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第4話:四月の光、最初の friction(フリクション)

 三月がその薄い衣を脱ぎ捨て、四月という新しい季節が、この街に滑り込んできた。


 始業式の朝。空気はまだ冬の冷たさを芯に残していたが、街を包む光は明らかに変化していた。どこか白っぽく霞んでいた三月の光に比べ、四月の朝陽は、世界を祝福するように鮮やかで、鋭い黄金色を帯びている。川沿いの土手に並ぶ桜の木々は、まだ満開には遠く、五分咲きといったところだったが、固い蕾からこぼれ出た淡いピンク色が、青空に向かって無数の小さな灯火のようにまたたいていた。


 水川凪は、いつもの土手の坂道に立っていた。


 彼のスタイルは、去年の春とは劇的に変わっていた。

 かつて彼の顔半分を執拗に覆い隠し、沈黙の砦として機能していたあの白い不織布のマスクは、もうどこにもない。無造作に伸ばされ、視線を遮るように重く垂れ下がっていた黒髪は、耳の周りと襟足が短く切り揃えられ、春の風をダイレクトに受けている。大きめのサイズで身体の線を曖昧に隠していた制服のシャツも、今の彼の身体にはぴったりと馴染んでいた。


 風が吹くたび、剥き出しになった彼の顔の下半分に、冷たい空気が容赦なくぶつかる。鼻の下から上唇にかけて縦に走る、手術の記憶である人中の瘢痕はんこんが、冷気でかすかにきゅっと引きつるような感覚があった。去年の夏、初めてマスクを外して外に出たときは、世界中のすべての視線が自分のこの「縫い目」に集まっているような気がして、呼吸をすることさえ苦しかった。けれど今は違う。風が皮膚を撫でる頼りなさは、そのまま彼にとっての「自由」の証だった。


 凪は、だぶついた制服のポケットから愛用のフィルムカメラを取り出し、ファインダーを覗いた。ファインダーの四角いガラスの向こう側で、朝露に濡れたシロツメクサの葉が、朝陽を浴びてキラキラと発光している。ピントリングを回すと、世界のボケが徐々に絞られ、鮮明な現実が浮かび上がる。彼は静かにシャッターを切った。カシャ、という乾いた、しかし心地よい金属音が、静かな土手の空気に吸い込まれていく。


「――凪くん」


 その声が聞こえた瞬間、凪はカメラから顔を上げた。


 坂の下から、一人の少女がまっすぐに歩いてくるのが見えた。遠野葉月。彼女の姿が朝陽の逆光の中に浮かび上がったとき、凪は一瞬、息をすることを忘れた。


 彼女の髪は、肩甲骨の下まで滑らかに流れていた美しい黒髪から、肩のラインで綺麗に切り揃えられたボブカットへと変わっていた。動くたびに光を反射する艶はそのままに、軽やかになった髪が、春の風に悪戯っぽく揺れている。そして何より、彼女の「顔」だった。


 一月の大手術を経て、三月のモラトリアムを乗り越えた彼女の骨格は、外科的な力によって物理的に、そして完璧に再構築されていた。かつて僅かに下顎が後退し、彼女自身が「歪み」と呼んで忌み嫌っていたプロファイルは消え去り、まるでギリシャの彫刻のように整った、美しい顎のラインがそこにあった。上下の歯列は完璧に噛み合い、唇を閉じたときの静的な形態は、あまりにも自然で、一点の曇りもない。


 けれど、凪の心を激しく揺さぶったのは、その造形的な美しさではなかった。歩み寄ってくる彼女の口元は、ほんの少しだけ緊張で強張っていた。かつて、誰からも拒絶されないために完璧に作り込まれていた「優等生の笑顔」ではない。これから始まる新しい日常への恐怖と、それを引き受けるという凄みさえ感じさせる覚悟が、彼女の大きな瞳の奥で、静かな炎のように揺らめいていた。


「……待たせちゃったかな」


 葉月が凪の前で立ち止まり、少し上目遣いに彼を見上げた。


 その声を聞いたとき、凪の胸の奥が、じんわりと熱くなった。彼女の声からは、あの「開鼻声」の響き――上顎の瘻孔ろうこうから鼻へと息が漏れる、あの風船から空気が漏れるような切ないノイズが、完全に消失していた。どこからも空気が漏れない、純粋で、クリアな、あまりにも美しい響き。彼女が血を吐くような努力で、世界を呪いながらも手を伸ばし、そして命をかけた手術で勝ち取った、本当の「彼女自身の声」だった。


「いや、僕も今来たところだから」


 凪は答えた。彼の声には、いまも僅かに鼻に抜ける「空気漏れ」の音が混ざっている。彼は再手術を選ばず、自分の不完全さをそのまま受け入れて生きることを決めたからだ。世界に二人だけの、非対称な声の響き。


 葉月は、マスクのない凪の顔をじっと見つめた。そして、彼の鼻の下にある瘢痕に視線を止めると、愛おしそうな、どこか誇らしげな笑みを浮かべた。


「髪、切ったんだね。すごく、似合ってる。すっきりして、かっこいいよ、凪くん」


「葉月こそ。……その、髪、短いのもすごくいいと思う」


 名前を呼ぶその一瞬、凪は少し照れくさそうに視線を外した。三月の終わりに駅のホームで手を繋いだあの夜から、二人の距離は確実に変わっていたけれど、こうして明るい太陽の下で向かい合うと、高校生らしい初々しい気恥ずかしさが押し寄せてくる。


「ふふ、ありがとう」


 葉月は嬉しそうに笑った。その笑顔の途中で、彼女は無意識に、自分の右の唇の端へと指先を這わせた。そこには、目を凝らさなければ分からないほど薄い、けれど確かな手術の縫合線の跡が、一本の繊細な白い糸のように残っていた。


「ねえ、凪くん。今、私の顔、どう見える?」


 葉月の声が、かすかに震えた。いくら覚悟を決めたと言っても、これから学校という「他人の視線」の荒波に飛び込むのだ。不安がないわけがなかった。


 凪はゆっくりとカメラを構え、ファインダーの中に葉月を捉えた。ピントを合わせる。レンズの向こうの彼女の瞳に、朝陽の光が幾重にも反射して、まるで壊れた万華鏡のように複雑な輝きを放っている。その口元の小さな傷跡も、彼女の新しい完璧な骨格も、すべてが光の中に溶け合っていた。


「世界で一番、綺麗だよ」


 ファインダーから目を離さず、凪は真っ直ぐに言った。


「造形がどうとか、そういうことじゃない。葉月が、その傷跡も含めて、自分の足でここに立って、自分の声で喋っている。その姿が、僕のカメラが捉えられる最高の光だ。……だから、自信を持っていいんだよ、葉月」


 カシャ。静かな土手に、再びシャッター音が響く。フィルムの中に、四月の最初の彼女の姿が刻み込まれた。


 葉月は一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐに両手で口元を覆った。彼女の腫れぼったい瞼から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ出し、朝陽を浴びて真珠のように光りながら、彼女の新しい、美しい頬を伝い落ちていく。


「……ずるいよ、凪くん。せっかく、今日は泣かないで学校に行くって決めてたのに」


「あ……ごめん。でも、本当のことだから」


 凪は慌ててカメラを下げ、ポケットからハンカチを取り出そうとした。しかし、それよりも早く、葉月が覆っていた手を下ろし、涙に濡れた顔のままで、満面の笑みを見せた。それは、左右のバランスが完全に整った、けれど彼女の人間らしい感情が爆発した、この世界で最も美しい「不完全な完成形」の笑顔だった。


「ううん、嬉しいの。凪くんにそう言ってもらえるだけで、私、何があっても大丈夫だって思える」


 葉月は涙を手の甲で拭うと、一歩、凪に近づいた。二人の距離が縮まり、お互いの衣擦れの音が重なる。


「行こう、凪くん。私たちの、新しい教室へ」


 彼女はそっと右手を差し出した。凪は少し躊躇した。ここから先は、学校の通学路だ。他の生徒たちの目もあるかもしれない。誰かに見られたら、どんな噂を立てられるか分からない。けれど、葉月の瞳には、もう他人の視線を恐れる「優等生」の怯えはなかった。彼女は、世界が押し付けるルールなんて、最初から破るつもりでここにいた。


「ああ、行こう」


 凪は自分の左手を伸ばし、彼女の手をしっかりと握りしめた。ガシリ、という無骨な感覚。葉月の手のひらは、ココアの缶を持っていなくても、内側から湧き上がるような36.5℃の熱で満ちていた。その温もりが、凪の冷えかけていた指先へとダイレクトに伝わり、彼の胸の奥の燈火をさらに強く燃え上がらせる。


 二人は並んで、土手の坂道を歩き始めた。


 通学路を進むにつれ、周囲には同じ制服を着た生徒たちの姿がまばらに見え始め、やがてそれは大きな波となっていった。ざわざわとした、新学期特有の浮足立った喧騒。「葉月、何組だった?」「教科書買いに行かなきゃ」という、他愛のない、けれど凪にとってはかつて不協和音でしかなかった声の群れ。


 二人が手を繋いだまま校門をくぐり、昇降口へと近づくと、周囲の空気が一瞬、目に見えて凝固した。


「え……嘘、あれ、遠野さん?」

「髪切った? っていうか、なんか雰囲気違わない?」

「マスク外してるの水川じゃん……え、なんであの二人が?」


 ヒソヒソという、悪意と好奇心が混ざり合った囁き声が、さざ波のように二人の周りに広がっていく。かつての葉月なら、その微かな空気の変化を察知しただけで、眩暈を起こして倒れてしまっていたかもしれない。かつての凪なら、すぐにでもポケットからマスクを取り出して、その場から逃げ出していたはずだ。


 けれど、二人の繋がれた手は、決して離れなかった。


 葉月は、自分の唇の端にある小さな傷跡を、隠すことなく朝の光の下に晒しながら、真っ直ぐに前を向いて歩いていた。彼女の背筋はリんと伸び、その立ち姿は、誰の侵入も許さない冷徹な完璧さではなく、すべてを受け入れる強さに満ちていた。


 凪もまた、隣を歩く彼女の歩調に合わせ、確かな足取りで進む。彼のポケットの中のカメラが、歩くたびにコツコツと太ももに当たり、リズムを刻んでいた。それは、彼らがこれから、この世界のどんな不完全さも、どんな陰口も、すべて自分たちの「光」に変えて記録していくんだという、静かな戦闘開始の合図のようでもあった。


 昇降口の大きな掲示板の前に、人だかりができていた。新クラスの発表だ。二人は繋いだ手を離さないまま、人混みの後ろに立った。周囲の生徒たちが、驚きと困惑の視線で二人を見る。けれど、葉月はその視線たちに向かって、小さく、けれど上品に、ペコリと会釈をしてみせた。


「おはよう、みんな。久しぶり」


 彼女の声が、騒がしい昇降口に響き渡った。上顎の瘻孔から息の漏れない、澄み切った、あまりにも美しい響き。その声の圧倒的な綺麗さに、噂話をしていた生徒たちは、まるで魔法にかけられたように、一瞬で言葉を失い、静まり返った。


「水川くん、遠野さん……おはよう」


 一人のクラスメイトが、圧倒されながらも、ぽつりと挨拶を返してくれた。


「うん、おはよう!」


 葉月はもう一度、今度は本当に嬉しそうに笑った。


 掲示板に張り出された名簿を見上げる。

『3年2組 水川凪』

『3年2組 遠野葉月』


 二人の名前が、並んでそこに並んでいた。


「あ……」


 葉月が小さく声を漏らし、凪の顔を見た。凪もまた、彼女を見つめ返した。


「同じクラス、だね、凪くん」


「ああ。……写真部の部室も、教室も、ずっと一緒だ」


 凪はマスクのない口元を緩め、彼だけの、少し鼻にかかった固有の声で、深く、優しく笑った。


「約束通り、最初に葉月の名前を呼びに来たよ、葉月」


「うん……ありがとう、凪くん」


 二人の手が、掲示板の下で、もう一度強く握り合わされた。缶ココアの人工的な熱なんて、最初から必要なかったのだ。二人の手のひらの間を行き交う36.5℃の生身の体温と、三月の終わりに交わしたあの小さな約束は、四月のまばゆい光の中で、完全に、そして美しく開花していた。


 これから始まる新しい一年が、どれほど過酷で、どんな噂や視線に晒されるものだとしても、二人はもう、何も怖くはなかった。お互いの傷を鏡にして、不完全な世界のルールを破り続ける共犯者たちの、新しく、そして誰よりも美しい季節が、今、確かに幕を開けた。


よろしくお願いします。

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