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第6話:36.5℃のアイスバー

 始業式の喧騒が遠ざかった放課後の旧校舎は、まるで潮が引いた後の砂浜のように、どこか物寂しく、それでいて妙に広々として感じられた。

 西棟の最上階、長い廊下の突き当たりにある写真部の部室。その重い木製の引き戸を開けると、現像液のわずかに酸っぱい匂いと、冬の間ずっと堆積していた古い紙の匂いが、春の柔らかな光に温められて二人の鼻腔をくすぐった。


 ガララ……と静かに戸を閉め、水川凪は肩から下げていた愛用のフィルムカメラを、いつもの大きな作業机の上にそっと置いた。


「ふう……やっぱり、ここは驚くほど静かだね」


 凪がそう言って小さく息を吐くと、その声はほんの少しだけ鼻に抜け、空気の漏れるような固有の音色を伴って部室の四隅に染み込んでいった。マスクを外して過ごす初めての放課後。遮るもののない自分の声が、ダイレクトに部屋の空気を震わせる感覚には、まだかすかな気恥ずかしさが残っている。


「本当だね、凪くん。さっきまでの教室が嘘みたい」


 窓際の椅子に腰掛けた遠野葉月が、肩のラインで綺麗に切り揃えられた黒髪のボブを揺らしながら、嬉しそうに目を細めた。

 窓から差し込む四月の強い斜光が、彼女の顔の輪郭を鮮やかに浮かび上がらせる。右の唇の端から人中にかけて残る、一本の繊細な白い糸のような手術の縫合線の跡。大手術を経て完璧な噛み合わせと美しい顎のラインを手に入れた彼女の顔には、まだ麻痺の残る不器用さと、それを遥かに上回る「自らの意志で生きている」という誇らしげな輝きが宿っていた。


 二人はどちらからともなく、机の上に並んだ古い写真の束や、現像用のバットを片付け始めた。急ぐ必要のない、ゆったりとした時間。新クラスの発表、飛び交う好奇の視線、背中に突き刺さるひそひそ話――午前中に通り抜けてきた最初の嵐を、この静かな部屋が優しく洗い流していくようだった。


「はい、これ。凪くんの分の冷たいお茶」


 葉月がスクールバッグから、家から持ってきたという水筒を取り出し、プラスチックのコップにトトト、と麦茶を注いで差し出す。


「ありがとう、葉月」


 「葉月」と彼女の名前を呼ぶたび、凪の胸の奥の、人中の瘢痕のあたりが少しくすぐったくなる。以前のように、視線を遮る不織布の壁はない。剥き出しの言葉が、まっすぐに彼女の鼓膜へと届く。


 葉月はコップを受け取った凪の隣に座り、自分のコップを両手で包み込んだ。そして、ゆっくりと一口、お茶を口に含む。顎を切り、神経を繋ぎ直した彼女の唇は、まだ冷たさや触覚の感覚が少しだけ鈍い。そのため、お茶を飲むときも、以前よりほんの少しだけ慎重に、確かめるようにして顎を動かしている。

 そんな不器用な動きすら、凪にとっては愛おしいものだった。それは彼女が血を吐くような思いで闘い、生き抜いてきた本物の証拠だからだ。


「……ねえ、凪くん。新しいクラス、どうだった?」


 葉月がコップを机に置き、じっと凪の横顔を見つめた。


「どう、って言われると難しいけど……正直、視線は痛かったかな。マスクを外した僕の顔を見るの、みんな初めてだったから。でも、不思議と前みたいな恐怖はなかったよ。隣に、あんなに堂々と前を向いて歩く葉月がいてくれたからね」


 凪はカメラのレンズキャップを弄びながら、少し照れくさそうに笑った。


「ふふ、私だって本当は、少しだけ足が震えていたんだよ?」


 葉月はクリアな、どこからも空気の漏れない美しい声で言った。かつて屋上で、誰も気づかないようなわずかな発音の乱れを気にして、ボイスレコーダーを相手に自傷行為のように練習を繰り返していた彼女の姿は、もうここにはない。


「でもね、凪くんが私の不器用な口元も、傷跡も、全部『大好きだ』って言ってくれたから。だから私、世界がどんなルールを押し付けてきても、もう絶対に負けないって思えたの。今日、凪くんと一緒にマスクを外してあの昇降口をくぐれたこと、私、一生忘れないわ」


「僕もだよ、葉月。僕たちの声や傷は、隠すべき弱点なんかじゃない。僕たちが苦しみを乗り越えて、自分を新しく作り上げた誇りの証なんだって、葉月を見ていて本当にそう思えたんだ」


 凪の言葉に、葉月の口元が嬉しそうに、崩れるように綻んだ。左右のバランスが完全に整った、しかしどこか人間らしい温かみのある笑顔。窓外の五分咲きの桜の木々から舞い散った花びらが、開いた窓からひらひらと滑り込み、古い現像机の上に静かに着地した。



 二人はそれから、新学期の教科書のことや、これからの写真部の活動について、とりとめもない話を続けた。凪は机の上に置いたカメラを手に取り、ファインダーを覗いて葉月の姿を枠の中に収めてみる。


 カシャリ、と静かなシャッター音が響く。


「あ、また撮ったでしょう、凪くん」


「うん。今の光の当たり方、すごく綺麗だったから」


「もう、心の準備ができてないのに……。でも、凪くんの撮る写真なら、どんな私でもいいかな」


 葉月は少し頬を染めながら、窓の外を見やった。校庭からは、運動部員たちの威勢のいい掛け声や、硬式テニスボールがラケットに当たる乾いた音が遠く響いてくる。しかし、この最上階の部屋だけは、時間が堆積した琥珀色の琥珀の中に閉じ込められたかのように、どこまでも穏やかだった。


 凪はファインダーから目を離し、手元に残るフィルムの感触を確かめた。彼がこれまで撮ってきた写真は、自分の内面にある「痛みの投影」としての、モノトーンの廃墟や色彩のない景色ばかりだった。けれど、今目の前にいる葉月を覗くとき、そのレンズの向こうには、名前のない鮮烈な光が溢れている。


「葉月」


「なぁに、凪くん」


「僕たちのカメラが捉える世界は、もう白黒じゃない。不完全だけど、いろんな光が混ざり合った、新しい世界なんだよね。だから、これから始まる新しい一年が、どんな噂や視線に晒されるものだとしても、僕はもう何も怖くないよ」


 凪が自分の固有の、少し鼻にかかった声で真っ直ぐに伝えると、葉月はそっと手を伸ばし、机の上で凪の手の上に自分の細い手を重ねた。


 ガシリ、とした凪の無骨な手のひらと、柔らかくも強い葉月の手のひら。二人の間に、静かで確かな体温が行き交う。それは、人工的な缶ココアの熱など必要としないほど、お互いの存在を強く肯定し合う熱だった。


「うん……。私たち、世界が押し付ける『完璧さ』というルールを破る、共犯者だもんね」


 葉月の大きな瞳に、夕陽の光が幾重にも重なって輝いている。二人はしばらくの間、言葉を交わすこともなく、ただ肩が触れ合うほどの距離で、変わりゆく春の空の色を眺めていた。



 時計の針が午後五時を回る頃、旧校舎の廊下に、完全な静寂が戻ってきた。部活動を終えた生徒たちもまばらになり、校門へと続く坂道には、長く伸びた人影がぽつりぽつりと点在している。


 凪と葉月は部室の鍵を閉め、並んで階段を下りた。

 校舎を出ると、昼間の生温かい空気はどこかへ消え去り、夕暮れ時の少しひんやりとした春の風が、二人の剥き出しの顔を優しく撫でた。マスクをつけずに歩く街並みは、見慣れたはずの景色なのに、どこか新鮮で、世界の解像度が上がったかのように感じられる。


「すっかり影が長くなったね、凪くん」


 葉月が自分の足元から東へと真っ直ぐに伸びる、青黒い影を指差した。


「そうだね。春の日は、落ち始めると本当に早いから」


 二人は手を繋ぐことこそしなかったが、お互いの歩調を完全に合わせ、ショッピングモールへと続く歩道をゆっくりと歩いた。警備員が誘導灯を忙しそうに振っている駐車場の出入り口を過ぎ、いつもの静かな田んぼ沿いの道へと入る。夕焼けに染まり始めた水面が、二人の進む道を赤銅色に照らしていた。


 しばらくの沈黙の後、凪はポケットの中で通学定期の端に触れながら、胸の奥で温めていた言葉を口にすることに決めた。


「ねえ、葉月」


「うん?」


「今度の休みさ……もしよかったら、二人で少し遠出をしない? その、葉月が手術を終えてから、まだどこにも遠出してデート、したことなかったから。初めての遠征デート」


 凪の声は、緊張のせいでいつもより少しだけ開鼻声のノイズが強く混ざってしまった。けれど、彼は決して視線を逸らさず、葉月の横顔を見つめた。


 葉月は一瞬、驚いたように大きな瞳を丸くしたが、すぐにその美しい顎のラインを綻ばせて、嬉しそうに足を止めた。


「遠征デート……! すごく素敵。凪くん、そんなこと考えてくれてたんだ。私、とっても嬉しい」


「よかった。どこに行きたい? 葉月の行きたい場所なら、僕はどこにでも付き合うよ。東京の洗練されたギャラリーでもいいし、何か美味しいものを食べに行くのでもいいし」


 凪がいくつかの候補を挙げようとすると、葉月は少し首を振って、長い黒髪を揺らした。そして、夕陽が沈みゆく、遥か遠くの山並みを見つめながら、いたずらっぽく、けれど確かな意志を込めて言った。


「ううん、街の中じゃなくて……私、山に登りたいな。登山が良い」


「えっ……山登り?」


 意外な提案に、凪は思わず声を上げた。カメラを持って歩くことは慣れているが、本格的な登山となると、自分の体力や、何より葉月の身体に負担がかからないかが瞬時に頭をよぎった。


「うん、山。それも、少しだけ息が切れるような、静かな自然の中が良いの」


 葉月は自分の口元にそっと指先を触れながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「街の中にいるとね、どうしてもまだ、色んな人の視線や、完璧なルールを求めてくる世界のノイズが耳に入ってきちゃうでしょう? もちろん、私はもう負けないって決めた。でもね……言葉なんかなくてもいいって思えるくらい、圧倒的に綺麗な場所で、凪くんと二人だけの時間を過ごしたいの。静かな山頂で、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んで、凪くんの固有の声と、私のこの不器用な口元だけで、誰にも邪魔されずに笑い合いたいの」


 彼女の瞳には、不安を遥かに超える、強い希望の光が宿っていた。

 かつて京都の千本鳥居の奥で、光と影のトンネルを歩きながら共有した、あの深い決意。言葉にコンプレックスを持ち、言葉に傷つき、言葉に縛られてきた二人が、言葉を必要としないほどの美しさを求めて旅に出る。それは、ある種の「ゴール」であり、二人にとっての新しい「スタート」のようにも思えた。


 凪は、葉月のその真っ直ぐな眼差しを受け止め、深く深呼吸をした。冷たい夕方の空気が気管を通り、鼻の下の瘢痕を少しだけ引っ張る。その感覚が、今の自分に激しい歓喜を与えていた。


「わかったよ、葉月。登山に行こう。僕が、葉月の『言葉なんかなくてもいい』って思えるような、最高の景色を、このカメラで全部、一枚残らず記録するよ。絶対に」


「ふふ、約束だよ、凪くん。楽しみにしてるね」


 葉月は、上下の歯列が完璧に噛み合った美しい笑顔を咲かせた。その響きはどこまでもクリアで、沈みゆく夕陽の寂しさを一瞬で吹き飛ばすほどの温かさに満ちていた。


 二人の影がすっかり夜の闇に溶け込み始める頃、住宅街の入り口にある、小さなコンビニエンスストアの白い看板の光が見えてきた。自動ドアが静かな音を立てて開くと、店内の明るい蛍光灯の光が、二人の顔を等身大に照らし出す。


「ちょっと喉が渇いちゃったね。何か飲み物でも買う?」


 凪が尋ねると、葉月はアイスクリームの冷凍ショーケースの前で足を止め、悪戯っぽく微笑んだ。


「ねえ、凪くん。私、これが食べたいな」


 彼女が指差したのは、四月のまだ少し肌寒い季節には少し不似合いな、冷たいアイスバーだった。


「えっ、アイス? まだちょっと寒いんじゃない?」


「ううん、新しい日常に飛び出して、胸の奥がすごく熱くなってるから、これくらい冷たいのが丁度いいの。凪くんも一緒に食べよう?」


「……そうだね。じゃあ、僕もそれにしようかな」


 凪は苦笑しながら、同じアイスを二つ手に取り、レジで手早く小銭を支払った。


 店を出ると、街灯の下の小さなベンチに二人は並んで腰掛けた。

 ビニールのパッケージを破り、葉月がアイスを一口、文字通り小さく「齧り」つく。その瞬間、まだ感覚の鈍い右の口元から、ほんの少しだけ冷たい雫がこぼれそうになった。


「あ……」


 葉月は慌てて指先で口元を拭い、顔をみるみるうちに赤くした。完璧な骨格を手に入れたはずなのに、まだ自分の身体を完全にコントロールしきれないもどかしさと、それを凪に見られてしまった恥ずかしさが、彼女の大きな瞳を揺らす。


「……ごめんなさい、凪くん。また上手に食べられなくて。なんだか情けないよね」


 彼女の声がかすかに沈み、過去の「歪み」の記憶が小さな影を落とそうとする。

 だが、凪はただ優しく首を振った。彼はポケットからハンカチを取り出すと、そっと手を伸ばし、彼女の唇の端の小さな縫合線の跡を優しく拭った。


「情けなくなんてないよ、葉月」


 凪は、自分の少し鼻にかかった声で、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「その上手く動かない口元も、葉月が血を吐く思いで闘い抜いた証拠だよ。完璧なんかじゃなくて、僕の前で不器用にアイスを食べて、恥ずかしそうに笑う葉月が、僕は大好きなんだ」


 凪の指先から、三六・五度の生身の体温が、彼女の唇の傷跡へと伝わっていく。

 葉月はハッと目を見開いた。凪の真っ直ぐな言葉が、彼女の胸の奥に残っていた不安の霧を、一瞬で吹き飛ばしていくのを感じた。


「……ふふっ、本当に凪くんは、いつも私が一番欲しい言葉をくれるんだね」


 頬を染めたまま、彼女の口元は、この世界で最も美しい笑顔へと、弾けるように開花した。今度は大きな口で、アイスを美味しそうに頬張る。彼女の口元に見える小さな縫合線は、もう隠すべき傷ではなく、彼女を笑顔にするための誇らしい勲章だった。


「それじゃあ、私、こっちの道だから。凪くん、今日は本当にありがとう。また明日、学校でね」


「うん、また明日。気をつけて帰るんだよ、葉月」


 交差点の分岐点で、二人は足を止めた。二人は手を握り合う代わりに、お互いの瞳の奥にある「共犯者」としての強い光を確かめ合った。

 葉月が小さく手を振りながら、街灯の光の向こうへと歩き出していく。その背中は、どんな世界のルールにも屈しない強さに満ちていた。


 凪もまた、自分の焼きそばパンの味や、冷たいアイスの余韻を胸に抱きながら、自らの家へと続く帰路を辿り始めた。

 ポケットの中のフィルムカメラが、二人の新しい始まりの1ページを、静かに、しかし確かに記録していた。これから始まる新しい一年が、どれほど過酷なものであったとしても、二人はもう、何も怖くはなかった。春の夜風が、二人の誇り高き傷跡を、どこまでも優しく祝福するように吹き抜けていった。


よろしくお願いします。

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