クワイエット・アーケード - 7
空気が重たい、という表現があるが、あれは言い得て妙だ、と栞は改めて思った。
これまでは『欠伸を噛み殺す』が一番日常的表現で上手いと思っていたが、これからは『空気が重たい』にその地位を譲っても良い。
〈巫女猫〉が奈落に落ちて見えなくなってから、誰も、一言も発しなかった。
彼女が開いてくれた扉の先は廊下のようになっていて、次のエリアへの繋ぎだと思われた。
壁には何かのポスターらしいものが貼られていて、やはりろくな光源もないのにそれを見ることができた。エナジードリンクや、最新のゲーム機器の広告だった。なるほど、このゲームにもスポンサーがいるということなのだろう。
何事もなければ、そのポスターについて、適当な話題を振っても良かった。あっ、このエナドリ、飲んだことあります。でも私、カフェインに弱くって夜眠れなくなっちゃうから云々、などなど、などなど。しかしそんなスモールトークをするような空気ではまったくない。空気が重たい。比喩ではなく重たい。そのせいで足取りまで重たかった。
「──逆効果じゃない? こんな広告」と、栞のすぐ後ろを歩いていた〈ルカ〉が、独り言のようにぽつりと言った。「外に出てこのエナドリを見たら、ここでのことを思い出しちゃいそう」
「確かに」と、敢えて笑って栞は言った。「私、コンビニでバイトしてて。だから、ちょっと嫌になっちゃうかも」
「へぇ、そうなんだ。バイトってことは、学生さん?」
「あ、はい。そうです」
「どうしてアルバイトしてるの?」
「え、うーん……特に理由はないですけど……。何となく、ですかね」
「そうなんだ。もしかして、このゲームに参加している理由と関係ある? 例えば、お金に困ってるとか?」
ない、と反射的には思った。
しかし俯瞰して考えてみると、まったく関係がないわけでもないかもしれない。
それはそうだ。私は、私というひとりの人間なのだ。
だから、そのひとりの人間がする行動が何らかの形で繋がっていたとしても、不思議ではない。繋がっていなくても、不思議ではないが。
「分かりません。でも、関係あるかも」と、栞は言った。そう言った瞬間には、まだ考えはまとまっていなかった。
「どんな風に?」
「……私、このゲームに参加している理由は、別に社会的スコアのためとかじゃないんです」
栞は、他の人には聞こえないよう声を潜めてそう言った。
自分でもその動機が好ましいものだとは思ってなかったからだ。
「じゃあ、何のため?」
「──スリルです」と、まるで罪の告白をするように栞は言った。
「スリル?」
「……私、一応、学校では優等生みたいな感じで。言われたことをやるのは得意だし、要領も多分良い方なんですけど、刺激が欲しくて。アルバイト、本当は学校で禁止されてるんです。でも、禁止されているから、やりたくてやってます。今、それに気付きました」
「不良じゃん」と、茶化すように〈ルカ〉が言った。その軽さは、栞にはありがたかった。
「まぁ……。でも、分かってるんです。真面目に、悪いことなんてしない方が良いということも。もちろん犯罪をしたいとも思いません。ただ──一度、うちのコンビニで万引きした学生がいて、店長が話を聞いてたんですけど、そのとき、その人、『魔が差した』とか、『ドキドキしたかった』とか言ってて。店長は凄く怒ってたんですけど、私はその人の気持ち、分かるような気がしました」
「だから、このゲームに参加しているんだね」
「はい。スリルを味わいたくて、参加してます、私」
嘘はない。すべて本当のことだ。
柴宇良栞は、優しい両親のもとに生まれ、愛されて育った。運動はそこそこだが、勉強はできる方だ。人からも好かれる。友だちも多い。告白されたことだってある──どうして良いか分からず、全部断ったが。
もちろん、人並みの悩みなどはあったが、それでも不自由なく生きてきた。これからも不自由なく生きていくだろう。
だがしかし、だからこそ、彼女は、刺激が欲しかった。
分かってはいる。莫迦げた話だ。真面目にやるのが良いに決まっている。こんなゲームに参加するのは不要なリスクだし、悪魔が囁くのも自分の若さゆえだと、一時的な気の迷いだと、俯瞰はできている。
だから、今回で最後にしようと、いつもゲーム中に考える。今度こそ止めよう、命がいくつあっても足りない──と、いつも思う。ゲームが終わって現実に戻ったときには、生きた心地がする。
そして、その生きた心地を味わうために、また彼女は死地へ身を投じる。
それをもう、四度も繰り返し、これが五回目だった。
彼女の社会保障スコアは、既に飛躍的に高まっている。もちろん、学生という立場があるから、そことの整合性は取られている。だが今の彼女なら、書類審査だけでどんな大学にもいけるくらいだった。そこから先の就職だって、ほぼ顔パスのようなものだ。
だが、それは彼女がゲームに参加していなくても手に入れられた可能性のある未来でもあった。元々自分は優秀なのだから、社会保障スコアは、黙っていてもそれなりの数値になるだろう。
なのに自分は、自分のスリルのためだけにゲームに参加し、勝っている。
つまり自分のスリルのために、一縷の望みを掛けてこのゲームに参加している人たちを何人も負けさせてきた。
自分のスリルのために、他人の人生を奪ったのだ。
「──軽蔑、するでしょう?」と、胸の内で心底自分を侮蔑しながら、栞は言った。
「僕は別に軽蔑しないよ」と〈ルカ〉は言った。「ここに限らず、どこでも同じことだよ。人生のあらゆるステージで、座れる椅子は有限だ。きみはこのステージで戦い、自分の椅子を手に入れているだけだ。その結果と心中の動機は関係がないよ。例えばきみは、受験で自分が受かったからって、誰かが自分のせいで落ちたと思うかい?」
「──考えないわけじゃ、ないですけど」
「そうか。きみはそういう人なんだね」と、ルカはまた笑った。「優しい人だ。でも、自分の能力を過信しているようでもある。他人の人生なんて、きみひとりの力でどうにかなるようなものじゃないよ。色んなものが複雑に絡み合ってさ、仮にきみが最後の引き金を引いたんだとしてもさ、やっぱりそれは、きみだけのせいじゃない。それを自分のせいだと思うのは、傲慢だと僕は思うな」
優しいことを傲慢だと言われた経験は、栞にはなかった。
だがその言葉は、優しいことが無条件に善ではないという視点を彼女に与えた。
ここを出たら、もっと自由に生きられる気がした。
「出るぞ」と声がした。〈ベリアル〉の声だった。
廊下を抜けて、次のエリアに着いたのだ。




