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第5話:四月の共犯者と、イチゴジャム

  新クラスの発表という、四月の最初の嵐がひとまずの落ち着きを見せた頃、校内には始業式を終えた生徒たちの安堵と、新しい環境への戸惑いが混ざり合った、独特の生温かい空気が満ちていた。


 3年2組。


 黒板に並んだ新しい座席表の通り、水川凪の席は窓際の後ろから二番目、そして遠野葉月の席は、その斜め前方、廊下側の列の真ん中あたりに決まった。手を繋じて昇降口をくぐったあの鮮烈な登校風景は、瞬く間に学年中に知れ渡り、教室のあちこちから突き刺さるような視線が二人へと注がれていた。

 だが、凪はただ静かに机の上に愛用のフィルムカメラを置き、窓の外の景色を見つめていた。葉月もまた、周囲の好奇の目を凛とした背筋で受け流し、新しい教科書を丁寧に机の中へと収めていた。


 キーンコーンカーンコーン――。


 午前中の短いホームルームの終わりを告げるチャイムが鳴り響くと同時に、教室は一気に騒がしくなった。緊張から解放された生徒たちが一斉に席を立ち、互いの名前を呼び合って群れを作り始める。


 凪が小さく息を吐き、机の上のカメラを制服のポケットに仕舞おうとしたその時、斜め前の席から、すっと細い影が近づいてきた。


「凪くん」


 聞き慣れた、けれど一月前とは劇的に違う、どこからも空気が漏れないクリアな声。

 凪が顔を上げると、そこには肩のラインで綺麗に切り揃えられた黒髪のボブカットを揺らした葉月が立っていた。彼女の唇の右端には、朝陽の下で見た時と同じ、一本の繊細な白い糸のような手術の縫合線の跡が残っている。だが、今の彼女はその傷を隠しようともせず、むしろ誇らしげに口元を綻ばせていた。


「ホームルーム、やっと終わったね。……ねえ、もしよかったら、一緒に購買にパンを買いに行かない?」


「あ……うん。そうだね、行こうか」


 凪は立ち上がりながら、無意識に自分の鼻の下から上唇にかけて走る瘢痕を指先でなぞった。マスクのない生活を始めると決めてから、こうして大勢の人間がいる教室で顔を晒し、声を出すことには、まだ微かな躊躇いが伴う。彼の声には、再手術を選ばなかったがゆえの、鼻に抜ける「空気漏れ」の音が今も混ざっている。


 けれど、葉月はそんな彼の声を、世界で一番美しい響きを聴くかのように、愛おしそうな瞳で見つめ返してくれた。


「よかった。実はね、新しいクラスの緊張でお腹がすいちゃって。購買のパン、争奪戦になるって有名だから、急がないと売り切れちゃうかもしれないよ」


「そうだね。じゃあ、早く行こう。葉月」


「葉月」と名前を呼ぶその瞬間、凪の胸の奥が少しくくすぐったくなる。以前のように、視線を遮る不織布のマスクはない。剥き出しの言葉が、まっすぐに彼女の鼓膜へと届く。その事実だけで、四月の空気はどこまでも新しく感じられた。


 二人が並んで教室のドアへと向かうと、席に残っていたクラスメイトたちの視線が、再び一斉に動いた。ヒソヒソという微かな囁き声が背中に突き刺さる。「本当にあの二人、付き合ってるんだ」「遠野さん、マスク外したらあんなに綺麗だったんだね」「水川の顔、初めて見たかも」――。


 凪は一瞬、身体を強張らせた。かつてなら、この視線の暴力に耐えかねて、すぐにでもポケットのマスクに手を伸ばしていただろう。


 だが、隣を歩く葉月の歩調は少しも乱れなかった。彼女は、上下の歯列が完璧に噛み合った美しい顎のラインを崩さず、前を向いて歩いている。その小さな足取りには、世界が押し付ける「普通」というルールを、自らの意志で踏み越えていくような強さがあった。


「気にしないで、凪くん」


 廊下に出た瞬間、葉月が歩きながら小さな声で言った。


「彼らはただ、私たちの『変化』に戸惑っているだけ。私たちは何も悪いことはしていないわ。……それに、私には今の凪くんの声がちゃんと聞こえているから」


「……うん。ありがとう、葉月。僕も、もう逃げたりはしないよ」


 凪は自分の固有の、少し鼻にかかった声で答えた。二人は手を繋ぐことこそしなかったが、お互いの肩が触れ合うほどの距離を保ったまま、中央階段へと向かった。


 校舎の一階、西側の奥にある購買部は、すでに飢えた獣のような生徒たちでごった返していた。

「おい、焼きそばパンまだあるか!?」「コロッケパン、最後の一個取られた!」という怒号に近い声が飛び交い、狭い廊下には長い列がとぐろを巻いている。


「わあ……すごい熱気だね」


 葉月は少し圧倒されたように、大きな瞳を丸くして購買の様子を見つめた。

 人混みの中心では、恰幅の良い購買のおばちゃんが、飛び交う注文を神業のような手際で捌いている。棚に並んだパンの山は、見る見るうちに切り崩され、残りはもうわずかしか残っていないようだった。


「どうする、凪くん? この後ろに並んだら、私たちの番が来る前に全部なくなっちゃうかも……」


「大丈夫、僕が行ってくるよ。葉月は何が食べたい?」


 凪は一歩前に出て、人混みの隙間を値踏みするように見つめた。普段は物静かな彼だったが、カメラのファインダーを覗いて一瞬の光を切り取る時のように、こういう瞬間の「空間の隙間」を見つけるのは、意外と得意だった。


「えっ? じゃあ……もし残っていたら、イチゴジャムパンか、甘いデニッシュ系が良いな。凪くんは?」


「僕は焼きそばパンか、惣菜パンなら何でもいいよ。じゃあ、ここで待っていて。すぐ戻るから」


「うん、気をつけてね」


 凪は小さくうなずくと、だぶついた制服の袖を少しだけ捲り上げ、生徒たちの怒濤が渦巻く購買の渦へと飛び込んでいった。


「すいません、メロンパン一個!」「おばちゃん、牛乳!」と叫ぶ運動部員たちの巨体の隙間を、凪は流れるようにすり抜けていく。マスクを外したことで、呼吸が驚くほど楽だった。冷たい空気の塊が、ダイレクトに気管へと流れ込んでくる。鼻の下の瘢痕が少しだけ引っ張られるような感覚があったが、今の彼にはそれが、自分が今この戦場を生きているという確かな実感だった。


 カウンターの最前線へと滑り込んだ凪は、棚の状況を素早く視認した。惣菜パンのエリアはほぼ全滅。だが、隅の方に、焼きそばパンが奇跡的に一個だけ残っている。英語、国語、数学……どんな教科の教科書よりも、今はその一個の価値が重い。そして、その隣には、葉月が望んでいたイチゴジャムパンも、最後の一個がポツンと取り残されていた。


「おばちゃん!」


 凪は声を張った。少し鼻に抜ける、空気の漏れる声。周囲の喧騒に掻き消されそうになる不完全な声だったが、彼は全精力をその喉に込め、まっすぐに言葉を放った。


「その、焼きそばパンと、イチゴジャムパンを一個ずつください!」


 購買のおばちゃんは、一瞬だけ凪の顔と、その独特な声の響きに目を留めたが、すぐに温かいプロの笑顔を浮かべた。


「はいよ! 焼きそばとジャムね。よく滑り込んってきたね、お兄ちゃん。ちょうどこれで最後だよ!」


 茶色い紙袋に二つのパンが投げ込まれ、凪は財布から小銭を取り出して素早く支払いを済ませた。手に入れた紙袋を胸に抱え、再び生徒たちの波を押し分けるようにして、彼は葉月が待つ廊下の端へと生還した。


「取れたよ、葉月。両方とも、最後の一個だった」


 凪が少し息を弾ませながら紙袋を差し出すと、葉月の顔がパッと明るくなった。


「すごいよ、凪くん! 本当に買ってきてくれるなんて、まるで魔法みたい。……ありがとう」


 葉月は嬉しそうに紙袋を受け取り、中から綺麗にパッケージされたイチゴジャムパンを取り出した。その指先が、ほんの少しだけ緊張で強張っているのに凪は気づいた。やはり、周囲の視線や、購買の喧騒は、彼女にとってもまだ完全には慣れないストレスなのだろう。


「どこで食べようか。教室に戻る?」


 凪が尋ねると、葉月は少し首を振って、長い黒髪のボブを揺らした。


「ううん、教室はちょっと……まだ、色んな人の視線が集まりすぎて、落ち着いてパンの味を楽しめそうにないかな。……ねえ、写真部の部室に行かない? あそこなら、誰も来ないでしょう?」


「そうだね。あそこなら静かだし、鍵も僕が持っているから。行こう」


 二人は購買の喧騒を背にして、校舎の最上階、普段は誰も近づかない旧館の奥にある写真部室へと向かった。


 薄暗い階段を上がっていくにつれ、下層の騒がしさが遠ざかり、代わりに窓から差し込む四月の穏やかな光が廊下を支配していく。古い木造の床が、二人の足音に合わせてギィ、ギィと静かなリズムを刻んでいた。


 部室のドアを開けると、少し埃っぽい、けれどどこか落ち着く現像液の匂いと、古い紙の香りが二人を迎えた。

 部屋の中央には大きな作業机があり、その上には凪が過去に撮影した、数々の不完全な、けれど決定的な光を捉えた写真が散らばっている。窓からは、先ほど土手で見たのと同じ、五分咲きの桜の木々が校庭の向こうに見下ろせ、心地よい春の風が、色褪せたカーテンを静かに押し上げていた。


「ふう……やっぱり、ここは落ち着くね」


 葉月は窓際の椅子に腰掛け、大きく深呼吸をした。

 彼女の完璧な骨格によって再構築されたプロファイルが、窓からの光を浴びて、まるで一枚の絵画のように美しく浮かび上がる。かつて、誰からも拒絶されないために作り込んでいた優等生の仮面はここにはない。ただ、一人の少女としての、等身大の安らぎがそこにあった。


 凪も彼女の向かい側に座り、紙袋から焼きそばパンを取り出した。


「はい、これ。葉月のジャムパン」


「ありがとう、凪くん」


 葉月は丁寧にビニールパッケージを開け、パンを一口小さく文字通り「齧り」ついた。

 その瞬間、彼女の右の口元から、ほんの少しだけ、イチゴジャムの赤いソースがこぼれそうになった。大手術によって顎の骨を切り、神経を繋ぎ直した彼女の口元は、まだ完全に麻痺が取れているわけではない。唇の感覚が少しだけ鈍いため、食べ物を口に運ぶとき、時折こうして不器用な動きになってしまうのだ。


「あ……」


 葉月は慌てて指先で口元を拭った。その顔が、みるみるうちに赤くなっていく。完璧な骨格を手に入れたはずなのに、まだ自分の身体を完全にコントロールしきれないもどかしさと、それを凪に見られてしまった恥ずかしさが、彼女の大きな瞳を揺らしていた。


「……ごめんなさい、凪くん。また、上手に食べられなくて。こんな風に汚しちゃうなんて、情けないよね」


 彼女の声が、微かに沈んだ。新しい日常へ飛び出す覚悟を決めたと言っても、ふとした瞬間に、過去の「歪み」の記憶や、不完全な自分への嫌悪感が首をもたげる。


 だが、凪はただ優しく首を振った。彼はポケットからハンカチを取り出すと、机越しに手を伸ばし、彼女の唇の端の、小さな縫合線の跡にそっと触れた。


「情けなくなんてないよ、葉月」


 凪は、自分の少し鼻にかかった声で、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「その傷跡も、上手く動かない口元も、お前が血を吐くような思いで闘って、生き抜いてきた証拠じゃないか。僕は、そのすべてが愛おしいと思う。完璧なギリシャ彫刻みたいな葉月じゃなくて、こうして僕の前で、不器用にパンを食べて、恥ずかしそうに笑う葉月が、僕は大好きなんだ」


 凪の指先から、36.5℃の生身の体温が、彼女の唇の傷跡へと伝わっていく。


 葉月はハッと目を見開いた。凪の真っ直ぐな言葉が、彼女の胸の奥に残っていた不安の霧を、一瞬で吹き飛ばしていくのを感じた。

 彼女の大きな瞳が、驚きから、やがてじわじわと溢れ出す絶対的な幸福感へと変わっていく。頬を染めたまま、彼女の口元は、左右のバランスが完全に整った、この世界で最も美しい笑顔へと、弾けるように開花した。


「……ふふっ、本当に凪くんは、いつも私が一番欲しい言葉をくれるんだね」


 葉月は声を立てて、嬉しそうに笑った。その響きはどこまでもクリアで、部室の隅々にまで光を届けるように澄み切っている。


「驚いた? 今日はもう、絶対に泣かないって決めてるんだから。凪くんがそんな風に言ってくれるなら、この不器用な口元だって、私の大好きな私の一部だよ」


「あ……うん、笑ってくれてよかった。その笑顔が、やっぱり一番綺麗だ」


 凪が少し照れくさそうにハンカチを引っ込めようとすると、葉月がその手の上から、自分の細い手を重ねた。

 ガシリ、という無骨な凪の手と、柔らかくも強い葉月の手のひらが、静かな部室の中で重なり合う。缶ココアの人工的な熱なんて、もう必要なかった。二人の手のひらの間を行き交う確かな体温が、四月の新しい季節を、どこまでも強く肯定していた。


「うん! 凪くんにそう言ってもらえるだけで、私、この学校で、この顔で、自分の声で生きていける。どんな視線に晒されたって、もう絶対に負けないよ」


 葉月は重ねた手にぎゅっと力を込めた後、今度は大きな口でパンを思い切り頬張った。

 今度はジャムをこぼすこともなく、本当に美味しそうに、幸せそうに咀嚼する。彼女の口元に見える小さな縫合線は、もう隠すべき傷ではなく、彼女を笑顔にするための誇らしい勲章だった。


 そのまばゆい姿を、凪は愛おしそうに見つめながら、自分も焼きそばパンを口に運んだ。少し冷めた焼きそばの味が、今の彼らには、どんな高級料理よりも愛おしい日常の味だった。


 窓の外では、四月の風に吹かれた桜の花びらが、ひらひらと部室の中へと舞い込んできていた。

 机の上のフィルムカメラが、その光景を、そして二人の新しい始まりを、静かに見守っている。


 これから始まる新しい一年が、どれほど過酷で、どんな噂や視線に晒されるものだとしても、二人はもう、何も怖くはなかった。お互いの傷を鏡にして、不完全な世界のルールを破り続ける共犯者たちの、新しく、そして誰よりも美しい季節の第一ページが、今、確かにこの写真部室で、最高の笑顔とともに刻まれていくのだった。


よろしくお願いします。

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