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第3話:小さな定番と、これからの約束

 三月下旬の夕暮れは、冬の鋭い名残と、春の微かな気配がせめぎ合う、曖昧で、それゆえにどこか切ない特権的な時間だった。


 地元の、どこか寂れた私鉄の駅。錆びついたトタンの屋根が西日を浴びて鈍く光り、誰もいないホームには、乾いた風が吹き抜けるたびにカサカサと音を立てて砂埃が舞っていた。遠くの踏切が規則正しく鳴らす警報機の音が、濁った空気の向こうからかすかに届く。それは、もうすぐこの退屈で愛おしい春休みが終わり、残酷なまでに新しい日常が始まってしまうことを告げるカウントダウンのようでもあった。


 水川凪と遠野葉月は、並んでそのホームの自販機の前に立ち止まっていた。


「……まだ、あった」


 自販機の取り出し口の上の、赤く光る『あたたかい』のランプを見つめながら、葉月が小さく声を弾ませた。彼女の視線の先にあるのは、見慣れたココアの丸い缶だ。


「もうすぐ四月なのに、自販機の中身ってなかなか切り替わらないものなんだね」


「まあ、ここの駅だしな。誰も変えにこないんだろ」


 凪がそう言いながら、ポケットから小銭を取り出す。チャリン、と硬い金属音が静かなホームに響き、自販機の古びた投入口に吸い込まれていく。凪がボタンを押すと、ガコン、という不器用な重い音がして、取り出し口に赤い缶が転がってきた。


 葉月はそれを両手で包み込むようにして拾い上げる。


「やっぱり、冬の終わりはこれじゃないとね」


 彼女は本当に嬉そうに微笑んだ。その微笑みは、一月の手術を経て、完全に「普通で完璧な骨格」を手に入れた、新しい彼女の顔だった。頬の腫れはすっかり引き、かつて僅かに下顎が後退していたプロファイルは、まるで精密なデッサン画のように整っている。しかし、完璧な美少女だった頃の、あの誰の侵入も許さなかった「優等生の仮面」とは違い、今の彼女の笑顔には、どこか柔らかい、剥き出しの人間らしさが滲んでいた。


 凪は自分のためにブラックの缶コーヒーを買い、二人は並んで木製の古びたベンチに腰掛けた。背もたれのペンキが剥げかけたベンチは、二人の体温を奪うように冷たかったが、葉月が持つ缶ココアの熱が、二人の指先の境界線をじんわりと温めていた。


 プルトップを引く音が、静かなホームに小気味よく響く。


 葉月は缶を口元に運び、小さく口を開けて、甘いココアをゆっくりと喉に流し込んだ。

 ほんの二ヶ月前、ワイヤーで上下の顎を完全に固定され、ストローで吸い上げる流動食しか口にできなかったあの病室の日々を思えば、「温かい液体を、自分の唇の感覚で、普通にすする」というこの当たり前の動作のすべてが、今の彼女にとっては奇跡のような、何よりの救いだった。術後の神経麻痺のせいで、まだ下唇の右端にわずかな違和感が残っていると言っていたけれど、彼女はココアの優しさを確かめるように、じっくりと味わっていた。


「凪くん」


 ココアの缶を見つめたまま、葉月が静かに、けれど決然としたトーンで言葉を紡いだ。


「四月になって、新しいクラスになったら……私、もう優等生のフリをするのはやめるね」


 彼女の新しい声。それは、上顎の瘻孔から鼻へと抜けていた、あの風船から空気が漏れるようなノイズ――「開鼻声」の響きが、完全に消失した声だった。どこからも息が漏れない、純粋で、クリアで、あまりにも綺麗なサ行の摩擦音。


「みんな、私の顔を見てびっくりすると思う。あんなに長い間、お正月の休み明けからもずっと学校を休んで、戻ってきたら骨格ごと変わってるんだもの。『遠野、整形して可愛くなった』って陰口を叩く人もいれば、面白半分で噂をする人も、きっといるかもしれない」


 葉月は自嘲気味に小さく笑った。しかし、その瞳はしっかりと前を見据えている。


「今までの私なら、そんな風に誰かの視線が変わることが怖くて、また完璧な仮面を構築して、誰にも嫌われないように必死に立ち回っていたと思う。でもね……私、もう誰の目も気にしないで、この新しい声で、自分の言葉を喋りたいの。傷跡を隠すために笑うんじゃなくて、本当に嬉しいときに、不器用でもいいから笑いたいの。それは、あの白い病室で、凪くんが私の『努力』を全部肯定してくれたから。不完全な私を、そのまま愛してくれたからだよ」


 夕陽が、西の空を燃えるような琥珀色に染め上げていく。

 その鋭い斜光が、ベンチに座る葉月の横顔を照らし出していた。美しく整えられた彼女の口元、その右の唇の端には、目を凝らさなければ分からないほど薄い、けれど確かな手術の縫合線の跡が、一本の繊細な白い糸のように残っていた。医学的には「修正されるべき傷」なのかもしれない。けれど、凪にとっては、彼女が孤独な暗闇の中で命をかけて戦い抜いてきた、何よりも気高く、美しい人生の勲章だった。


 凪は手の中で缶コーヒーを小さく揺らし、それから、彼女の横顔を見つめたまま言った。


「いいんじゃないか」


 凪の声は、いまも僅かに鼻に抜ける「空気漏れ」の音を含んでいる。世界から隠れるのをやめ、自らの不完全さを受け入れた、水川凪だけの固有の音色。


「葉月が普通に喋るだけで、教室の奴らはみんな黙るよ。噂なんか、葉月のその声の綺麗さにかき消されて、誰も何も言えなくなる。それくらい、今の葉月の声は……葉月が戦って手に入れたその言葉は、誰よりもまっすぐで、綺麗だ」


「……もう、凪くんったら。そういうことを、恥ずかしそうに真っ直ぐ言うのは反則だよ」


 葉月は少しだけ顔を赤くして、困ったように眉を下げた。けれど、すぐにその表情を柔らかいものに変え、そっと視線を自分の膝の上へと落とす。


「……でもね。もし、四月からの新しい生活で、私がまた独りぼっちになりそうになったり、みんなの視線に目眩がしそうになったら」


 葉月は、ココアの熱でしっかりと温まった自分の右手を、そっと伸ばした。そして、ベンチの端で缶コーヒーを握っていた凪の、少し冷えた左手の上に、躊躇いながらも重ね合わせた。


 指先から、お互いの皮膚を通じて、ダイレクトに熱が混ざり合う。36.5℃の、お互いが今ここで生きているという、確かな生身の体温。


「その時は……また放課後、誰もいない写真部の部室で、あのおまじない、言ってくれる?」


 葉月は凪の顔を覗き込んだ。彼女の大きな瞳には、夕陽の光が幾重にも反射して、まるで不完全な虹のように美しく輝いている。


 凪は、重ねられた彼女の手のひらの温もりを感じながら、マスクのなくなった口元で、深く、優しく笑った。


「ああ。何度でも言ってやるよ。葉月がその新しい声に迷って、自分の居場所を見失いそうになったら、僕がいつでも、葉月の名前を呼ぶから。梅昆布茶でも、その甘いココアでも、葉月が落ち着くまで何杯でも淹れてやる」


「うん……約束だよ、凪くん」


 二人の手が、夕闇が迫る駅のホームで、静かに、強くつながった。


 ガコン、と再び遠くの踏切が鳴り響き、二人の関係を祝福するように、夜の帳が竜ヶ崎の街を包み込んでいく。缶ココアの人工的な熱は、やがて冷めて消えてしまうかもしれない。けれど、二人が重ね合わせた手のひらの間で行き交う36.5℃の体温と、この三月の終わりに交わした小さな、確かな約束は、これから始まるどんなに過酷な未来の季節の中にあっても、決して色褪せることなく、二人の歩む道をどこまでも温かく照らし続けていくはずだった。




 つながれた手のひらから伝わる熱は、夕暮れの風がどれほど冷たくとも、決して衰えることはなかった。


 葉月は小さく息を吐き出し、その白い吐息が春の闇に溶けていくのを見つめていた。彼女の指先は、凪の大きな手の節々に触れ、その無骨で、しかしどこまでも実直な形を確かめるように微かに動く。


「ねえ、凪くん。病院を出るときね、お医者様が言っていたの。私の骨はチタンのプレートで強固に固定されていて、これから数ヶ月をかけて、自分の新しい血と肉で完全に癒合していくんだって」


「ああ、レントゲンに写ってたな。複雑な影が」


「うん。私の身体の中に、一生消えない金属の芯が埋め込まれたみたいで、最初は少し怖かった。でもね、今はこう思うの。あのプレートは、私が『普通』になりたくて、完璧になりたくて流したすべての涙を、形にして閉じ込めたものなんじゃないかって。だから、これからはこの骨が、私の新しい土台になる。もう、誰かの評価という頼りない砂の上に、自分の城を建て直すようなことはしなくていいんだって」


 彼女の言葉には、かつて部室の暗闇でテープレコーダーに向かっていた頃の、あの張り詰めた強迫観念はなかった。自分の不完全さを自傷行為のように監視していた少女は、この三月のモラトリアムの中で、確かに大人の階段を上り始めていた。


 凪は、彼女の手を包む力をほんの少しだけ強めた。彼の親指が、彼女の手の甲にある、点滴の針の跡――まだ完全に消えきっていない小さな、青い痕跡をそっと撫でる。


「葉月の身体の中に埋まった金属が、葉月の努力の証なら」凪は静かに、自分の開鼻声の響きを恐れることなく言葉を続けた。「僕のこの顔にある傷は、葉月という光を見つけるための道標だったんだと思う。もし僕が、何不自由なく、綺麗な声と綺麗な顔で生まれていたら、きっと教室の隅で葉月が隠していた『空気漏れの音』になんて気づけなかった。葉月が完璧な優等生の仮面を被って、一人で息を詰まらせていることに、見向きもしなかったはずだ」


 凪の視線は、遠くの線路の先、夜の闇へと消えていく並行な二本の鉄路に向けられていた。


「だから、葉月が手に入れた『完璧な結果』も、僕が守り続けると決めた『不完全な現実』も、どっちも間違ってない。僕たちは、お互いの傷を鏡にして、ここまで歩いてこられたんだから」


 葉月は、凪の言葉を噛みしめるように、もう一度缶ココアを小さく口に含んだ。すでにぬるくなり始めた茶色の液体は、ひたすらに甘く、彼女の喉を優しく潤していく。


「写真部の部室、四月からも二人のままだといいな」


 葉月がぽつりと言った。


「新入生が入ってきたらどうする?」


「うーん……それはそれで歓迎するけど、でも、あの現像液の酸っぱい匂いがする部屋で、二人だけで静かに写真を並べている時間が、私は一番好きなの。凪くんがカメラを構えて、ファインダー越しに私を見てくれるとき、私は世界で一番、自分が『ここにいていいんだ』って思えるから」


「……新入生が入ってきても、現像室は二人だけのものだよ」


 凪が少し照れくさそうに視線を外すと、葉月は「ふふ、約束ね」と、いたずらっぽく笑った。その笑顔の非対称性は、手術によってほぼ消失していたが、彼女が心から見せる生々しい感情の揺らぎは、どんな精密な外科手術でも切り取ることのできない、彼女だけの固有の魅力だった。


 ホームのスピーカーから、上り列車が接近することを示す、電子的なメロディが流れ始めた。

 ガタゴトと音を立てて、闇の向こうから二筋の強い光が近づいてくる。ヘッドライトがベンチに座る二人を強烈に照らし出し、二人の影を背後の錆びついたトタン壁に大きく映し出した。


「列車、来ちゃうね」


 葉月は名残惜しそうに言いながらも、ベンチから立ち上がった。その手は、まだ凪の手を離そうとはしなかった。空になったココアの缶を駅のゴミ箱に捨てるその一瞬の動作の間だけ、二人の体温の繋がりが途切れる。しかし、再び歩き出したとき、どちらからともなく、当然のようにまた指先が絡み合った。


「凪くん、始業式の日の朝、いつもの川沿いの土手で待ってるから」


 列車のドアが開き、数人の乗客がまばらに降りていく中、葉月はステップに足をかける直前、振り返って凪を見つめた。


「新しいクラスが離れちゃっても、私の名前、最初に呼んでね。その綺麗な、凪くんだけの声で」


「ああ。真っ先に呼びに行く」


 凪の確かな答えを聞くと、葉月は満足そうに微笑み、車内へと消えていった。プシューという音とともに重い扉が閉まり、列車は再び夜の闇の中へと滑り出していく。窓ガラス越しに、葉月が小さく手を振っているのが見えた。彼女の唇が「またね」と動く。


 凪は、自分の左手に残る、ココアの甘い匂いと、彼女の36.5℃の熱の余韻をじっと見つめていた。


 一人残されたホームは、さっきよりもずっと広く、冷たく感じられた。しかし、凪の胸の奥には、以前のような冷たい空虚の穴はもうなかった。そこには、三月の冷たい風にも決して消されることのない、小さな、しかし強固な未来への灯火が宿っていた。


 マスクを外した彼の顔に、夜風が吹きつける。瘢痕がかすかに引きつるような感覚。しかし、凪はもう、その痛みを忌むべきものとは思わなかった。


(行こう、四月へ)


 凪は愛用のフィルムカメラをポケットの中で深く握りしめ、誰もいない改札口へと向かって、確かな一歩を踏み出した。二人の不完全で、けれど誰よりも美しい新しい季節が、間もなく幕を開けようとしていた。


よろしくお願いします。

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