九.守るべきもの
翌日、休憩時間に人気のない建物の陰で勇伸から報告を受け、元祐は深く頷いた。
「なるほど……。うん、良くやってくれたね。さすがだよ、勇伸」
衒いのない言葉に、勇伸は顔を顰めてそっぽを向く。恵まれた体格の、年上の青年の存外可愛らしい反応に、元祐は思わず笑みを浮かべた。こういうところが憎めないのだ。
勇伸は無表情を装って視線を戻し、低い声で元祐に尋ねた。
「で、どうします? 汚職疑惑官僚と、譚の息子が繋がっていたわけですが」
「うーん。……正直、それだけでは弱いよね」
元祐ははっきりと言い切るが、勇伸も同意なのだろう、深く溜め息を吐いた。
今、無理に譚 青澄まで攻め上がったところで、「そのような疑惑のある人物だと知らなかった」と言い抜けられて終わりだろう。物証がなくては話にならないのだ。
元祐は顎に手を当て、小さく呟いた。
「会計係の方は、硫黄の仕入台帳と実物の突合で仕留められる。闘蟋でこしらえた長年の借財を一瞬で清算している不自然さ、紅梅楼での振る舞いも加われば、言い逃れは難しい。……彼の上官たちはどう?」
「金遣いは荒くなってますね、間違いなく。胡蝶座や他の人気一座を招いての豪勢な宴、高級茶房の貸し切りなど、派手な遊びが目立ちます。――ただ、昨晩のように、そこに譚 青澄が同席していたとなれば……」
「譚家の財力のお陰です、で逃げられるか……」
元祐の言葉に、勇伸が再び重い溜め息を零した。
「いっそ紛れ込みます? 俺。変装して」
「それは駄目だ」
間髪入れず元祐は返し、真剣な目で勇伸を見詰めた。
「下手をすれば、こちらが告発されて終わる。君をそんな危険に晒せない」
「……冗談ですよ」
勇伸は何とも言い難い表情で応じる。そんな彼に淡く微笑んでみせ、元祐は目を細めて考え込み始めた。
すでに、今回の疑惑に関与していると思しき面々の表向きの収入は、戸部の張 孝記を通じて確認済だ。その額面は彼らの散財を支えるには程遠く、何らかの不正に手を染めていることは明らかだった。軍部の石 清岳も、疑惑の片棒を担ぐ業者の特定を終えている。
(何か一つ、決定的な物証があれば……)
元祐は宙を睨み、腕を組んで考えを巡らせ始めた。
亮国の成立と共に流通し始めた貨幣は、もうすっかり国全体に浸透した。それらは全て同じ見目形をしていて、どこから流れて来たものか、明言する術がない。
(……かたち?)
元祐はふと瞬きをする。そのまま身動きしなくなった上官に、勇伸が訝しげに声を掛けた。
「姜郎中?」
「――勇伸。会計係は妓楼遊び、彼の上官は芝居狂いに美食三昧。林氏は何だっけ?」
唐突に飛んだ話に、勇伸はひたすら目を白黒させている。そんな部下を見遣り、元祐はにっこりと微笑んで言った。
「泡銭とはよく言ったものだよね。たくさん掴ませて、文字通り、泡みたいに消してしまおうか。……こっちにも大きな後ろ盾があるんだし」
「はあ? ちょっとあんた、何を……」
勇伸は何かを予感したのか、顔色を真っ青にした。元祐は構わずにこにこと算段を巡らせる。
(くだらない情を挟むな、と言われたんだ。ならば、思い切った策をとっても怒られないはず。いや、時には攻めることも必要だ)
進まぬ調査、複数の案件、智晶の詰問。思っていた以上に、とるべき行動に迷っていたのだろう。一度全てを失ったから、この手に抱えるものに対して慎重になり過ぎていた。
守るべきものは変わらない。だからこそ、時には思い切った行動も必要だ。あのやり取りはきっと、保身に走りかけていた自分に対しての叱咤激励だったのだ。
そう確信し、元祐はくっと拳を握り締めた。
ふと背筋に走った悪寒に、皇帝・汪 智晶は思わず息を詰めて顔を上げた。
「陛下?」
首を傾げたのは、物心つく前からの付き合いの教育係、高 修遠だ。
暑くもなく寒くもない、穏やかな初夏の昼下がり。珍しく静かな宸明殿の私室で、心許せる側近と二人、山積みの奏上書の対応について議論していた頃である。時に畏怖すら集める美貌を歪め、智晶は小声で呟いた。
「嫌な予感がする。……元祐のやつ、また何かしでかそうとしていないだろうな」
心底嫌そうな顔でそう独りごちる主君に、修遠は不思議そうに返す。
「姜郎中が、ですか? 長い付き合いではありますが、失礼ながらあれは、ただの凡庸な好青年かと……。それはまあ確かに、優秀ではあるでしょうが」
「……誰も彼も、あいつの見目に騙され過ぎだ」
頭を振り、智晶はついと視線を南方――外廷の方に向けた。そこでは今日も、元祐が数多の官僚たちに混じって働いているはずだ。身分を偽り、上官に押し付けられた雑務に追われつつ、「皇帝陛下の隠密組織の長」というとんでもない秘密を隠しながら――
「凡庸? 冗談だろう。何不自由なく育った士大夫の息子が突如、何もかも失って路上に放り出され、そこで五年も生きていけると思うか? 現にあいつの両親や弟妹は、あっさり野垂れ死んでいるんだぞ」
「それは……」
目を瞠る修遠に、智晶は畳み掛けるように言った。
「確かに、あの頃はまだ、立ち振る舞いにも下手さはあったのだろう。くだらない嫉妬や悪意を跳ね返せず、飢え死にしかけた。――だが、あいつは無害な顔をして、とんでもなく肝の座った化け物だ。でなければ俺のこの執着を、あんなにあっさりと受け入れられるものか」
「陛下……」
気圧されたように息を飲み、修遠はじっと年若い主君の顔に見入った。
「……ご自身が『重い』という自覚はあられたのですね」
「殴るぞ」
気心の知れた教師役は、まったくもって容赦がない。額に青筋を立てつつ呟いた智晶を揶揄うように笑い、修遠は皺だらけの手を自身の顎に添えた。
「しかし、成る程。陛下が私をあの者の目付け役に置いたのは、裏切らぬか見張らせるためだと思っておりましたが……。陛下が心配なさっていたのは、姜郎中が無茶をしでかさないかという点でしたか」
「……別に、あいつを完全に信用しているわけじゃない」
自分でも説得力のない強がりだと分かっていたが、智晶はそう言い募らずにはいられなかった。実の父よりも長く時間を共にしてきた男は、したり顔でこちらを見下ろしてくる。癪に障ることこの上なく、智晶は顔を顰めた。
「――あいつは一度、全てを失った。だからこそ次がないよう、懐に入れた者を全力で守ろうとする。俺の命令を果たすためなら、周囲の度肝を抜くことも平然とやらかすはずだ。……くれぐれも、こちらに火の粉が飛んでこないよう、上手くやれ」
「それはつまり……、いえ何でも」
飄々と肩を竦める相手が、心底憎たらしい。盛大に舌打ちをしたのち、智晶はふと俯いて零した。
「――もっと俺に力があれば、面従腹背の輩など、根こそぎ排除してしまえるのだがな」
自分の無力さが歯痒い。祖父や父の治世に疑問を持ち、理想を唱えところで、どっぷり首まで特権に浸かった者たちを翻意させることは出来なかった。強引に改革を進めることも考えたが、智晶には鞭を振り上げる力もない。
それでも、諦めるつもりはなかった。
能力と志を持った者たちが相応しい地位に就き、その力を発揮出来る世界を。汗水垂らして働いた民たちが、正しく報われる世界を。誰もが皆、当たり前に「明日」を夢見ることが出来る世界を――。どれほど青いと言われようと、打ちのめされようと、その願いを捨て去ることは出来ない。
智晶は、知ってしまった。蔡 淳という男を、彼が見た地獄を。
修遠は何も答えない。下手な慰めを口にする男ではないし、智晶もそんなことを望んでいるのではないと、よく分かっているから。
弱音を吐くのは今限り。智晶は再び小さく首を振り、気持ちを切り替えるように告げた。
「……無駄口を叩き過ぎた。さっさとこの山を片付けるぞ」
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