番外編3ːファインダーの向こうの笑顔に捧ぐ、凪のプロポーズ
写真展の最終日が幕を閉じてから、早いもので数日が経とうとしていた。
「……終わってみると、なんだかあの喧騒が嘘みたいに思えるね」
四月の少し気怠い午後の光が差し込む自室のアトリエで、凪は愛用の機械式フィルムカメラを丁寧にメンテナンスしながら、ぽつりと呟いた。
写真展の期間中、凪の作品の前では、無数の視線とひそひそ話が交わされていた。高校の昇降口で初めてマスクを外したあの朝に浴びた、背中に突き刺さるような好奇の視線。それが形を変えて再び押し寄せてきたようでもあった。けれど、凪の心には、かつてのような恐怖や逃避の念は微塵もなかった。
なぜなら、展示の初日、誰よりも先にその作品の前に立ち、完璧な噛み合わせを手に入れた美しい笑顔を咲かせてくれた葉月がいたからだ。彼女は、自分の不器用な口元や傷跡が剥き出しになった写真たちを見つめ、クリアな、どこからも空気の漏れない美しい声で言ったのだ。
『私の全部を、こんなに綺麗に世界へ連れ出してくれてありがとう、凪』
その言葉が、凪の胸の奥にある「人中の瘢痕」のあたりを、今も少しくすぐったく、そして熱く震わせている。
それぞれの道を歩んだ四年間は、お互いの固有のノイズをより深く理解し、愛おしむために必要な、かけがえのない歳月だった。
凪はカメラのレンズキャップをカチリとはめ、アウターの深いポケットに手を滑らせた。
指先が、小さなベロア調のケースの角に触れる。数ヶ月前から、何度も触れてはその形を確かめてきた、シンプルなプラチナの指輪。
写真展という、自分たちの「これまで」を総括する一大イベントが終わった今、凪の心には一つの確固たる決意が満ち満ちていた。
あの日、旧校舎の写真部室で、コンビニの季節外れのアイスを分け合いながら交わした「最初の遠征約束」。
一年に一度、四月のこの季節に、世界のノイズから離れて静かな山へと向かう特別な年中行事。二十二歳になった今年の春、二人が目指すべき場所は、もう決まっていた。
凪は、自分の少し鼻にかかった固有の声で、スマートフォンの画面に向けて短くメッセージを送った。
『葉月、明日の朝、いつもの駅で待ってる。あの山に行こう』
翌朝、麓の駅に集まった二人の頭上には、昨日までの雨雲を綺麗に吹き飛ばした、抜けるような青空が広がっていた。
先頭を歩く葉月の足取りは、高校生の頃とは比べものにならないほど力強く、しなやかだった。肩のラインで綺麗に切り揃えられた黒髪のボブカットが、山の斜面を吹き抜ける風にさらさらと揺れている。
標高を上げるにつれ、湿った土の匂いや、都市の排気ガスの名残は完全に消え去り、代わりに地表を包むのは、肌を心地よく刺激する凛とした冷たい空気だった。息を吸い込むたびに、気管の奥がツンと冷やされる感覚が、現実の肉体の存在を強く主張してくる。
開けた尾根に出たところで、葉月がピタリと足を止め、振り返って微笑んだ。
「凪、大丈夫? カメラ、結構重いでしょう。私の荷物、少し持とうか?」
その声は、山を渡る風の音に負けないくらい真っ直ぐに凪の鼓膜へと届いた。
凪は肩から下げたカメラを右手で支えながら、少しだけ鼻にかかった固有の声で答えた。
「うん、全然平気だよ。葉月の方こそ、息は切れてない? 写真展が終わってから、あんまり体力を動かす機会がなかったから心配だったんだけど」
「ふふ、私を甘く見ないで。大学の通学で、毎日あの長い坂道を歩いていたんだから、これくらい平気だよ」
葉月は嬉しそうに胸を張った。
その拍子に、彼女の右の唇の端から走る、一本の繊細な白い糸のような手術の縫合線の跡が、山の強い木漏れ日に照らされて鮮やかに浮かび上がった。
大手術から何年も経ち、日常生活において口元の麻痺を意識することはほとんどなくなっている。それでも、こうして冷たい山の空気を胸いっぱいに吸い込むとき、彼女は時折、自らの原点を確かめるように、愛おしい傷跡に指先でそっと触れるのだった。
そんな葉月の仕草を見つめながら、凪は胸の奥で温めていた言葉の輪郭を、さらに強固なものへと尖らせていった。
街の中にいると、どれだけ前を向いて歩こうとしても、完璧さというルールを求めてくる世界のノイズや、他人の無遠慮な視線がどうしても耳に入ってしまう。けれど、この静かな山の中には、彼らを縛るルールは何一つ存在しない。
「……街の中にいるとね、写真展の後の色んな人の言葉が、少しだけ頭の中でぐるぐるしちゃうことがあったの」
葉月は再び前を向き、一歩一歩、険しくなる岩場を踏みしめながら静かに言葉を紡いだ。
「私の顔を見て『大変だったね』って言う人や、『綺麗になってよかったね』って言う人。みんな悪気はないって分かってる」
彼女の声は、どこまでもクリアで、澄み切っていた。
「言葉なんかなくてもいいって思えるくらい、圧倒的に綺麗な場所で、凪と二人だけの時間を過ごしたかった。だから、今日この山に誘ってくれて、本当に嬉しかったんだ」
「……葉月」
凪は、彼女の背中を見つめながら、深く深呼吸をした。冷たい空気が鼻の下の瘢痕を少しだけ引っ張る。その生々しい感覚が、今の自分に激しい歓喜と、退かない覚悟を与えていた。
「行こう、葉月。最後の岩場だ」
二人は手を伸ばし合い、剥き出しの岩肌を掴んで身体を引き上げた。お互いの息遣いだけが、冷たい空気の中で白い霧となって混ざり合い、消えていく。言葉のいらない特等席は、もうすぐ目の前だった。
最後の岩場を登り詰めた瞬間、視界を遮っていたすべてのものが消え去り、遮るもののない圧倒的な青空が二人を包み込んだ。
「わあ……!」
葉月が短い歓声を上げ、山頂の展望台の柵へとまっすぐに駆け寄っていった。
そこから見下ろす世界は、まさに息をのむほどのパノラマだった。自分たちが生まれ育ち、もがき、そして生きてきた街並みが、まるで小さな箱庭のように遠く見下ろせる。ビル群も、張り巡らされた道路も、すべてがミニチュアのように静まり返っていた。そして眼下の山肌には、薄桃色の桜の絨毯がうっすらと広がっている。
凪はカメラを構え、ファインダーの中に彼女の姿を収めた。
レンズの向こう、四月の強い陽光を浴びて立つ葉月のプロファイルは、どんな完璧な芸術品よりも美しく、生命力に満ち溢れている。
カシャリ、と静かなシャッター音が響く。
「あ、また撮ったね、凪」
「うん。今の葉月、世界で一番綺麗だったから」
凪はカメラを下ろし、静かに葉月の隣へと歩み寄った。
ポケットの中のベロア調のケースを握りしめる凪の指先は、山頂の寒さとは違う緊張で、ほんの少しだけ震えていた。
高校の昇降口で、初めて二人でマスクを外したあの朝。
世界が押し付ける「普通」や「完璧さ」というルールを破り、お互いの傷を鏡にして歩み出すと決めたあの放課後。
二人はただの恋人ではなく、不完全な世界を生き抜くための、唯一無二の共犯者だった。
その関係は、大学生活という広い世界に出ても、少しも揺らぐことはなかった。むしろ、写真展を経て、お互いのノイズを愛おしむ時間は、より深く、強固なものへと変わっていた。
「葉月」
凪は、自分の少し鼻にかかった声で、ゆっくりと、けれど退かない覚悟を込めて彼女の名前を呼んだ。
「なぁに、凪」
葉月が不思議そうに、けれど全面的な信頼を湛えた瞳で凪を見つめ返す。
「僕たちの声も、顔の傷跡も、世間から見れば『不完全』なものかもしれない。でも、僕は葉月と出会って、その不完全さこそが、僕たちがこの世界で泥をすすりながら、血を吐く思いで闘い抜いてきた本物の証拠なんだって知った」
凪はポケットから小さなケースを取り出し、葉月の目の前で静かに開いた。
中から現れたのは、派手な装飾のない、シンプルで力強い輝きを放つプラチナの指輪だった。
「完璧に整った世界なんて、僕らには必要ない。これからも、上手く動かない心や、不器用な日常を全部分け合いながら、二人だけの新しいページをめくっていきたいんだ。……僕の隣で、これからもずっと、一緒に生きてくれませんか。僕の奥さんになってください」
山頂の強い風が、凪の剥き出しの言葉を遠くまで運んでいく。不織布のマスクで遮られていた過去の僕らは、もういない。少し空気の漏れるこの声が、まっすぐに葉月の鼓膜へと突き刺さる。
葉月はハッと目を見開いた。彼女の大きな瞳に、みるみるうちに涙が溜まっていく。
しかし、その涙はかつての絶望の雨ではない。凪の真っ直ぐな想いが、彼女の胸の奥にある幸福を溢れさせた、歓喜の水滴だった。
彼女は泣き出しそうな顔を必死に堪え、右の口元にある小さな縫合線の跡を誇らしげに綻ばせて、この世界で最も美しい笑顔を開花させた。
「……はい! 私、凪の奥さんになりたい。凪のその声の隣で、私のこの口元で、ずっと一緒に生きていきたい!」
葉月はクリアな、澄み切った声で力強く答えた。
凪は震える手で彼女の細い指に指輪を通し、そのまま彼女の身体を強く抱きしめた。
ガシリ、とした凪の無骨な背中と、柔らかくも強い葉月の体温が、山頂の冷たい空気の中でぴったりと重なり合う。二人の手のひらの間を行き交う36.5℃の生身の熱は、これから始まる長い人生のすべてを、どこまでも強く肯定していた。
「ありがとう、葉月。笑ってくれて、本当によかった」
「ふふ、驚いた? 今日はもう、絶対に泣かないって決めてるんだから。……私、世界で一番幸せだよ、凪」
抱きしめ合う二人の頭上を、四月の風に吹かれた桜の花びらが、ひらひらと祝福するように舞い上がっていく。
展望台の上に置かれたフィルムカメラが、二人の新しい始まりの最高の一頁を、静かに、しかし確かにその銀塩に刻み込んでいた。
どんな噂や視線に晒されようとも、お互いの傷を誇りとする共犯者たちの旅路は、ここから、最高の笑顔とともに続いていくのだった。
よろしくお願いします。




