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第1話:おまじないの味と、春休みの調律

 

 三月の終わりという季節は、いつも世界に居心地の悪いうわついた空気を強いる。


 窓の外では、まだ固い蕾を残した地元の川沿いの桜並木が、湿った春の風に身を硬くして震えていた。坂の多いこの街を包む空気は、冬の名残を含んだ冷たさと、新学期を控えた気だるい生暖かさが奇妙に混ざり合い、どこか落ち着かない。


 高校二年生の終業式を終え、春休みに入ってからの一週間、水川凪の自室は、世界の喧騒から切り離された潜水艇のようになっていた。


 六畳間の床には、現像を終えたばかりのモノクロの印画紙が数枚、新聞紙の上に並べられて乾燥を待っている。かつて世界を白黒のコントラストだけで固定しようとしていた凪のカメラは、いまも彼の傍らにあったが、そのファインダーが捉えるべき色彩は、この数ヶ月で劇的に変化しつつあった。


 エアコンの低い唸り声だけが響く静寂の中で、凪は机の上の古い二眼レフカメラのレンズを磨いていた。だが、その指先は時折、不自然に動きを止める。


 視線の先には、凪のベッドの端に腰掛け、小さな文庫本を広げている遠野葉月の姿があった。


「……ねえ、凪くん」


 葉月がページをめくらずに、ぽつりと声を漏らす。


 その声を聞くたびに、凪の胸の奥には、名前のつかない小さな痛みが走る。

 彼女の声は、かつて高校の屋上や古い写真部の部室で聞いたものとは、物理的に「違って」いた。


 サ行やタ行を口にする際、上顎の瘻孔ろうこうから鼻の奥へと抜けていた、あの微かな「空気漏れ」の音――風船に小さな針穴を開けたような、寂しくて愛おしいあのノイズが、今の彼女の声からは完全に消失している。


 一月の初めに行われた顎矯正手術(ル・フォーI型骨切り術、および下顎枝矢状分割術)。骨を切り、数ミリ単位で位置をずらし、チタン製のプレートとスクリューで強固に固定する大手術を経て、彼女の骨格は医学的に「普通で完璧な構造」へと再構築された。


 術後、上下の歯をワイヤーでガチガチに縛り上げる過酷な「顎間固定」の期間を乗り越え、液体状の流動食しか口にできなかった数週間を経て、彼女は確かに生還したのだ。


 パンパンに腫れ上がっていた頬や顎のラインは、三月の終わりを迎えた今、見事に引き締まっている。僅かに下顎が後退していたかつてのプロファイル(横顔)は修正され、まるで精密なデッサン画のように美しく整っていた。優度生としての仮面を必要としない、文字通りの「完成形」が、そこにはあった。


 だが、葉月は本に目を落としたまま、親指の腹で自分の下唇のあたりを何度も何度も、なぞるように触っている。それは、術後リハビリの開口訓練を始めて以来、彼女が完全に無意識に行うようになった、新しい「癖」だった。


「どうした?」


 凪はレンズクロスを置き、自分のマスクのない顔を彼女に向けた。


 凪自身の顔の下半分――鼻の下から上唇にかけて走る、口唇口蓋裂の修正手術の跡である人中の瘢痕はんこんは、春の淡い光の中に剥き出しのまま晒されている。高校二年の夏、葉月との「共犯関係」を結んで以来、彼は世界に対する防具であった白い不織布のマスクを外した。自分の傷を受け入れた凪と、自らの骨を削って戦った葉月。


「……ううん。なんでもないの」


 葉月は顔を上げ、凪に向かって微笑んだ。


 だが、その微笑みを見た瞬間、凪は胸の筋肉が硬直するのを感じた。

 彼女の笑顔は、息をのむほど綺麗だった。歪みのない左右対称の唇、理想的な噛み合わせがもたらす自然な口元の締まり。


 しかし、その口角の上がり方は、どこかぎこちない。まるで、動かし方を忘れてしまった精密機械のパーツを、頭の中で必死に計算しながら動かしているかのような、かすかな「遅れ」がそこにはあった。


「ただね」と、葉月は文庫本を閉じ、膝の上できゅっと握りしめた。「自分の声が、まだ耳の奥で響くときに、他人のものみたいに聞こえるの。サ、って言うとき、ここに空気が当たらないのが、なんだか、すごく変な感じで」


 彼女は自分の人中のあたり――かつてあった、細い縫合線の痕跡を指先で隠すように触れた。


「完璧な顔を手に入れたはずなのにね。骨の形も、噛み合わせも、お医者様が『これ以上ないくらい完璧だ』って言ってくれたのに。……私は私のままなのに、まだ何かが足りない気がするの。時々、地面がぐにゃりと歪むみたいに、静かな眩暈がするのよ、凪くん」


 その瞳は、澄み切っていながらも、深い霧の底を見つめているように怯えていた。外見の歪みが消え去った代わりに、彼女の心の中には、肉体を削り取られたことによる「空虚な穴」がぽっかりと残されていた。



 凪は黙って立ち上がり、部屋の隅にある小さな電気ケトルに水を注いだ。


 いつもなら、写真部の部室で淹れるような、少し渋めの煎茶を準備するところだった。しかし、凪は引き出しの奥から、アルミの小さな小袋を取り出した。それは、昨夜、地元のスーパーの棚で見つけて、なぜか気になって買っておいたものだった。


「……それ、お茶?」


 葉月がベッドの上で、少しだけ首を傾げる。その動作に合わせて、均一に手入れされた黒髪が滑らかに揺れた。


「梅昆布茶」と、凪は短く答えた。


「珍しいね。凪くん、いつもは緑茶なのに」


「なんとなく。お前の今の喉には、こっちの方がいいかと思って」


 ケトルがゴボゴボと低い音を立てて沸騰し始める。凪は二つの陶器の湯呑みに粉末を落とし、熱湯を注いだ。


 一瞬にして、部屋の中に塩気を含んだ、豊かでどこか懐かしい香りが広がった。昆布の深い旨味の奥に、微かな梅の酸っぱさが混ざり合う。それは、洗練されたお洒落なカフェの香りとは対極にある、生活の体温が染み込んだような、泥臭くて温かい匂いだった。


「はい」


 凪は湯呑みの一つを、葉月の前に差し出した。

 葉月は本を置き、両手で包み込むようにして湯呑みを受け取る。まだ術後の神経麻痺が完全に抜けていない彼女の指先は、熱い湯呑みの温度を確かめるように、じっと動かなかった。


「温かい……」


「少し冷ましてから飲めよ。まだ、感覚が鈍いだろ」


「うん。でも、この匂い、すごく落ち着く」


 葉月は湯呑みに口元を近づけ、ふー、と息を吹きかけた。その時の彼女の唇の形を、凪は凝視した。


 手術によって、彼女の上下の顎のバランスは劇的に改善された。しかし、神経が再接続される途上にある彼女の唇は、息を吹きかけるという単純な動作の時すら、どこか不器用な緊張を孕んでいる。


 彼女は、小さく唇を開き、梅昆布茶を一口、 喉へと流し込んだ。


「……あ」


 葉月は動きを止め、驚いたように目を見開いた。


「どうした? 酸っぱすぎたか?」


「違うの。……味が、すごくハッキリ分かるの。これまで、入院中に飲んでた流動食とか、おかゆとか、全部味が薄くて、何を食べてるのか分からなくて。……この梅昆布茶、すっごく濃くて、しょっぱくて、それから、胸の奥がじんわり熱くなる」


 彼女の口元から、ふっと緊張の糸が切れたような気がした。


 だが、湯呑みを置いた葉月の顔は、すぐにまた曇った。彼女は自分の頬を、両手のひらで包み込むようにして押し込む。


「ねえ、凪くん。私ね、退院して学校の書類を出しに行ったとき、担任の先生に『遠野、すっかり綺麗になったな』って言われたの。クラスのLINEでも、みんなが『早く会いたい』って言ってくれて。……でもね、私、怖くなっちゃったの」


「怖くなった?」


「みんなが待っているのは、この『新しくて完璧になった遠野葉月』なんだって思ったら、口を開くのが怖くなっちゃった。もし、話したときに、昔みたいに上手く喋れなかったら? 骨の形が変わったのに、私の喋り方の癖のせいで、また変な音が漏れたら? ……そしたら、みんな、がっかりするんじゃないかって」


 彼女の声が、微かに震え始める。


「完璧を求めて、あんなに痛い思いをして、骨まで切ったのに。私はまだ、誰かの目を気にして、怯えてる。優等生の仮面を外したはずなのに、今度は『完璧な結果』っていう新しい仮面に、自分が乗っ取られそうになっているの。私の中にいる、あの『小1の時に病院のベッドで泣いていた不完全な私』は、どこに行っちゃったんだろう……」


 ぽつり、と。

 彼女の瞳から溢れた涙が、まだ熱い梅昆布茶の水面に落ちて、小さな波紋を作った。


 彼女が命をかけて手に入れた「普通」は、決して彼女の過去の傷を自動的に消し去ってはくれなかった。むしろ、外見が完璧になったからこそ、内側に取り残された「傷だろけの自己」との解離が、彼女を深い眩暈へと突き落としていたのだ。


 凪は、自分の湯呑みを机に置いた。


 彼の心の中にあったのは、同情ではなかった。それは、激しい愛惜と、彼女の戦いに対する最大級の敬意だった。


 凪はベッドに近づき、葉月の正面に腰掛けた。

 二人の距離が、急速に縮まる。春の淡い光が、二人の横顔を等しく照らしていた。凪の目には、葉月の右の唇の端に、極めて薄く残っている縫合線の跡が見えた。医学的には「綺麗に消失する」と言われたその線が、凪には、彼女が戦い抜いた証のラインに見えて仕方がなかった。


「葉月」


 凪は静かに名前を呼んだ。

 彼自身の声は、口蓋の瘻孔のせいで、いまも僅かに鼻に抜ける「開鼻声」の響きを持っている。世界から逃げるのをやめた彼の声は、不完全だが、重く、確かな体温を持って室内に響いた。


 葉月が涙を湛えた目で、凪を見上げる。


 凪はゆっくりと手を伸ばし、彼女の頬に触れた。


「あ……」


 葉月が小さく息を呑む。

 凪の指先が、彼女の冷たくなった頬の皮膚へと触れる。そこは、数ヶ月前に外科医のメスが入り、骨を固定するプレートが埋め込まれている場所の、ちょうど真上だった。


 指先から伝わってくるのは、彼女の生々しい体温と、皮膚の奥にある、まだ少し強張った筋肉の感触。


 凪は、逃げなかった。かつて高校の屋上で、葉月が自分のマスクを外し、その不器用な指先で凪の唇の傷に触れてくれた、あの日の一瞬が脳裏をよぎる。あの時、彼女は凪の痛みをすべて引き受けるように、その指先で凪を「肯定」してくれたのだ。


 今度は、僕の番だ。


 凪は親指の腹で、彼女の涙をそっと拭い、そのまま彼女の口元の小さな傷跡のあたりへ、優しく指を滑らせた。


「形が変わっても、変わらなくても、君の努力の跡はここにある」


 凪の声は、少しも揺れなかった。


「骨の位置が数ミリ動いたとか、顔の腫れが引いたとか、そんな結果はどうでもいいんだ。僕が本当に愛したのは、君がその不完全な自分を必死に覆い隠し、完璧になろうともがいた、あの壮絶な過程そのものなんだよ」


「凪くん……」


「誰も気づかなかったサ行の『空気漏れ』の音を、君が裏でどれだけ血を吐くような思いで練習して、隠してきたか。優等生という仮面を命懸けで守りながら、それでも僕に会いに来てくれた、あの孤独な戦いを、僕は全部知っている。この世界の誰も忘れたとしても、僕がそれを全部、覚えているから」


 凪の指先から、彼女の頬へと、確かな熱が移動していく。

 それは、36.5℃の、人間の生身の体温だった。医療器具の冷たさでも、レントゲン写真の白黒の影でもない、水川凪という一人の男の、魂の温度。


「君の中にいる『不完全な女の子』は、どこにも消えてないよ。ここにいる。僕の目の前で、今こうして泣いている君が、僕の好きな遠野葉月だ。だから、新しい顔を怖がる必要なんてない。完璧になんてならなくていいんだ。ただ、君が生きやすくなるために、その身体を使ってくれればいい」


 凪の言葉は、まるで冷え切った彼女の口元を溶かしていく「おまじない」のようだった。


 葉月は、凪の指の温もりを拒むことなく、むしろ自分からその手に頬を預けるようにして、深く目を閉じた。彼女の身体から、張り詰めていた無駄な力が、ゆっくりと抜けていく。


「……しょっぱいね」


 葉月は目を閉じたまま、かすれた声で笑った。


「梅昆布茶のことか?」


「ううん。凪くんの手が、あったかくて、それから、私の涙の味が、すごくしょっぱいの。……生きてるんだなって、思う。骨を切って、私の顔が変わっても、凪くんがこうして私の傷を見つけてくれるなら、私はどこにだっていける気がする」


 彼女がゆっくりと目を開けたとき、その口元は、これまでの「練習された完璧な笑顔」ではなかった。

 右の唇の端が、ほんの少しだけ歪んで、けれど親愛と受容に満ちた、人間らしい、少し崩れた、圧倒的に愛おしい微笑みだった。


 二人の間にある空気の「調律」が、静かに、けれど決定的に完了した瞬間だった。


 窓の外では、いつの間にか風が止み、雲の切れ間から春の柔らかな陽光が差し込み始めていた。

 その光は、凪の部屋の古い窓ガラスを透過し、机の上の二つの湯呑みを、琥珀色の優しい光で満たしていく。


 葉月は、もう一度梅昆布茶を口にした。今度は、さっきよりもずっと滑らかに、喉の奥へと音が響く。


「おいしい」


「そうか。また買ってきてやるよ」


「うん。約束ね。……新学期が始まったら、私、写真部の部室にも、この梅昆布茶、持って行くから」


「部室が昆布臭くなるな」


「いいじゃない、二人だけの部室なんだから」


 葉月はくすくすと笑いながら、湯呑みを両手で大切そうに持ち直した。


 彼女の新しい骨格は、これから数ヶ月、数年をかけて、彼女の肉体と精神にゆっくりと馴染んでいくだろう。その過程には、きっとまだ多くの不安や、他人の視線に対する怯えが待ち受けているに違いない。


 けれど、彼らにはもう、世界が押し付ける「完璧さ」というルールは必要なかった。

 不完全な声のまま真実を紡ぐ凪と、手に入れた完璧さの裏にある「傷の価値」を知った葉月。二人は、その不揃いな呼吸のまま、互いを調律し合いながら生きていく。


「さあ、冷めないうちに飲んじゃおう」


 葉月は、凪に向かって、もう一度笑ってみせた。

 その口元には、春の光のような、確かな体温が宿っていた。


 二人が高校三年生という、最後の青い季節の始業式を迎えるまで、あと数日。

 サクラの蕾が綻ぶ直前の、静かな静かな三月の終わりに、二人の「新しい共犯関係」は、温かい湯気の向こう側で、静かにその一歩を踏み出していた。


新章に入りましたが、連番で第23話と記載するか、新しく第1話として書くか悩んだ末、新しく第1話として書くことにしました。


よろしくお願いいたします(*- -)(*_ _)ペコリ

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