第2話:二人のテープレコーダー、消去ボタンを押す前に
放課後の写真部部室は、三月中旬の曖昧な夕暮れに沈んでいた。
春休みは、部活としての公的な活動はすべて停止している。誰もいない廊下からは、時折吹く強い春の突風が窓枠をガタガタと揺らす音だけが聞こえ、それがかえって部室の中の静寂を際立たせていた。
水川凪は、暗室の赤いセーフライトを消し、蛍光灯のスイッチを入れた。チカチカと不規則に瞬いた後、白い光がプラスチックの机や、現像液の匂いが染み付いたパイプ椅子を無機質に照らし出す。
「……あ」
部屋の隅、現像タンクが並ぶ棚の片隅に、見慣れない四角い影があることに凪は気づいた。
それは、灰色のがっしりとしたプラスチック製のポータブルカセットレコーダーだった。
家電量販店で数千円で売られているような、何の変哲もない、むしろ少し時代遅れの電子機器。しかし、凪はその筐体を見た瞬間、喉の奥がキュッと締め付けられるような錯覚を覚えた。
それは、遠野葉月がかつて「優等生」としての完璧な仮面を維持するために、自らに課していた自己監視の道具――いや、呪いの依代だった。
彼女は誰もいない屋上や、鍵の閉まったこの部室で、このレコーダーのマイクに向かって何度も何度も声を吹き込んでは、テープを巻き戻し、自分の発音をチェックしていた。サ行やタ行を口にするとき、上顎の穴(瘻孔)から鼻へと抜けてしまう微かな「空気漏れ」の音。それを彼女は、自身の存在の『不完全さ』として激しく憎み、まるで自らの肉体を針で突き刺すように、その音を聴き続けていたのだ。
ガララ、と引き戸が開く。
「お待たせ、凪くん。職員室の用事、思ったより長引いちゃって」
入ってきたのは、他ならぬ葉月だった。
彼女の髪は、相変わらず均一に手入れされ、肩甲骨の下まで滑らかに流れている。しかし、規定の制服の襟元から覗く首筋や、すっきりと整った顎のラインは、一月の手術を経て、完全に「普通で完璧な構造」へと変わっていた。パンパンに腫れ上がっていた病室での日々が嘘のように、今の彼女の横顔は、彫刻のように美しい。
「……それ」
葉月は凪の視線を追い、棚の上のレコーダーを見つめた。彼女の澄んだ瞳が一瞬だけ細くなり、過去の痛みの記憶をなぞるように揺れる。
「あ、まだ置いてあったんだ。……入院する前に、部室の引き出しの奥に隠したままにしておいたの。忘れてたわけじゃないんだけど、なんとなく、引き取りに来るのが怖くて」
葉月は自嘲気味に微笑むと、迷いのない足取りで棚へ近づき、その灰色の機械を両手で持ち上げた。
指先が、カセットレコーダーのザラついたプラスチックの表面をなぞる。
「凪くん。私ね、もうこれ、捨てようと思うの」
彼女はレコーダーを机の真ん中に置いた。カツン、と硬い音が響く。
「骨を切って、噛み合わせを直して、お医者様からは『もう発音に問題はない』って言われた。実際に、今の私は、あの頃みたいに必死になって口元をコントロールしなくても、普通の音が、普通に出せるようになったわ。だから、自分を監視するためのこの機械は、もう必要ないの」
彼女の声には、サ行の摩擦音が鼻に抜けるノイズ――あの風船から空気が漏れるような寂しい響きは、微塵も存在しなかった。完璧にクリアで、淀みのない、教科書のような美しい発声。
「でもね」と、葉月はレコーダーの『録音』ボタンに指を添えた。「捨てる前に、最後にひとつだけ、お願いがあるの。今の私の声を、このテープの中に残しておきたくて。……過去の、あの暗闇の中で泣いていた私に、今の声を届けるみたいに。凪くん、隣で聞いていてくれる?」
「ああ」
凪は静かに頷き、彼女の正面のパイプ椅子に腰掛けた。
彼の顔には、もうマスクはない。鼻の下から上唇にかけて走る、口唇口蓋裂の手術痕である人中の瘢痕が、夕暮れの光の中に晒されている。不完全なままの世界を生きると決めた凪と、完璧な手術を経て過去を捨てようとする葉月。二人の視線が、灰色のレコーダーを挟んで真っ直ぐに交わった。
カチャ、とプラスチックの重いスイッチが押し込まれる音がした。
シー――。
テープが磁気ヘッドに擦れる、特有の低いヒスノイズが部室の中に流れ出す。レコーダーの小さな赤いLEDランプが点灯し、現在、この部屋のすべての音が、過去の呪縛が染み付いたテープへと記録され始めていることを告げていた。
葉月は一度、深く息を吸い込んだ。
彼女の胸元が大きく上下する。その呼吸の音すら、以前のようなくぐもった響きはなく、完全に開通した気道を通る、健やかな人間の音だった。
彼女は小さな内蔵マイクへと顔を近づけ、唇を開いた。
「――サクラ」
彼女が最初に口にしたのは、その言葉だった。
サ、という子音。舌の先と歯茎の隙間から、摩擦された空気が勢いよく前方へと弾け出る。かつてなら、その空気の半分は、制御を失って鼻腔へと逃げ出し、微かな「スーーーッ」という風の音を混ぜていたはずだった。
けれど、今の彼女の「サ」は、硬く、鋭く、完璧だった。どこからも息は漏れない。純粋な音響学的な正解だけが、部室の壁に反射する。
「サヨナラ」
次に彼女はそう言った。
ヨ、ナ、ラ。それぞれの音が、理想的な顎の配置と、再構築された口蓋の骨によって、歪みなく響く。
「……ミズカワ」
最後に、彼女は少しだけ声を震わせ、凪の苗字を呼んだ。
高校二年の春、この部室で初めて出会ったとき、彼女が「水川くん」と呼んだあの瞬間の声とは、物理的に全く異なる音が、マイクに向かって吸い込まれていく。
葉月は発音を終えると、ふっと肩の力を抜き、レコーダーの『一時停止』ボタンを押した。
シーというノイズが止まり、部屋は再び三月の静寂に包まれる。
「……どう、かな」
葉月は、凪の反応を恐れるように、下唇を小さく噛んだ。
「綺麗だ」と、凪は率直な事実を口にした。
「どこからも、息が漏れてない。完璧な、サ行の音だ」
「うん。自分でも分かるの。頭の骨の奥で響く音が、すごくクリアだから。……でもね、凪くん」
葉月は湯呑みを持つように、レコーダーの側面に両手を添えた。その手のひらは、微かに震えている。
「完璧なのに、すごく寂しいの。あの、鼻の奥に空気が抜けていくときの、ちょっとくすぐったくて、もどかしい感覚が、私の身体から完全になくなっちゃったんだって思うと……なんだか、自分の一部を、病院のベッドに置き忘れてきちゃったみたいで」
彼女の瞳に、夕暮れの琥珀色の光が溜まっていく。
「あの『空気漏れ』の音は、私が世界で一番嫌いな音だった。私を傷つけて、私を孤独にする、呪いの音だったはずなのに。……でも、あの音があったから、凪くんは私を見つけてくれた。あの不完全な音のおかげで、私たちは『共犯者』になれた。そう思うとね、この綺麗すぎる自分の声が、まるで他人の服を着せられているみたいに、冷たく感じちゃうのよ」
彼女が命をかけて手に入れた「普通」は、彼女の過去の苦闘のすべてを肯定してくれるわけではなかった。むしろ、ノイズが消え去ったことで、彼女がこれまで暗闇の中で流してきた血と汗の記憶さえも、この完璧な音の波が洗い流してしまうかのような、強烈な喪失感が彼女を襲っていたのだ。
外見がどれだけ美しくなろうとも、彼女の心の本質は、あの白い病室で、一人きりで痛みに耐えていた小1の女の子のままだった。
凪は、彼女の手が放つかすかな震えを見つめていた。
彼は知っている。葉月がどれほどの覚悟で手術室のドアをくぐったか。術後、ワイヤーで縛られた口元で、どれほど苦しそうに呼吸をしていたか。そのすべての過程を、凪は彼女の傍らで、その目に焼き付けてきたのだ。
「葉月」
凪は静かに呼びかけ、レコーダーの一時停止ボタンを解除した。
カチャ。再び、低いヒスノイズが部屋を満たす。
凪は、灰色のレコーダーへと顔を近づけた。彼はマスクをしていない。彼の口唇の傷跡は、春の光の中で赤みを帯びて見えている。そして、彼が口を開いたとき、その声は、葉月のそれとは対照的に、いまも僅かに鼻に抜ける「開鼻声」の響きを色濃く残していた。
世界から隠れるのをやめた、水川凪の、不完全で、けれど圧倒的に生々しい固有の音色。
凪はマイクに向かって、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「――お帰り、葉月」
その「お帰り」の、特に行音の響きの中に、微かな空気の漏れが混ざる。それは、彼らが幼い頃から共有してきた、あの地獄と同じ場所から響いてくる音だった。
葉月が息を呑み、両目から大粒の涙を溢れさせた。
「凪くん……」
「葉月のサ行は、もうどこからも漏れない。それは、葉月が自分の力で勝ち取った、本当に美しい結果だ」
凪はレコーダーを見つめたまま、語りかけるように声を重ねていく。テープの上で、葉月の完璧な声と、凪の不完全な声が、同じ磁気粒子の上に混ざり合い、上書きされていく。
「でも、音が綺麗になったからって、葉月がこれまでに積み上げてきた努力が消えるわけじゃない。このレコーダーに向かって、葉月がどれだけ泣きながら発音の練習をしてきたか。その痛みを、その孤独を、僕は全部覚えている。葉月の声からノイズが消えても、僕の声の中には、いまも葉月と同じ音が残っているから」
凪は手を伸ばし、レコーダーのプラスチックの筐体の上から、葉月の震える手をそっと包み込んだ。
彼の36.5℃の体温が、彼女の冷え切った指先へと伝わっていく。
「完璧にならなくていいんだよ、葉月。綺麗になったその身体で、今度は、もっと楽に息をしてくれればいい。葉月がどんな声になっても、僕がここで、葉月の名前を呼び続けるから」
「……っ、う、あ……」
葉月はもう、優等生の顔を維持することができなかった。
彼女は机に伏せるようにして、子供のように声を上げて泣いた。その泣き声は、術後の口元の傷を庇うように少し歪んでいたけれど、これまでのどんな完璧な笑顔よりも、生々しく、 人間らしい感情に満ちあふれていた。
凪は彼女の手を握ったまま、ただ静かに、テープが回り続ける音を聞いていた。
不完全な凪の声が、完璧になった葉月の心を受け止める。その二人の呼吸の音が、夕暮れの部室の中で、ゆっくりと重なり合っていく。
#### 4.消去ボタン、新しい僕らの宣誓
どれだけの時間が流れただろうか。
窓の外の琥珀色の光は、次第に濃い紫色の夜の帳へと移り変わろうとしていた。
葉月はゆっくりと顔を上げ、涙に濡れた目を拭った。彼女の右の唇の端に残る、薄い手術の縫合線の跡が、夕闇の中で微かに光を反射している。
「……ごめんね、凪くん。せっかく綺麗にしてもらったのに、またこんなに泣いちゃって」
「構わない。葉月が泣くのは、生きてる証拠だろ」
凪は微笑み、ポケットからティッシュを取り出して彼女に手渡した。葉月はそれを受け取り、小さく鼻をすすりながら、机の上のレコーダーを見つめた。
テープは、すでに片面の終端まで回りきり、カチリ、と自動で停止していた。
「このテープの中にはね」と、葉月は赤くなった目でレコーダーのボタンに触れた。「私の、一番苦しかった頃の、醜くて、寂しい声がたくさん入ってる。……それから、さっき凪くんが言ってくれた、世界で一番優しいおまじないの声も、入ってる」
彼女は、レコーダーの『消去(あるいは早送り)』のレバーを見つめた。
「これを消しちゃったら、あの苦しかった私も、凪くんの声も、全部消えちゃうのかな」
「消えないよ」
凪は、彼女の手の上に、もう一度自分の手を重ねた。
二人の指先が、レコーダーの『消去ボタン』と、カセットを取り出すための『イジェクトボタン』の真上で交差する。
「テープを消しても、僕たちの身体には、その傷も、努力の跡も、全部残ってる。これからは、機械の音を聴き直す必要なんてないんだ。僕がいつでも、葉月の目の前で、その声を聴いているから」
「……うん」
葉月は深く、深く頷いた。
彼女の口元には、もう怯えはなかった。歪みを受け入れた凪の強さと、新しく生まれ変わった自分の肉体を、今、本当の意味で結びつける覚悟が、その瞳に宿っていた。
「じゃあ……一緒に押して、凪くん」
「ああ」
二人は息を合わせ、指先に力を込めた。
カチャリ、という、これまでで一番大きなプラスチックの音が響く。
それは、過去の自己監視という名の「自傷行為」との、決定的な決別の音だった。レコーダーの蓋が開き、中に収められていた古いカセットテープが、小さな爪に押し上げられて、コロンと机の上に転がった。
葉月はそのテープを拾い上げ、もう二度と巻き戻されることのないプラスチックの塊を、愛おしそうにギョッと握りしめた。
「サヨナラ、私」
彼女の声は、どこまでも澄んでいた。息の漏れない、完璧な発音。けれど、その音の奥には、水川凪という共犯者によって与えられた、確かな「36.5℃の体温」が宿っていた。
部室の窓の外、夜の静寂が広がり始めていた。
まだ冷たい春の風が、暗くなった窓ガラスを叩く。しかし、サクラが漏れるようなあの寂しい部屋の中で、二人の新しい時間は、もう誰にも邪魔されることなく、静かに、そして確かに回り始めていた。彼らにとって最後の高校生活、青い季節の始まりを告げる、四月の始業式へ向かって。
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