十一.確かな物証
枢密院会計係の田氏は重い溜め息を吐いた。
上官に媚びを売り、面倒な仕事も汚い仕事も積極的に引き受け、昨年ようやく掴んだ会計係の職。まさか上官からこのような不正を命じられるとは思ってもおらず、露見の恐怖に震えたものの――金の魅力には逆らえなかった。
今回もいつも通り、質と量を偽った納入指示書を作成し、劣悪な硫黄と差額分の金を受け取るはずだった。だが、今回に限っては随分と時間が掛かり、田氏は肝を冷やす毎日を送っていた。
亮は今泰平を謳歌しているが、それでも辺境地での異民族との小競り合いは絶えない。書類上は存分に備えてあるはずの火薬を用いた武器は、実態は遥かに少ない。贅沢に慣れた上官たちからも、度々上納金をせっつかれていた。
(ようやく納入された……)
約定日からひと月ほど遅れ、ようやく受け取った金を、田氏は即座に上官たちに届けに走った。
手元に残った自身の取り分を手に、田氏はいそいそと高級妓楼・紅梅楼に足を向けた。
「……お久しぶりですわね、田様」
ちくりと棘を刺すように笑う天女のような女――看板女郎の華蓮に、田氏は鼻の下を伸ばす。
不正に手を染めた当初、実入りはもっと多く、頻繁に登楼しては彼女を指名していたものだ。今では上官たちに取り上げられる額も増え、普段の生活を切り詰めてようやく、ひと月に一度茶を共にするのが精一杯だった。
中流貴族の次男坊に過ぎず、幼い頃から太っており見目も冴えない田氏は、四十を越えてもなお独身だ。女の柔肌を知ったのも、これが初めてのこと。
(だが今はもう、その甘露を味わうことも出来ない……)
わずかばかりの逢瀬ののち、田氏は揚代を清算し、すごすごと紅梅楼を去った。
田氏は辿り着いた古びた自宅でひとり、安酒を浴びるように飲み始めた。
「ったく、やってられるかってんだ……」
上官への愚痴を延々と零しながら、彼は杯を重ねた。田氏に直接命令を下しているのは副都承旨だが、黒幕は彼が直接口をきくことも出来ない高官だと聞いている。
「高給取りのくせに、業突張りがよぉ……」
侘しい深酒の末、やがて田氏は泥のような眠りに落ちた。
年老いた侍女が、呆れた眼差しで彼に衾を掛ける。彼女は冷ややかに主を見下ろし、部屋を出ていった。
月はいつの間にか中天を極めており、蒸し暑く不快な盛夏の夜が更けていく。粘り着くような湿度の高い夜風が、暗闇を吹き抜けた。
耳障りな大音量の鼾をかきながら寝返りを打った田氏は、自身の枕元にひっそりと忍び寄った影に気付かなかった。
(身体が痛い……)
総身が強ばった痛みを訴え、田氏は目を覚ました。しばらく虚ろに目線を巡らせ、――やがてのそりと身を起こす。
(どこだ、ここは……)
見慣れた自宅の風景ではなかった。天井らしき場所に開けられた穴から月光が差し込み、湿った硬い地面、圧迫感のある高い壁を映し出している。窓はなく、饐えた臭いと息苦しいような蒸し暑さに支配された部屋だった。
怯えた様子で周囲を見回す田氏は、やがて暗がりから浮かび上がるように現れた二つの影に息を飲んだ。
「ひぃ……ッ」
漆黒の衣服に身を包み、同色の布らしきもので顔を覆った、背の高い二人組の男だった。そのうち、体格の良い方が田氏に音もなく忍び寄り、背後から彼の首筋に何かを突き付ける。咄嗟に逃れようとした田氏は、その時ようやく、自分の全身が拘束されていることに気が付いた。
混乱に喘ぐ田氏に、もう一人の細身の男が布越しのくぐもった声で問うた。
「枢密院会計係の田殿ですね。――調べはついています。国を、陛下を謀り私腹を肥やしたこと、洗いざらい話していただきますよ」
(まさか、御史台――!?)
田氏は顔を引き攣らせる。
どういうことだ。この不正の最上流にいる林簽書枢密院事の伝手で、御史台はこの件を見逃すはずだ。彼らがこちらを見捨てたのか。
恐慌状態に陥った田氏は、だが必死の形相で声を上げた。
「なっ、なんの話だ! 私は……ひっ」
刃先がだぶついた首元を掠め、田氏はみっともない悲鳴を漏らす。微かに走った熱と痛みに、生理的な涙が浮かんだ。
そんな彼を見下ろし、優男の雰囲気の男が苦笑気味に、屈強な方の男を制する。そのまま彼は、背で指を組んでゆっくりと狭い部屋を歩き回り始めた。
「貴方たちは表向きの納入指示書で許可を取り、その実、劣悪な質の硫黄を指示書よりも少ない量で仕入れていた。その差額の一部は商人に渡し、大部分は自身の享楽に費やした。……何か間違っていますか?」
あまりに正確な罪の告発に、田氏は泣きそうになる。だが、ここで認めては、何をされるか分からない。彼は頑迷に首を横に振った。背後の男が刃先を見せびらかすように、短刀をちらつかせる。竦み上がりながらも、田氏は叫んだ。
「出鱈目を申すな! そんな証拠がどこに……!」
だが、そんな抵抗もお見通しだったのだろう。全身を黒衣に隠した細身の男が、わずかに覗く目元を細める。
「今日、待ちに待った硫黄と、裏金の納入がありましたね? 貴方たちは喜び勇んで、馴染みの店でその金を使った。随分派手に遊んでおられるようだ」
「あれは……っ、あれは私が働いて得た金だ! 言いがかりを……」
「駄目ですよ」
いっそ優しげに遮り、男が微笑む気配を見せた。彼は長身を折り曲げ、睦言のように甘い声で囁く。
「あれは、我々が用意し商人に持たせた、偽造貨幣です。その特徴は全て書面に記し、事前に然るべき方にお預けしている。……貴方がたがその偽造貨幣で支払いをしたことを、店の者が証言しています。言い逃れは出来ませんよ」
頭を殴られたような衝撃に、田氏は言葉を失った。
(ああ、だから今回は、こんなに待たされたのか――)
商人が寝返ったのだ。目の前の彼らの指示で納入を引き伸ばし、田氏たちがこれまでの不正で得た金を使い果たすのを待った。身の丈を越えた豪遊のため、手にしたその偽造貨幣にすぐに手を着けさせるために。
田氏は絶望と共に悟る。こうも明白な物証を出されては、逃れられない。
すっかり大人しくなった彼に、優男は柔らかな声で続けた。温和な雰囲気を纏い、けれど暗闇に浮かぶ双眸には冷えた光を湛えて。
「早く、話してしまいなさい。主犯より従犯である方が、まだ受ける処罰は軽いでしょう」
この男は恐らく、この不正の最上流にいる、かの方のことも知っているのだろう。
抵抗することも虚しくなり、田氏はがっくりと項垂れた。
大人しく罪を認めた田氏の身柄を御史台に預け、元祐と勇伸は白み始めた空の下をひっそりと歩いていた。
夜が明ければいつも通り、雑多な仕事が待っている。二人ともほとんど徹夜だったが、ことを成し遂げた達成感に疲れも感じていない。身支度を整えに元祐の四合院に戻り、取ってかえって出仕する予定だ。
周囲を慎重に警戒しつつ、勇伸が抑えた声を弾ませた。
「……やりましたね」
拘束された田氏や彼の直属の上司の証言から、林氏の自宅にも調査の手が伸びた。庭の地中から件の偽造貨幣が見付かったと報告を受け、彼らはほっと息を吐いた。
林家は譚家に繋がる名家だが、当主の将威は所詮入り婿。自由になる金も少なく、今回の不正を命じたのだろう。身分を笠に着て横柄な態度を取る彼に不満を抱いていた者も多く、御史台の一部が造反したのもそのためだった。
今回の件は表向き、その御史台と、彼らを先導した高翰林学士承旨の手柄となる。元祐たちは何も知らない顔で、宮中に走る衝撃に目を丸くしなければならない。
肩を竦め、元祐は小さく笑みを浮かべた。
「陛下のお力になれて良かった。……何か、こっそり褒賞をいただけるかも知れないね」
元祐自身は何も望まないが、勇伸たちが何らかの形で報われてくれれば嬉しい。そう零した元祐に、勇伸はニヤリと笑い返した。
「――それ、偽造貨幣じゃないですよね?」
元祐は思わず噴き出し、頼り甲斐のある部下の背中を軽く叩いた。
次話より第三章です。書き上がり次第アップします!




