部下を見下ろし、宰相・譚 敬徳は片目を眇めた。
こそこそと宮中を嗅ぎ回る鼠がいるかもしれない。そう思い至った敬徳は、その鼠を炙り出すため、謹慎を始めてすぐに外廷の各所に罠を仕掛けた。偽造した決裁書類を紛れ込ませ、反応を待ったのだ。
林が捕縛されたのが、夏の盛り。思った以上に早く出た結果に、敬徳は満足気に頷いた。
ちなみにここは、宮中の宰相の執務室である。そろそろほとぼりが冷めた頃だろうと、彼は本日から出仕を再開していた。生意気な若造に頭を下げさせられ、不快を訴えていた心が、吉報にわずかに落ち着きを取り戻す。
「動いたのは、郎中・姜 元祐……。ああ、確か先代の妾の息子か」
敬徳は顎に手を当て、ひとりごちる。さすがに、宮中に数多いる官僚全員の来歴を覚えているはずもないが、十年ほど前、朝堂を賑わせた醜聞には覚えがあった。それに、そうだ、後宮の目障りなあの異国女の世話役でもあったはずだ。
身を小さくして立ち尽くしたままの部下を一顧だにせず、敬徳は続けた。
「調べておけ。気取られたら……分かっているな?」
敬徳の視界の外で、部下は震え上がりながら何度も頷いていた。
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